更級郡(読み)さらしなぐん

日本歴史地名大系 「更級郡」の解説

更級郡
さらしなぐん

面積:六一・八六平方キロ
上山田かみやまだ町・大岡おおおか

県北部、千曲川中流域西岸とさい川東岸の間に位置する。郡南端の大林おおばやし(一三三〇メートル)から北西へひじり山へ延びる山脈によって東西二分される。千曲川西岸の平坦地と冠着かむりき(一二五二メートル)と大林山を結ぶ山脈の東山麓とからなる上山田町、犀川東岸と東から西へ犀川岸へ延びる聖山麓に大岡村がある。

「延喜式」に「更級郡」と記し、「和名抄」に「佐良志奈」と訓じている。郡名は正倉院文書、天平二〇年(七四八)の「写書所解、申願出家之事、私部乙万呂信濃国更級郡村神郷戸主私部知万呂戸口」を初見とし、「続日本紀」神護景雲二年(七六八)に「更級郡人建部大垣」が「為人恭順、事親有孝(中略)免田租終身」とみえる。平城宮跡出土の木簡墨書銘には「更科郡」とあり「科」の字のみ異記される。

古代更級郡の範囲は「和名抄」では麻続おみ村上むらかみ当信たしな小谷おうな更級さらしな清水しみず斗女とめいけひかなの九郷とする。麻続の地域は現在の東筑摩ひがしちくまたち峠を南限とし、西は犀川辺り一帯に及んでいた。

〔原始〕

郡内の先土器遺跡は佐野山さのやま(現更埴こうしよく市)だいら(現長野市篠ノ井塩崎)上和沢かみわさ(現長野市信更しんこうなどの遺跡で主として高地に散在する。縄文期の土器は早期のものが八幡大池やわたおおいけ桑原くわばら佐野山(いずれも現更埴市)・大岡鍋久保なべくぼ(現大岡村)などの山地に多くみられ、縄文中・後期の土器は上山田御屋敷おやしき(現上山田町)・更級巾田はばた(現埴科はにしな戸倉とぐら町)など千曲川縦谷地帯及び大岡和平わだいら牧郷まきさと供平ともだいらなど犀川横谷地帯の洪積台地上に多く分布する。弥生式土器は善光寺平ぜんこうじだいらでは古いものが篠ノ井塩崎しののいしおざき(現長野市)伊勢宮いせみや遺跡から出土し、稲作を発現させたことを示す。更にこの地域から展開する千曲川自然堤防上には松節まつぶせ中条なかじよう一本木いつぽんぎ山崎やまざき堀之内ほりのうち追分おいわけ唐猫からねこ観音寺かんのんじ横田よこた(いずれも現長野市篠ノ井)など弥生中・後期の土器を出土する遺跡が連続して遺跡地帯をなす。そのうち松節遺跡からは銅鉾・石製模造鉾、横田遺跡からは子持勾玉が出土した。このほか千曲川に注ぐ支流によって作られた川中島かわなかじま扇状地・佐野川扇状地、更級洪積台地・上山田洪積台地からは弥生中・後期の栗林式土器・箱清水式土器が出土し、これらを含むいわゆる更埴地方には箱清水式土器の文化圏が成立していたことを物語る。

なお、更級の箭塚やづか遺跡(現埴科郡戸倉町)からは舶載の銅剣、小松原の光林寺裏山こまつばらのこうりんじうらやま(現長野市篠ノ井)遺跡からは鉄斧の農耕具が出土している。旧更級郡域には古墳が一六〇余基あるが、その大部分は沖積地に接した山稜や丘上に分布し、内訳は前方後円墳四、前方後方墳二、積石塚三、土石混合墳二五、円墳一二四である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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