松代藩(読み)まつしろはん

百科事典マイペディア 「松代藩」の意味・わかりやすい解説

松代藩【まつしろはん】

信濃国埴科(はにしな)郡松代(現長野市)を城地とし,埴科・更級(さらしな)・水内(みのち)・高井(たかい)の信濃国川中島4郡(奥4郡とも)を主な領地とした藩。織田信長が武田氏を滅ぼした後,川中島4郡は森長可(ながよし)−上杉景勝が支配,次いで田丸直昌(4万石)が海津(かいづ)城(松代城)に入って統治した。1600年田丸直昌に替わって譜代森忠政が13万7500石で入部,その後藩主は松平忠輝親藩)−松平忠昌(親藩,12万石)−酒井忠勝(譜代,10万石)と変遷。なお松平忠輝は1610年越後福島城60万石(領知高には諸説あり)に移り,海津城には城代を置いた。1622年酒井忠勝は出羽国鶴岡藩に移り,外様大名真田信之が入封,以後は真田氏が継いで10代幸民(ゆきもと)のときに廃藩置県。真田氏の領知高は初め13万石,分知などを経て1648年以降は10万石。上級家臣の地方(じかた)知行幕末まで続いた。藩財政は初め裕福であったが,度重なる課役や1717年の松代大火などで悪化,18世紀半以降,幾度か藩政改革が試みられた。真田氏8代幸貫(ゆきつら)は佐久間象山を重用,文武奨励・産業振興政策を執り,また老中として幕閣に列した。戊辰戦争では新政府軍に加わる。

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改訂新版 世界大百科事典 「松代藩」の意味・わかりやすい解説

松代藩 (まつしろはん)

江戸時代,信濃国(長野県)埴科郡所在の松代城(海津城,川中島城)を拠点とし川中島4郡内を藩域とした藩。藩主は森長可-(上杉景勝)-田丸直昌-森忠政-松平忠輝-松平忠昌-酒井忠勝と変転したが,1622年(元和8)外様大名真田信之の松代入封によって固定化し,連綿廃藩に及んだ。真田松代藩の初期知行高は13万石,うち3万石は支藩上州沼田領だったが81年(天和1)除封。信州10万石の内高は12万2000石前後,その内訳は藩蔵入地60%対藩士地頭知行所40%,1741年(寛保1)以降は藩の半知政策の恒常化により80%対20%に変移した。家臣団数は2000人前後,藩軍役規定による陪臣団数は約1600人。直臣団2000人の内訳は知行取13%対蔵米取87%。知行取約260人の地方知行高は最高1400石,最低50石,最多階層は100石台である。知行所は分散相給形態で分布しており,その支配機構は藩蔵入地の代官-名主方式に対して地頭-蔵元方式をとっている。藩政の基礎を固めた初代信之時代には遺金27万両をみるほどの財政状態だったが,3代幸道時代にこれを費消,しだいに窮迫化していった。近世後期は藩主7代を数えるが,その間藩政改革として寛保~寛延期(1741-51)の側用人家老原八郎五郎の改革,宝暦期の家老恩田木工(もく)の改革,文政~嘉永期の藩主(1823-52)幸貫(1791-1852,松平定信の次男)の改革が行われ,幸貫の佐久間象山登用,幕政天保改革の老中出仕(1841-44)などもみられた。幸貫の死後は家老恩田・真田両派の派閥抗争が激化し幕末まで尾を引いた。藩政改革では倹約綱紀粛正,文武奨励をはじめ半知借上制,月割貢納制,産業振興・藩専売制などの実施をみたが財政好転に至らず,藩債は文政~弘化期2万~3万両,嘉永期8万~9万両,万延~慶応期20万~37万両,1869年(明治2)143万両にのぼった。10代藩主幸民は慶応~明治初期に勤王方につき,北越などに転戦したが政局への役割は大でなかった。71年松代県となり,同年末長野県に併合
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松代藩」の意味・わかりやすい解説

松代藩
まつしろはん

信濃(しなの)国埴科(はにしな)郡松代城(海津(かいづ)城、松城(まつしろ)城とも。長野市松代町)を本拠として北信濃を領有した藩。1598年(慶長3)上杉景勝(かげかつ)の会津移封後、豊臣(とよとみ)大名田丸直昌(たまるなおまさ)が4万石で入封したのが最初。1600年(慶長5)徳川家康は森忠政を入れ、北信濃4郡(更級(さらしな)、埴科、高井、水内(みのち))一円13万7500石を与え、上杉、真田(さなだ)氏に備えさせた。関ヶ原の戦い後、森氏は総検地を遂行し石高(こくだか)制を確立した。1603年家康の六男松平忠輝(ただてる)が4郡一円に入封、大久保長安(ながやす)が施政采配(さいはい)を振るった。忠輝の改易後、1616年(元和2)松平忠昌(越前(えちぜん)家)12万石、18年酒井忠勝10万石を経て、22年真田信之(信幸)(のぶゆき)が上田から移された。真田氏は、上野(こうずけ)国沼田領(群馬県)とあわせて13万5000石。信之は93歳で死没するまでに藩政の基礎固めを果たした。1656年(明暦2)次子信政が松代領、長子信吉の子信利が沼田領を継ぎ、その後沼田領が改易されて松代藩領は4郡10万石、95か村に固定した。信政のあと、幸道(ゆきみち)、信弘、信安、幸弘(ゆきひろ)、幸専(ゆきたか)、幸貫(ゆきつら)、幸教(ゆきのり)、幸民(ゆきもと)と襲封して廃藩に至る。3代幸道は1666年(寛文6)の指出検地など農政を推進し、6代幸弘は恩田木工幸親(おんだもくゆきちか)を起用した藩政改革のほか、俳諧(はいかい)の造詣(ぞうけい)で知られる。8代幸貫は松平定信(さだのぶ)の次子で、文武奨励、殖産興業に努め、海防掛老中に就任、佐久間象山(さくましょうざん)らを育成した。1868年(慶応4)戊辰(ぼしん)戦争では、官軍の信州触頭(ふれがしら)として北越、奥羽を転戦。71年(明治4)廃藩、松代県を経て長野県に統合された。

[古川貞雄]

『『新編物語藩史 第4巻』(1976・新人物往来社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「松代藩」の解説

まつしろはん【松代藩】

江戸時代信濃(しなの)国埴科(はにしな)郡松代(現、長野県長野市松代町)に藩庁をおいた、初め親藩(しんぱん)、譜代(ふだい)藩、のち外様(とざま)藩。藩校は文武学校。当地は、戦国時代に武田氏と上杉氏が争った川中島に当たり、武田信玄は山本勘助(かんすけ)に海津(かいづ)城(松代城)を築城させた。近世大名領の成立は、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いのあと、徳川家康(とくがわいえやす)が森忠政(ただまさ)を13万7500石で入封(にゅうほう)させたことに始まる。その後、03年に家康の6男松平忠輝(ただてる)(14万石)、16年(元和(げんな)2)に松平(越前)忠昌(ただまさ)(12万石)と家門(かもん)をおき、19年には譜代の酒井忠勝(ただかつ)(10万石)が入った。22年に忠勝が出羽(でわ)国庄内藩に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))、代わって外様(譜代格)の真田信之(のぶゆき)上田藩から入って以後は、明治維新まで真田氏10代が続いた。真田氏は上野(こうずけ)国沼田領3万石と合わせ13万石であったが、81年(天和(てんな)1)に沼田領が除封され10万石となった。19世紀前半、松平定信の次男で8代藩主の幸貫(ゆきつら)は、藩政改革に努めて佐久間象山(しょうざん)を登用、幕政でも海防掛老中にのぼった。1871年(明治4)の廃藩置県により、松代県を経て長野県に編入された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松代藩」の意味・わかりやすい解説

松代藩
まつしろはん

江戸時代,信濃国川中島4郡 (長野県埴科郡,長野市) を中心とする 10万石と上野 (群馬県) 沼田の3万石を領有した藩。川中島藩消滅後の元和8 (1622) 年,真田信之が同じ信州の上田から移封されてきたのに始る。信之は長子信吉に沼田3万石を分封,松代 10万石を次子信政に譲ったが,前者は4代を経て改易となり,後者は以後松代 10万石を世襲して 10代幸民にいたり廃藩置県となった。初め財政的にも豊かであったが,幕府の課役などにより次第に窮乏,加えて天災,飢饉が相次ぎ,百姓一揆が頻発するにいたった。しかし,恩田木工 (もく) の尽力によってこの危機を切抜け,真田幸貫の代にいたって内政も充実,また幸貫の重用した佐久間象山らの活躍もあって,松代藩は幕末の政局にも大きな位置を占めた。外様,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「松代藩」の解説

松代藩

信濃国、松代(現:長野県長野市)を本拠地とし、北信濃を領有した藩。松代城(海津(かいづ)城、松城(まつしろ)城ともする)は川中島の戦いにおける武田軍の拠点。関ヶ原の戦い後、徳川家康が森忠政を入封させたのが藩の起源。以後、藩主はしばしば交代したが、1622年に真田信之が入封してからは幕末まで真田氏が藩主をつとめた。真田家8代目の真田幸貫(ゆきつら)は佐久間象山を顧問とし、幕府でも海防掛老中をつとめた。

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世界大百科事典(旧版)内の松代藩の言及

【真田信之】より

…この功もあり翌年上田城に移り9万5000石を領する。22年(元和8)に松代に移封され,旧領とともに13万5000石を領し,松代藩の基礎を固めた。【笹本 正治】。…

【信濃国】より


[土地,貢租]
 近世前期,太閤検地の不備もあって,各地各領で先行検地を廃棄して総検地が遂行された。1602年森忠政領,29年(寛永6)小諸藩・徳川忠長領,49年(慶安2)以降松本藩・飯山藩,66年(寛文6)松代藩,寛文・延宝年間(1661‐81)幕府領などがその主要なもので,90年(元禄3)に幕府が松代藩に行わせた高遠藩検地が総検地の最後になった。以後は新田検地中心になる。…

※「松代藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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