豊臣秀吉が全国的に実施した検地の総称。1582年(天正10)秀吉が明智光秀を山崎に破った直後,山城の寺社から土地台帳を徴集し,現実の土地所有・保有関係の確認を行ったことに始まるが,その2年前に,秀吉は織田信長の奉行人として播磨検地の実務を担当し,家臣に石高表示の知行宛行状(ちぎようあてがいじよう)を発給し,家役・諸公事の免許を行っているから,これが事実上の太閤検地の始期とみなされている。
秀吉は征服地を拡大するごとに原則として検地を実施し,土地についての権利関係を改めたうえ,家臣に知行地として給付し,または自己の蔵入地(くらいりち)に編入した。当初は指出(さしだし)を点検する方式で,その限りでは戦国大名検地と大差はなかったが,1589年の山城検地では検地奉行が縄打ちを行っており,以後は実際に土地丈量を行うことが原則となった。同年に行われた美濃検地では,秀吉は検地の施行原則を明示した検地条目を奉行人に交付しており,大規模な検地を実施する際には,そのつど検地条目を発して具体的に指示を与えている。秀吉が検地に際してとった態度は厳しく,とくに征服地では反抗する者には徹底的に弾圧する方針で臨んだ。1590年の奥羽検地のおりに出された朱印状では,〈山の奥,海は櫓櫂(ろかい)の続き候迄〉も入念に調査し,従わない者は城主・国人(こくじん)から百姓に至るまでことごとくなで切りにし,たとえ亡所になってもやむをえないと言いきっている。検地は原則として村ごとに行われ,村の境界には榜示(ぼうじ)を立てて紛れないようにした。検地を受ける側の農民は,生活をかろうじて支えるわずかの土地までも年貢賦課の対象とされ,土豪層が有していた権益も否定され,隠田(おんでん)も容赦なく摘発された。それゆえ,彼らは検地反対一揆を起こして実力で領主に対抗することもあった。
太閤検地の施行の際には,6尺3寸=1間の検地竿を用い,1間四方を1歩,300歩=10畝を1反,10反を1町として土地を丈量した。曲尺(かねじやく)の1尺の実際の長さを表示した検地尺も残されている。地域の政治・経済的条件によって若干の差異はあるが,1594年(文禄3)の畿内近国の検地条目では,田畑それぞれを上,中,下,下々の4段階に分け,1反当りの標準収穫量を上田1石5斗,中田1石3斗,下田1石1斗,上畑1石2斗,中畑1石,下畑8斗とし,下々田・下々畑は見計らい,屋敷地は上畑並として斗代(とだい)=石盛(こくもり)をつけた。石盛の決定に際しては,水利,田の裏作麦の有無,旱損(かんそん),水損など種々の生産条件が考慮されるほか,商品生産や手工業・交通運輸などの収益も勘案されており,村落間に格差がみられる。同じ年に朝鮮出兵の間隙をついて行われた九州の島津領の検地では,村そのものを上,中,下,下々の4段階に分け,田畑それぞれを上,中,下の3段階に分けるという複雑な方法がとられている。なお1593年の肥前国松浦郡の波多三河守旧領の検地では6尺2寸=1間の竿が用いられるように,若干の例外もみられる。また1590年の奥羽検地では,石高ではなく永楽銭で斗代が定められ,上田200文,中田180文,下田150文,上畑100文,中畑80文,下畑50文,屋敷地・麻畑は上畑並というように,地域的な慣習を重視する方策がとられている。屋敷地を検地の対象とすることは太閤検地の特色の一つであるが,最も私有性の強固な屋敷地は,戦国大名は手を出すことができなかった。
検地は田畑の1筆ごとに竿入れして面積を測り,石盛をつけるが,その田畑を実際に耕作している百姓の名を検地帳に記載した。これによって百姓の耕作権は保証されるが,年貢納入の義務が負わされ,耕作を放棄して商工業者などに転ずることは許されなかった。これは一地一作人(いつちいつさくにん)の原則と呼ばれる。百姓は土地に緊縛されて他領転出や転業の自由は失われるが,中世社会におけるように,長(おとな)百姓が小百姓から小作料を徴収するような中間搾取は禁止され,両者の間の私的な支配隷属関係は断ち切られる。これは作合(つくりあい)否定の原則と呼ばれ,小作料に相当する部分も領主側に年貢として吸収されるようになる。年貢の収納には京枡という公定枡が用いられ,量制の統一が図られている。
百姓に対して課せられる年貢は,検地によって確定された自己の保有地の石高(持高(もちだか)=所持石高)に,領主側が定める年貢率=免(めん)率を乗じた値として算出される。免率は毎年初秋ごろ,稲の生育状況を見分して決めることが原則であったが,春先にすでに決めておく土免(つちめん)法もまれにみられた。土免は百姓側の希望で採用されることが多く,免率をあらかじめ決めておけば年貢量は自動的に決まるから,百姓が努力して生産量を高めれば,それだけ自分の手元に残す量が多くなる。豊臣政権は土免を禁止する法令を出していた。
個々の領主(給人(きゆうにん))が定める免率を百姓が納得した場合は問題ないが,不満の場合,百姓は旱水損・風損・虫害などの自然災害や,土地の生産条件が不安定なことを理由に免率の引下げを領主に嘆願したはずであり,当時における農民闘争の主要な形態は,このようにして行われる年貢減免要求であったと思われる。紛争が収拾できなければ,力関係のいかんによっては給人は譲歩・後退を余儀なくされ,個別領主権は危機にさらされる。これを回避するための策として,特別の場合には,全収穫物を三つに分け,くじ引きによって3分の2を給人が年貢として徴収し,残り3分の1を百姓が作徳(さくとく)として取った。豊臣政権下の年貢は一般に二公一民制といわれているが,これは年貢納入をめぐる紛争の解決策として用意された規定(損免規定)であり,年貢免率決定権は個々の領主(給人)が握っていたことに注意する必要があろう。
年貢の免率決定に象徴される領主・農民間の基本的階級関係は,石高制に基礎をおいた生産物地代収取の原則として定められる。また,上級領主が自己の家臣に土地を給付する場合,検地によって確定された石高に応じて,原則として村単位で知行を宛行う。家臣が先祖伝来の所領を〈一所懸命の地〉として保持していても,本領安堵(あんど)をうけることによって恩給地と同じものとされ,改易・転封も自由に行われるようになった。家臣は知行高に応じて軍役(ぐんやく)奉仕の義務を負わされるので,武士階級内部における領有関係も石高制によって規定づけられている。太閤検地によって確立された石高制は,地代原則と領有原則という近世封建社会の基本的な関係を創出させたのである。これは,領主階級が土地生産力を量的に把握する必要から編み出されたもので,田はもちろん,実際には米を生産しない畑・屋敷地も米の標準収穫量で示される。農村部に比して,町場など交通・商品流通の盛んな地域の石盛が高くなるような例もみられる。石高制は,分業関係を内包した社会的総生産力を量的に把握するもので,この点,同じく高に結ぶといっても,軍役基準や年貢量を表示するにすぎない貫高制と大きく異なっている。
検地の施行とともに太閤蔵入地が設定された。最初は各地の出城の周辺部に置かれ,城を預かる武将の管理にゆだねられ,戦争の際の兵粮米(ひようろうまい)のために備蓄されていたが,のちに大名領国の内部にも設けられるようになった。1595年佐竹義宣に与えられた知行目録によれば,領国54万5000余石のうち,太閤蔵入地の1万石と,検地奉行である石田三成,増田長盛の知行地各3000石が含まれている。これは大名にとって政治的中枢部や特産物地帯を押さえられる結果となり,豊臣政権へのいっそうの従属を余儀なくされた。他方,この宛行状には義宣自身の知行分,蔵入分が明示されており,領国内部における大名領主権を確立するための物質的保証が与えられている。
太閤検地についての研究は第2次大戦前から行われているが,戦国大名検地や江戸時代の幕府・諸藩による検地との差異については十分に意識されていなかった。1953-54年ごろ,太閤検地の歴史的意義をめぐって活発な論争が行われた。問題提起者である安良城(あらき)盛昭は,太閤検地以前の社会を家父長的奴隷制と規定し,太閤検地によって小農民経営が自立する契機がつくられ,中世末期の複雑な土地所有関係を領主・農奴という基本的な階級関係に整理した革命的な土地政策として,その意義を高く評価した。これに対して宮川満は,太閤検地が小農民自立に果たした役割を認めつつも,村落支配者層の特権を容認するような妥協的側面も強かったことを指摘し,相対的革新策であると主張した。後藤陽一は,すでに自立を達成している農民を中心とする村落共同体が,太閤検地を契機に年貢村請(むらうけ)制の主体となった事実を強調した。さらに遠藤進之助は,太閤検地の政策基調は,領主に対して夫役(ぶやく)を負担しうる農民を役家として設定することにあったと主張した。これらの論争は残念ながら中断されたままで,明確な結論はつけられていない状況にあるが,80年代には勝俣鎮夫らによる戦国大名検地の研究が,この問題に再び照明をあてている。太閤検地論争の意義は,ともすれば〈封建社会〉ということで一括してとらえられてきた日本の中世と近世を,社会構成上どのように理論的に説明するかという問題を投げかけたものであり,史料分析の方法など歴史学における理論と実証のあり方が根底から問われているものといえよう。
執筆者:三鬼 清一郎
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豊臣秀吉(とよとみひでよし)の行った検地。天正(てんしょう)の石直(こくなお)し、文禄(ぶんろく)の検地ともいう。太閤とは関白を辞めた人の尊称であるが、秀吉は1591年(天正19)関白を養子秀次(ひでつぐ)に譲ったのち、好んで太閤と称したのでそれが秀吉の別称ともなり、彼の実施した検地も太閤検地とよばれるようになった。もちろん秀吉が太閤と称してからの検地のみでなく、それ以前の検地も含まれる。この太閤検地は、わが国土地制度上の一大変革であり、政治・経済・社会・文化などに多大の影響を与えた。
[宮川 満]
秀吉はその主織田信長から近江(おうみ)(滋賀県)の浅井氏の旧領を付与されると、ただちに1573年(天正1)杉原弥七に命じて小谷(おだに)付近を検地し、ついで1580年中国征伐に赴いて播磨(はりま)(兵庫県)を平定するとともに、姫路付近を検地している。その後、1582年には山崎の合戦で明智光秀(あけちみつひで)を破って手に入れた山城(やましろ)(京都府)・丹波(たんば)(京都府・兵庫県)を、翌1583年には柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼすとともに、その旧領越前(えちぜん)・若狭(わかさ)(以上福井県)・近江をそれぞれ検地して部将に分与し、1585年には根来(ねごろ)や四国を平定して紀伊(和歌山県)・河内(かわち)(大阪府)や四国を、1587年には島津氏を征して九州を、1590年には小田原の後北条(ごほうじょう)氏を討(う)って関東から奥羽を、それぞれ検地している。また1592年(文禄1)の朝鮮出兵に際しては、朝鮮での征服地をも検地する予定であったという。以上のように秀吉は次々に各地を征服するごとに検地して、それらの地を確実に掌握していった。またその間、部将に知行(ちぎょう)を与え、大名を転封させた場合にも検地を実施している。さらに1591年(天正19)から1598年(慶長3)にかけては、朝鮮出兵の準備ないし後方安定を兼ねて、太閤政権の基礎固めのため、各地を再三検地して1598年8月の越前検地を最後としている。
これらの検地に際しては、まず検地方針ないし検地条目が示され、ついで奉行(ぶぎょう)以下の検地役人が組織された。検地奉行に任命された者は多く、そのおもなものは浅野長吉(あさのながよし)(浅野長政(ながまさ))、石田三成(いしだみつなり)、増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)、小堀新介、片桐且元(かたぎりかつもと)らであり、概して文治派の部将である。一国以上の大規模な検地には、何人かの奉行が任命され、そのうえに全体をまとめる惣奉行(そうぶぎょう)が置かれた。1585年の紀伊検地では小堀新介が、1593年の日向(ひゅうが)(宮崎県)・大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)(以上鹿児島県)の検地では石田三成が、1598年の越前検地では長束正家が、それぞれ惣奉行に任命されている。惣奉行・奉行は不正をしない旨の誓紙を提出して、それぞれ任にあたった。奉行の下には帳付(ちょうつけ)・竿取(さおとり)・見付役(みつけやく)などの下役がいて実際の検地業務をつかさどり、各村の庄屋(しょうや)・名主(なぬし)らは検地衆の案内役を勤めた。
以上のほか、秀吉の意図を受けて諸大名が検地を実施する場合もあった。加藤清正(かとうきよまさ)の1589年肥後(熊本県)検地、毛利輝元(もうりてるもと)による1590~91年の中国地方の検地、蒲生氏郷(がもううじさと)の1594年岩代(いわしろ)(福島県)検地などがそれであり、これらの場合にも奉行以下の検地役人が組織された。
[宮川 満]
検地奉行らの一行は、村の一端から全村域にかけて田畑屋敷を1筆ごとに測量し、各筆の等級や面積・分米(ぶんまい)・名請人(なうけにん)などを決めていった。その決定にあたっては、あらかじめ知行主や村方に書き出させた指出(さしだし)を参考にする場合も多かった。いずれにしても、田畑の等級については土地の肥痩(ひそう)、灌漑(かんがい)の便否、地形地質の良否などを考慮して上・中・下・下々などに格づけされ、さらに面積・分米・名請人も決められ、それらを記載して総面積・村高を明らかにした検地帳が作成され、それに奉行が署名して秀吉に提出し、また知行主・村方に渡した。
以上のような実施内容のうち、とくに重要なのは面積・分米・名請人の決定であり、それらは次のようにして決められた。
(1)面積・枡(ます)の単位 従来の面積の単位は1間(けん)四方を1歩(ぶ)、120歩を小、180歩を半、240歩を大、360歩を1段(たん)(反)としたが、それらは1間の長さが種々であるため統一のある単位とはいえず、ほかに代(しろ)・刈(かり)・蒔(まき)などの単位もあった。太閤検地では、この従来の不統一な長さ・面積の単位を統一して、曲尺(かねじゃく)の6尺3寸を1間と定め、1間四方を1歩、300歩を1段とした。また枡も従来はさまざまの枡が使用されていたが、太閤検地では、京都を中心に用いられていた京枡を公定枡とし、ほぼこれに統一された。
(2)分米の把握 古くは上分米(じょうぶんまい)つまり年貢米を意味した分米が、太閤検地では公定生産高とされた。すなわち、太閤検地は田畑屋敷各筆の公定生産高を分米として把握した。分米は斗代(とだい)に面積を乗じたものである。斗代は石盛(こくもり)のことで、政治的・経済的条件を考慮して決められた段当り公定生産高である。これは等級ごとに決められ、条目では上田1石5斗、中田1石3斗、下田1石1斗、上畑・屋敷1石2斗、中畑1石、下畑8斗、下々は見計らいなどとある。分米はこれらの斗代に各筆の面積を乗じて決められ、把握されたのである。
(3)名請人の決定 太閤検地では、室町時代農民の複雑な田畑の権利関係のうち、各筆とも作職(さくしき)(耕作権)を所有して領主に年貢を納める農民が、名請人として検地帳に登録され、その他の農民の権利が排除された。秀吉が1574年に出した下知状(げちじょう)に「在々所々作職事、去年作毛(さくもう)年貢納所(なっしょ)候ともがら可相抱事(あいかかうべきこと)」とあり、また石田三成が1596年に出した村掟(むらおきて)に「田畑さくしき(作職)の儀は、此(この)さき御けんちの時、けんち帳にかきのり候者のさハき(裁き)につかまつ(仕)り」とあることから明らかである。このように太閤検地では作職を所有して貢納する農民が、名請人に決定されたのである。
[宮川 満]
秀吉が上述のように各地を征服するごとに検地したことは、征服地を確実に掌握して全国を統一する基礎となり、同時に従来の複雑な土地関係を整理して土地制度を一新させ、新しい体制を将来させた。すなわち、室町時代までは職の分化で、田畑の権利が複雑に分割されていたが、秀吉の全国統一と検地により、大名や寺社本所の領主権、各種得分権などが一円の領主権に統一され、また農民の権利は有力農民の加地子権などが没収されて、検地帳に登録された名請人の作職(耕作権)のみに整理された。つまり、太閤検地は田畑各筆に一領主・一農民という一元的な領主―農民関係を樹立させ、純粋封建制を将来させたのである。そこには小農民の自立を促す太閤検地の革新性がみられ、同時に石高の把握と相まって兵農分離の基礎があった。すなわち、太閤検地が把握した分米=石高のうち、作徳分は農民に、残りはすべて領主に収取される原則であったから、土豪・有力農民は従来のように中間搾取して武士化、領主化することがむずかしくなり、兵農分離が推し進められた。また太閤検地により把握された石高は、農民への年貢賦課をはじめ、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格などの基準となり、石高制として幕藩体制の主軸となったのである。
なお、太閤検地で長さ・面積の単位が曲尺の6尺3寸1間、300歩1段と定められ、枡も京枡に統一されたことは、制度・経済・文化の歴史のうえで注目すべきである。
[宮川 満]
『宮川満著『太閤検地論』全3冊(1957~63・御茶の水書房)』▽『安良城盛昭著『幕藩体制社会の成立と構造』(1959・御茶の水書房)』
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天正の石直しとも。豊臣秀吉が全国に行った検地。1582年(天正10)明智光秀を破った直後に行った山城検地に始まるが,織田信長の奉行として行った1580年の播磨検地が,事実上の太閤検地の始まりとみなされる。秀吉は征服地を拡大するごとに原則として検地を行い,91年には国ごとに御前帳を提出させ,全国の土地が石高で一元的に表示されることとなった。以後も大名領内に奉行を派遣して重ねて検地を行った。秀吉の検地にあたる態度は征服地にとくにきびしく,反抗する者は一郷であっても「撫で切り」にすると強調している。検地の施行原則は,6尺3寸四方を1歩(ぶ),300歩を1段とし,田畑を上・中・下・下々にわけ,上田1段を1石5斗というように石盛し,枡も京枡に統一した。石高は米の予想生産量であるが,屋敷や山林なども石高に算定され,商品生産や流通上の収益なども考慮された。検地帳には耕地一筆ごとに1人の耕作者名が記載されたから,その者(名請人)の耕作権が保証され(一地一作人の原則),長(おとな)百姓が小百姓から作合(さくあい)をとることは禁止された(作合否定の原則)ので,小農の自立が促進された。太閤検地によって,残存していた荘園制は終止符をうたれ,兵農分離が確定し,石高制による近世封建社会の基礎が築かれた。
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… 秀吉は征服地を拡大するごとに,原則として奉行人を派遣して検地を実施し,現実の土地に対する権利関係を明確にしたうえで石盛をつけ,家臣に知行地として給与し,また自己の蔵入地とした。これを太閤検地という。85年には関白に就任し,文武百官を率いて天皇に奉仕するという古代的権威によって身分制社会の頂点に立とうとした。…
…そこで後世諸氏に対する三成の策謀説が唱えられたが,確証は乏しいといわれる。彼の業績の中で最も顕著なものはいわゆる太閤検地の推進であろう。1584年の近江今在家村検地以来,89年美濃,90年奥羽,93年越後,94年薩摩・大隅・日向・常陸・磐城・下野の太閤検地を担当したが,とくに島津氏領内の検地に際して彼が丈量の規準として作成した検地尺や検地の掟は,太閤検地の実体を示すものとして貴重である。…
… この志向を全国的規模で実現したのが豊臣秀吉であった。秀吉は検地(太閤検地)を基礎とした兵農分離によって武士,百姓,町人の身分を設定し,それによって全国民を支配する制度を創設した。検地の結果,戦国大名によっても完全に把握されなかった土豪的武士は士・農いずれかに整理されて下剋上に終止符が打たれ,士とされたものは秀吉を頂点とする大名以下の知行体系の中に位置づけられた。…
…封建領主が自己の所領を把握するために,農民の保有する田畑・屋敷地の面積・石高を調査し,村高・村境を決定する土地・人民調査をいう。言葉としては戦国期から使われたが,豊臣秀吉の太閤検地以来公用語として定着した。俗に竿入,竿打,縄入,縄打などともいった。…
…間竿(けんざお)ともいう。太閤検地以来,検地の際に使用された測量用具で,検地のことを竿入・竿打などともいった。太閤検地では基準となるべき曲尺1尺(約30.3cm)の検地尺をもとに作製された6尺3寸(約190.9cm)=1間の竿を用いた。…
…封建領主が検地実施に際して検地役人にあてて出した検地実施規則のことで,〈検地条目〉と銘うったものもあるが,〈掟条々〉〈定条々〉〈置目〉などさまざまある。実際に検地役人を派遣して1筆ごとに測量する検地方法は太閤検地に始まり,検地条目もそのときからと考えられる。太閤検地も当初はまだ従来の慣習を踏襲するところがあったが,数年の施行過程をへてしだいに統一規準を設ける方向にすすみ,1589年(天正17)には検地条目の体裁をもった秀吉朱印状が出された。…
…田畠をそれぞれ上中下に分け,それに応じて年貢額が算出される例もあるが,たとえば後北条氏の場合のように,田1反=500文,畠1反=165文と,年貢額は固定されていた。これに対して豊臣政権の検地(太閤検地)は,当初は指出(さしだし)を徴収する方式だったが,やがて丈量基準を定めた検地尺が作られ,検地条目に示されたとおりに計測して地質や土地柄の良否を見分け,たとえば上田1反=1石5斗,上畠1反=1石2斗といった形で標準収穫量を表示した。年貢量はこれに一定の割合(免率)を乗じて算出される。…
…中田以下は二つ下りで中田は13,下田は11,下々田は9,畑は上畑が12,以下二つ下り,屋敷地は12の盛とするのが普通であった。太閤検地段階ではまだ斗代はかなり多様で,1594年(文禄3)の島津分国検地では,同じ上田でも1石6斗代から1石代まで村によって4段階の差があり,屋敷地も1石3斗代と1石代との2種があった。同年の摂津国の検地でも,上田の斗代は村によって1石5斗から1石2斗まで幅があり,さらに上々田の位付けがあって最高1石8斗の石盛があった。…
…当初耕作権とそれにともなう収益権を内容とした作職は,地域により職の分化がいっそう進んでより下級の〈下作職(げさくしき)〉を派生するようになると,直接耕作者たる下作人(下作職所有者)から一定の〈作徳〉を受け取る得分権と化し,寺社・商人・土豪らがこれを買得集積する事例も見られるようになった。こういう状態に終止符を打ち,作職所有者や下作職所有者の耕作事実を,検地帳に登録することにより確定するとともに,名主職などの中間得分を排除して,作人の貢租負担関係を対領主一本に整理する役割を果たしたのが太閤検地であった。【須磨 千穎】。…
…中世後期以降になると,家長ないし主人の公認のもとに家族員や下人たちが荒地を少しずつ開墾していったが,こうした小規模な開墾地をとくに新開と称する場合が多くなり,〈ほまち〉と同様に,彼らの小農民としての成長・自立の条件となった。そして,太閤検地や江戸初期の検地によって,すでに新開として開かれていた土地は,彼らの高請地とされた。やがて近世社会では,家族の私有財産や内密に金銭や物を蓄えることをも,〈しんがい〉というようになった。…
…秀吉の全国平定後の文禄期(1592‐96)には姫路に木下家定ら一族大名が置かれ,ほかに加古川に糟谷武則,淡河(おうご)に有馬則頼ら少数の大名が配されて,あとは秀吉の蔵入地となっている。全国にわたった太閤検地は,播磨では95年に行われた。ただ,赤穂,佐用の2郡のみは前年に備前宇喜多秀家領として宇喜多検地をうけていたので,95年にはあらためて太閤検地はうけなかったとみられる。…
…織豊政権の成立に象徴される新興領主階級は,流動化していた身分関係を固定化し,自己の権力を安定させるため,伝統的な権威や国家支配の枠組みを利用しつつも,検地・刀狩をはじめ,あらたな身分秩序の樹立を目的とする法令を次々と発布し,具体的施策をうち出した。
[太閤検地と刀狩]
秀吉が全国的に実施した太閤検地は,原則として耕地を一筆ごとに丈量して石盛(こくもり)をつけ,耕作責任者を定めて年貢納入の義務を負わせるとともに,その者の耕作権を保証するものとして検地帳に登録した。農民が耕作を放棄して他の土地へ移ったり,商人や職人になることは,1591年(天正19)の身分統制令によって厳禁された。…
※「太閤検地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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