宇和郡(読み)うわぐん

日本歴史地名大系 「宇和郡」の解説

宇和郡
うわぐん

和名抄」所載の古代伊予国一四郡の一。流布本に「宇和」と記し、訓を欠く。郡内に石野いわの石城いわき三間みま立間たちまの四郷があった(和名抄)。江戸時代の宇和郡よりも狭く、矢野やの保内ほないの地域が含まれていない。北は鳥坂とさか峠・笠置かさぎ峠付近と考えられ、南は土佐国に接し、宇和川・三間川などの流域を除いては平地に乏しく、全体的に山がちの地域である。

郡名の初見は「日本書紀」の持統天皇五年の条で、

<資料は省略されています>

とあり、右の史料によって、七世紀末には宇和郡の設置が確認される。平城宮出土木簡に「宇和評小□代 」の文字がみえる。貞観八年(八六六)喜多きた郡を分離して、宇和・喜多二郡となった。「三代実録」に「貞観八年十一月八日己酉、割伊予国宇和郡、為宇和喜多両郡」とある。「和名抄」には、喜多郡内の郷として、矢野・久米くめ新屋にいやの三郷を記しており、それは現在の喜多郡・大洲おおず市・西宇和郡八幡浜やわたはま市に該当する。元来の宇和郡はこの地域をも含んでいたのである。また同一六年閏四月一九日付の太政官符(類聚三代格)に「応宇和郡為下郡置大少領事」として、

<資料は省略されています>

とあり、この年宇和郡の戸口が増益したという理由で、新たに一郷を加えて四郷とし、下郡として大小領の郡司を置いている。

この新設の郷は石城郷かという説が強いので、もとの三郷は石野・三間・立間の三郷となる。この三郷は現在の東宇和・北宇和・南宇和の三郡と宇和島市の地域にほぼ相当すると考えられ、石野郷は宇和盆地の南部地域にあたり、石城郷はその北部に新設されたとみられる。

宇和郡の郡司として凡氏が考えられる。「続日本紀」によると、天平勝宝元年(七四九)五月一五日、宇和郡人外大初位下凡直鎌足らが伊予の国分寺に資財を献じて、外従五位下の位を授けられている。この凡姓の豪族は天平八年(七三六)八月六日、伊予国が提出した正税出挙帳(正倉院文書)に、郡司・正八位上凡直広田、あるいは郡司・正八位上凡直宅麻呂とみえる凡氏の同族であろう。

九世紀後期における宇和郡には、「戸口増益」の事実のなかに、農業生産力の発展と石数・人口の増加の姿をうかがうことができよう。その頃が伊予国の海賊の出現期であったことを考えれば、律令制の緩みと浮浪人・田堵・名主層の形成の問題があったことになる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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