第11代に数えられる天皇。活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)命という。父の崇神(すじん)天皇(御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)命)とともにイリヒコの名を持ち,実在を認められる4世紀の天皇である。記紀には皇后狭穂姫(さほびめ)を巻きこんだ兄狭穂彦(さほびこ)反乱の物語,誉津別(ほむつわけ)命の物語,加羅(から)国皇子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)渡来の物語,新羅皇子の天日槍(あめのひぼこ)の渡来とその神宝をめぐる物語,田道間守(たじまもり)の物語,殉死の禁止と埴輪の起源伝承,石上(いそのかみ)神宮の神宝管理伝承などをこの天皇の代のこととして語っている。また倭姫(やまとひめ)命の伊勢神宮創始,大倭直(やまとのあたい)の大倭大神祭祀,兵器を神幣とする祭祀記事,屯倉(みやけ)の創設,多くの池溝の掘削なども崇神朝の治政を継承展開するものとして盛りこまれたものであろうが,史実性には疑問がある。皇子のなかで,ホムツワケには継体天皇系譜との関連,造剣・造池伝承を持つ五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)にはイリヒコ皇統のなごりがあり,景行天皇は記紀形成時に置かれた天皇として,それぞれ皇統系譜の研究上注目される存在である。
執筆者:吉井 巌
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皇室系譜に第11代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)。崇神(すじん)天皇の第3子で、母は御間城姫(みまきひめ)。垂仁元年即位、初めの皇后狭穂姫(さぼひめ)は兄狭穂彦の謀反の際に自殺、同15年に丹波道主王(たにはのちぬしのおおきみ)の女(むすめ)日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を皇后とした。纏向(まきむく)(奈良県桜井市の北部)の珠城宮(たまきのみや)に都し、同99年、140歳(『古事記』では153歳)で没して菅原伏見陵(すがはらのふしみのみさざき)に葬られたという。
[星野良作]
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