日本歴史地名大系 「下風呂村」の解説
下風呂村
しもふろむら
正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に甲崎とみえるが、村名の記載はない。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高五・八石余で、すべて畠とあり、戸口は五五軒・三一五人。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数六四、うち支村甲崎二。
天和二年切支丹禁制、貞享五年(一六八八)捨馬禁止の高札が立てられている(御領分高札集)。享和の仮名付帳では本村を駅場とする。「原始謾筆風土年表」の寛政一〇年の項によれば大畑まで二里二一町で、本荷は九二文、軽尻は本荷の三分の二、人足は本荷の半分であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報