下谷上村
しもたにがみむら
[現在地名]北区山田町下谷上・広陵町一―六丁目・筑紫が丘一―九丁目・小倉台一―七丁目・緑町一丁目・同三丁目・同七―八丁目・松が枝町一―三丁目・ひよどり北町一―三丁目・ひよどり台一―五丁目・中里町一―二丁目
志染川に沿って原野村の東方川上に位置する。村域の南は六甲山地、北は丹生山地にかかる。天王谷越の有馬道が村内を通って東へ向かい、西へ向かえば播磨へ通ずる。古くは東隣上谷上村とともに単に谷上・谷上村といい、八部郡山田庄に含まれた。暦応三年(一三四〇)の赤松円心による丹生寺城攻めのとき、播磨の御家人広峯長種は四月九日の「谷上御合戦」に参加して軍功をあげたという(同年七月日「広峯長種軍忠状写」広峯文書)。また貞和二年(一三四六)四月日の佐藤性妙申状(佐藤文書)によれば、陸奥国信夫郡(現福島県)の性妙は子息行清らを率いて北朝方として「播州山田生・丹生寺・谷上・諏方尾」などで戦っている。永享五年(一四三三)一一月一五日の阿闍梨豪慶田地寄進状(栗花落文書)によると、豪慶は丹生寺桜本坊豪俊から譲られた山田庄谷上村内宝高にある私領を、山王灯明料として丹生寺に寄進している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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