日本歴史地名大系 「下浦」の解説
下浦
しもなだうら
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「下灘浦 岩山有、日損所、茅山有」と村名がみえ、干害を受けやすい村であった。宇和島藩領。当浦は
太閤検地の石高は四六〇石八斗一升五合で、耕地面積の比率は田三七パーセント、畑六三パーセント。寛文検地では石高が四一パーセント減少し、田二八パーセント、畑七二パーセントとなっている。「弐墅截」によると村柄は「上」、田が「上」、畑が「上ノ下」とされ、水掛りは「悪」となっている。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は上波三ヵ浦で田一反一〇歩、畑三反二畝二四歩、下波九ヵ浦で田一反三畝一〇歩、畑二反六畝一五歩である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報