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太閤検地 たいこうけんち

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

太閤検地
たいこうけんち

租税賦課の基礎条件を明確にするため,豊臣秀吉によって天正 10 (1582) ~慶長3 (98) 年に行われた検地。なかでも文禄3 (94) 年に検地条目を制定し,翌年にかけて行なった検地は最も大規模なもので,特に文禄検地といわれる。この種の検地は,戦国大名らによってすでに諸分国でも行われたが,全国的規模で行われたのは秀吉に始る。この目的は,従前の荘園制的特権を打破し,各土地の収納を円滑にし,貢租の徴収を容易にするため,荘,郷,保,里など区々であった田制を統一して村制度を樹立し,また荘園制的所職を否定して耕地1筆ごとに1作人を原則として,すべての土地を画一的に領主に直属させようとするものであった。貢租収納枡も京枡に,石高貫高の土地の単位を石高に統一し,また一段 (反) の収穫量をもって斗代および田品 (上,中,下,下々) を定める標準とし,6尺3寸を1,1間平方を1歩,1段を 300歩とする制を定めた。土地により,現地実測によらず旧来の貫高から換算した「石直し」にとどまる場合もあったが,その効果は実測の場合と同様であった。この検地は,大化改新地租改正農地改革と並ぶ重大な土地制度上の変革であったから,その歴史的性格をめぐる太閤検地論争が学界をにぎわした。

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デジタル大辞泉の解説

たいこう‐けんち〔タイカフ‐〕【太×閤検地】

豊臣秀吉が行った全国的な検地。天正10年(1582)開始。1歩を6尺3寸四方、300歩を1反、田畑等級を上・中・下・下々の四段階と定め、枡(ます)を京枡に一定して石高を算定し、耕地1筆ごとに耕作者を検地帳に記載して年貢負担者を確定した。これによって荘園制下の所有関係が整理され、近世封建制度の基礎が確立された。天正の石直し

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百科事典マイペディアの解説

太閤検地【たいこうけんち】

豊臣秀吉の行った検地。天正(てんしょう)の石直しともいう。秀吉は1582年山城(やましろ)国の検地の後,検地奉行に浅野長政石田三成らを任じ全国的に検地を施行。
→関連項目石田三成永高上賀茂六郷京枡検地条目郷村制石高織豊政権吹田大・半・小日本平野郷名主名・名田村切

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世界大百科事典 第2版の解説

たいこうけんち【太閤検地】

豊臣秀吉が全国的に実施した検地の総称。1582年(天正10)秀吉が明智光秀を山崎に破った直後,山城の寺社から土地台帳を徴集し,現実の土地所有・保有関係の確認を行ったことに始まるが,その2年前に,秀吉は織田信長の奉行人として播磨検地の実務を担当し,家臣に石高表示の知行宛行状(ちぎようあてがいじよう)を発給し,家役・諸公事の免許を行っているから,これが事実上の太閤検地の始期とみなされている。
[実施状況]
 秀吉は征服地を拡大するごとに原則として検地を実施し,土地についての権利関係を改めたうえ,家臣に知行地として給付し,または自己の蔵入地(くらいりち)に編入した。

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大辞林 第三版の解説

たいこうけんち【太閤検地】

1582年(天正10)以降、豊臣秀吉が全国的に行なった統一的な検地。実際に土地の丈量調査を行い、従来貫高で示されていた田畑を石高(生産高)で示すように改めた。また、六尺三寸四方を一歩として三〇〇歩を一段とする段歩制を採用、耕地を上・中・下・下々の等級に分け、使用枡ますを京枡に統一、村ごとに検地帳を作って直接耕作農民の名を記し、耕作権を保証するとともに年貢負担者とするなど、従来の検地に比べて、規模・方法ともにまったく一新した画期的な事業となった。天正の石直し。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

太閤検地
たいこうけんち

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の行った検地。天正(てんしょう)の石直(こくなお)し、文禄(ぶんろく)の検地ともいう。太閤とは関白を辞めた人の尊称であるが、秀吉は1591年(天正19)関白を養子秀次(ひでつぐ)に譲ったのち、好んで太閤と称したのでそれが秀吉の別称ともなり、彼の実施した検地も太閤検地とよばれるようになった。もちろん秀吉が太閤と称してからの検地のみでなく、それ以前の検地も含まれる。この太閤検地は、わが国土地制度上の一大変革であり、政治・経済・社会・文化などに多大の影響を与えた。[宮川 満]

実施状況と検地役人

秀吉はその主織田信長から近江(おうみ)(滋賀県)の浅井氏の旧領を付与されると、ただちに1573年(天正1)杉原弥七に命じて小谷(おだに)付近を検地し、ついで1580年中国征伐に赴いて播磨(はりま)(兵庫県)を平定するとともに、姫路付近を検地している。その後、1582年には山崎の合戦で明智光秀(あけちみつひで)を破って手に入れた山城(やましろ)(京都府)・丹波(たんば)(京都府・兵庫県)を、翌1583年には柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼすとともに、その旧領越前(えちぜん)・若狭(わかさ)(以上福井県)・近江をそれぞれ検地して部将に分与し、1585年には根来(ねごろ)や四国を平定して紀伊(和歌山県)・河内(かわち)(大阪府)や四国を、1587年には島津氏を征して九州を、1590年には小田原の後北条(ごほうじょう)氏を討(う)って関東から奥羽を、それぞれ検地している。また1592年(文禄1)の朝鮮出兵に際しては、朝鮮での征服地をも検地する予定であったという。以上のように秀吉は次々に各地を征服するごとに検地して、それらの地を確実に掌握していった。またその間、部将に知行(ちぎょう)を与え、大名を転封させた場合にも検地を実施している。さらに1591年(天正19)から1598年(慶長3)にかけては、朝鮮出兵の準備ないし後方安定を兼ねて、太閤政権の基礎固めのため、各地を再三検地して1598年8月の越前検地を最後としている。
 これらの検地に際しては、まず検地方針ないし検地条目が示され、ついで奉行(ぶぎょう)以下の検地役人が組織された。検地奉行に任命された者は多く、そのおもなものは浅野長吉(あさのながよし)(浅野長政(ながまさ))、石田三成(いしだみつなり)、増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)、小堀新介、片桐且元(かたぎりかつもと)らであり、概して文治派の部将である。一国以上の大規模な検地には、何人かの奉行が任命され、そのうえに全体をまとめる惣奉行(そうぶぎょう)が置かれた。1585年の紀伊検地では小堀新介が、1593年の日向(ひゅうが)(宮崎県)・大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)(以上鹿児島県)の検地では石田三成が、1598年の越前検地では長束正家が、それぞれ惣奉行に任命されている。惣奉行・奉行は不正をしない旨の誓紙を提出して、それぞれ任にあたった。奉行の下には帳付(ちょうつけ)・竿取(さおとり)・見付役(みつけやく)などの下役がいて実際の検地業務をつかさどり、各村の庄屋(しょうや)・名主(なぬし)らは検地衆の案内役を勤めた。
 以上のほか、秀吉の意図を受けて諸大名が検地を実施する場合もあった。加藤清正(かとうきよまさ)の1589年肥後(熊本県)検地、毛利輝元(もうりてるもと)による1590~91年の中国地方の検地、蒲生氏郷(がもううじさと)の1594年岩代(いわしろ)(福島県)検地などがそれであり、これらの場合にも奉行以下の検地役人が組織された。[宮川 満]

実施内容

検地奉行らの一行は、村の一端から全村域にかけて田畑屋敷を1筆ごとに測量し、各筆の等級や面積・分米(ぶんまい)・名請人(なうけにん)などを決めていった。その決定にあたっては、あらかじめ知行主や村方に書き出させた指出(さしだし)を参考にする場合も多かった。いずれにしても、田畑の等級については土地の肥痩(ひそう)、灌漑(かんがい)の便否、地形地質の良否などを考慮して上・中・下・下々などに格づけされ、さらに面積・分米・名請人も決められ、それらを記載して総面積・村高を明らかにした検地帳が作成され、それに奉行が署名して秀吉に提出し、また知行主・村方に渡した。
 以上のような実施内容のうち、とくに重要なのは面積・分米・名請人の決定であり、それらは次のようにして決められた。
(1)面積・枡(ます)の単位 従来の面積の単位は1間(けん)四方を1歩(ぶ)、120歩を小、180歩を半、240歩を大、360歩を1段(たん)(反)としたが、それらは1間の長さが種々であるため統一のある単位とはいえず、ほかに代(しろ)・刈(かり)・蒔(まき)などの単位もあった。太閤検地では、この従来の不統一な長さ・面積の単位を統一して、曲尺(かねじゃく)の6尺3寸を1間と定め、1間四方を1歩、300歩を1段とした。また枡も従来はさまざまの枡が使用されていたが、太閤検地では、京都を中心に用いられていた京枡を公定枡とし、ほぼこれに統一された。
(2)分米の把握 古くは上分米(じょうぶんまい)つまり年貢米を意味した分米が、太閤検地では公定生産高とされた。すなわち、太閤検地は田畑屋敷各筆の公定生産高を分米として把握した。分米は斗代(とだい)に面積を乗じたものである。斗代は石盛(こくもり)のことで、政治的・経済的条件を考慮して決められた段当り公定生産高である。これは等級ごとに決められ、条目では上田1石5斗、中田1石3斗、下田1石1斗、上畑・屋敷1石2斗、中畑1石、下畑8斗、下々は見計らいなどとある。分米はこれらの斗代に各筆の面積を乗じて決められ、把握されたのである。
(3)名請人の決定 太閤検地では、室町時代農民の複雑な田畑の権利関係のうち、各筆とも作職(さくしき)(耕作権)を所有して領主に年貢を納める農民が、名請人として検地帳に登録され、その他の農民の権利が排除された。秀吉が1574年に出した下知状(げちじょう)に「在々所々作職事、去年作毛(さくもう)年貢納所(なっしょ)候ともがら可相抱事(あいかかうべきこと)」とあり、また石田三成が1596年に出した村掟(むらおきて)に「田畑さくしき(作職)の儀は、此(この)さき御けんちの時、けんち帳にかきのり候者のさハき(裁き)につかまつ(仕)り」とあることから明らかである。このように太閤検地では作職を所有して貢納する農民が、名請人に決定されたのである。[宮川 満]

意義

秀吉が上述のように各地を征服するごとに検地したことは、征服地を確実に掌握して全国を統一する基礎となり、同時に従来の複雑な土地関係を整理して土地制度を一新させ、新しい体制を将来させた。すなわち、室町時代までは職の分化で、田畑の権利が複雑に分割されていたが、秀吉の全国統一と検地により、大名や寺社本所の領主権、各種得分権などが一円の領主権に統一され、また農民の権利は有力農民の加地子権などが没収されて、検地帳に登録された名請人の作職(耕作権)のみに整理された。つまり、太閤検地は田畑各筆に一領主・一農民という一元的な領主―農民関係を樹立させ、純粋封建制を将来させたのである。そこには小農民の自立を促す太閤検地の革新性がみられ、同時に石高の把握と相まって兵農分離の基礎があった。すなわち、太閤検地が把握した分米=石高のうち、作徳分は農民に、残りはすべて領主に収取される原則であったから、土豪・有力農民は従来のように中間搾取して武士化、領主化することがむずかしくなり、兵農分離が推し進められた。また太閤検地により把握された石高は、農民への年貢賦課をはじめ、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格などの基準となり、石高制として幕藩体制の主軸となったのである。
 なお、太閤検地で長さ・面積の単位が曲尺の6尺3寸1間、300歩1段と定められ、枡も京枡に統一されたことは、制度・経済・文化の歴史のうえで注目すべきである。[宮川 満]
『宮川満著『太閤検地論』全3冊(1957~63・御茶の水書房) ▽安良城盛昭著『幕藩体制社会の成立と構造』(1959・御茶の水書房)』

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世界大百科事典内の太閤検地の言及

【安土桃山時代】より

… 秀吉は征服地を拡大するごとに,原則として奉行人を派遣して検地を実施し,現実の土地に対する権利関係を明確にしたうえで石盛をつけ,家臣に知行地として給与し,また自己の蔵入地とした。これを太閤検地という。85年には関白に就任し,文武百官を率いて天皇に奉仕するという古代的権威によって身分制社会の頂点に立とうとした。…

【石田三成】より

…そこで後世諸氏に対する三成の策謀説が唱えられたが,確証は乏しいといわれる。彼の業績の中で最も顕著なものはいわゆる太閤検地の推進であろう。1584年の近江今在家村検地以来,89年美濃,90年奥羽,93年越後,94年薩摩・大隅・日向・常陸・磐城・下野の太閤検地を担当したが,とくに島津氏領内の検地に際して彼が丈量の規準として作成した検地尺や検地の掟は,太閤検地の実体を示すものとして貴重である。…

【江戸幕府】より

… この志向を全国的規模で実現したのが豊臣秀吉であった。秀吉は検地(太閤検地)を基礎とした兵農分離によって武士,百姓,町人の身分を設定し,それによって全国民を支配する制度を創設した。検地の結果,戦国大名によっても完全に把握されなかった土豪的武士は士・農いずれかに整理されて下剋上に終止符が打たれ,士とされたものは秀吉を頂点とする大名以下の知行体系の中に位置づけられた。…

【検地】より

…封建領主が自己の所領を把握するために,農民の保有する田畑・屋敷地の面積・石高を調査し,村高・村境を決定する土地・人民調査をいう。言葉としては戦国期から使われたが,豊臣秀吉の太閤検地以来公用語として定着した。俗に竿入,竿打,縄入,縄打などともいった。…

【検地竿】より

…間竿(けんざお)ともいう。太閤検地以来,検地の際に使用された測量用具で,検地のことを竿入・竿打などともいった。太閤検地では基準となるべき曲尺1尺(約30.3cm)の検地尺をもとに作製された6尺3寸(約190.9cm)=1間の竿を用いた。…

【検地条目】より

…封建領主が検地実施に際して検地役人にあてて出した検地実施規則のことで,〈検地条目〉と銘うったものもあるが,〈掟条々〉〈定条々〉〈置目〉などさまざまある。実際に検地役人を派遣して1筆ごとに測量する検地方法は太閤検地に始まり,検地条目もそのときからと考えられる。太閤検地も当初はまだ従来の慣習を踏襲するところがあったが,数年の施行過程をへてしだいに統一規準を設ける方向にすすみ,1589年(天正17)には検地条目の体裁をもった秀吉朱印状が出された。…

【石高制】より

…田畠をそれぞれ上中下に分け,それに応じて年貢額が算出される例もあるが,たとえば後北条氏の場合のように,田1反=500文,畠1反=165文と,年貢額は固定されていた。これに対して豊臣政権の検地(太閤検地)は,当初は指出(さしだし)を徴収する方式だったが,やがて丈量基準を定めた検地尺が作られ,検地条目に示されたとおりに計測して地質や土地柄の良否を見分け,たとえば上田1反=1石5斗,上畠1反=1石2斗といった形で標準収穫量を表示した。年貢量はこれに一定の割合(免率)を乗じて算出される。…

【石盛】より

…中田以下は二つ下りで中田は13,下田は11,下々田は9,畑は上畑が12,以下二つ下り,屋敷地は12の盛とするのが普通であった。太閤検地段階ではまだ斗代はかなり多様で,1594年(文禄3)の島津分国検地では,同じ上田でも1石6斗代から1石代まで村によって4段階の差があり,屋敷地も1石3斗代と1石代との2種があった。同年の摂津国の検地でも,上田の斗代は村によって1石5斗から1石2斗まで幅があり,さらに上々田の位付けがあって最高1石8斗の石盛があった。…

【作職】より

…当初耕作権とそれにともなう収益権を内容とした作職は,地域により職の分化がいっそう進んでより下級の〈下作職(げさくしき)〉を派生するようになると,直接耕作者たる下作人(下作職所有者)から一定の〈作徳〉を受け取る得分権と化し,寺社・商人・土豪らがこれを買得集積する事例も見られるようになった。こういう状態に終止符を打ち,作職所有者や下作職所有者の耕作事実を,検地帳に登録することにより確定するとともに,名主職などの中間得分を排除して,作人の貢租負担関係を対領主一本に整理する役割を果たしたのが太閤検地であった。【須磨 千穎】。…

【新開】より

…中世後期以降になると,家長ないし主人の公認のもとに家族員や下人たちが荒地を少しずつ開墾していったが,こうした小規模な開墾地をとくに新開と称する場合が多くなり,〈ほまち〉と同様に,彼らの小農民としての成長・自立の条件となった。そして,太閤検地や江戸初期の検地によって,すでに新開として開かれていた土地は,彼らの高請地とされた。やがて近世社会では,家族の私有財産や内密に金銭や物を蓄えることをも,〈しんがい〉というようになった。…

【播磨国】より

…秀吉の全国平定後の文禄期(1592‐96)には姫路に木下家定ら一族大名が置かれ,ほかに加古川に糟谷武則,淡河(おうご)に有馬則頼ら少数の大名が配されて,あとは秀吉の蔵入地となっている。全国にわたった太閤検地は,播磨では95年に行われた。ただ,赤穂,佐用の2郡のみは前年に備前宇喜多秀家領として宇喜多検地をうけていたので,95年にはあらためて太閤検地はうけなかったとみられる。…

【兵農分離】より

…織豊政権の成立に象徴される新興領主階級は,流動化していた身分関係を固定化し,自己の権力を安定させるため,伝統的な権威や国家支配の枠組みを利用しつつも,検地・刀狩をはじめ,あらたな身分秩序の樹立を目的とする法令を次々と発布し,具体的施策をうち出した。
[太閤検地と刀狩]
 秀吉が全国的に実施した太閤検地は,原則として耕地を一筆ごとに丈量して石盛(こくもり)をつけ,耕作責任者を定めて年貢納入の義務を負わせるとともに,その者の耕作権を保証するものとして検地帳に登録した。農民が耕作を放棄して他の土地へ移ったり,商人や職人になることは,1591年(天正19)の身分統制令によって厳禁された。…

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