平安中期の女流歌人。生没年不詳。越前守大江雅致の女。母は越中守平保衡の女。和泉式部は女房名で,江式部,式部などとも呼ばれた。すぐれた抒情歌人として知られ,《和泉式部集》正・続1500余首の歌を残し,《和泉式部日記》の作者として名高い。《後拾遺集》をはじめ勅撰集にも多くの歌を収める。式部の父は,朱雀天皇の皇女で冷泉天皇の皇后となった三条太皇太后昌子内親王に,太皇太后宮大進として仕え,母も同内親王に仕えていたから,式部は幼いころ昌子の宮邸で過ごしたと思われる。20歳のころ,父の推挙で和泉守となった太皇太后宮権大進橘道貞の妻となった。和泉式部の名は,夫が和泉守であったことによっており,父が式部丞ででもあったものかと思われる。2人の間にはまもなく小式部内侍が生まれ,式部は夫の任国和泉に下ったこともあったが,10歳ばかり年長の夫にはあきたりないものがあったらしく,冷泉天皇の皇子弾正宮為尊親王との恋愛に陥った。しかし,親王は1002年(長保4),26歳で亡くなった。一周忌も近い翌年春,為尊親王の弟帥宮(そちのみや)敦道(あつみち)親王から求愛された。この兄弟は,母の女御藤原超子の死後,昌子内親王のもとで成長したから,式部に近づく機会は多かったと想像される。歌の贈答が続くうちに,敦道親王は04年(寛弘1),周囲の反対に抗して式部を自邸に引きとり,そのため宮妃は邸を出るというまでになった。この間の恋愛の経緯を140余首の歌を中心に,自伝的に記したのが《和泉式部日記》である。しかし,この親王も07年に27歳の若さで亡くなった。式部の悲嘆は深く,《和泉式部集》の親王への哀傷の歌120余首がそれを伝えている。09年,式部は藤原道長の召しによって,娘の小式部内侍とともに道長の女中宮彰子に仕えた。彰子のまわりには,紫式部,赤染衛門らがいた。式部は女房として仕えるうちに,道長の家司藤原保昌の妻となり,丹後守に任ぜられた夫に伴われて同国へ下った。25年(万寿2),若くして歌人として名を知られた小式部内侍に先立たれ,悲しみに沈んだが,33年(長元6)以後の諸記録に式部の名を見いだすことはできない。20歳ほど年上の夫保昌は,36年摂津守在任中に79歳で死んだが,2人がいつまで親密な関係にあったかはわからない。式部の没年には諸説があるが,不明とせざるをえない。式部と恋愛の関係にあった人物は,上記のほかにも数人あり,小式部内侍のほかにも子があったと考えられる。〈黒髪の乱れも知らずうち伏せばまず搔きやりし人ぞ恋しき〉(《和泉式部集》正)。
つぎつぎに恋の遍歴を重ね,敦道親王との関係では世間の非難を浴びた式部は,道長から〈うかれ女〉といわれたように,奔放な生涯を送った。そのため式部は早くから,紫式部の貞淑,清少納言の機知,赤染衛門の謙譲に対して,愛情一筋に生きた女の典型と考えられ,艶麗な美女として語られるようになり,平安時代末以降,数々の説話に登場することとなった。道貞と別れたころ,山城の貴布禰社に参籠した式部が,夫が戻るように祈る歌を詠んだところ,貴布禰明神の慰めの歌が聞こえたという説話が《無名抄》《古本説話集》その他にあるが,神をも動かすような歌の作者としての説話は少なくない。また,藤原道綱の子で好色の僧道命阿闍梨が,式部のもとへ通ったという《宇治拾遺物語》の説話をはじめ,式部は種々の恋愛譚に登場する。さらに,小式部内侍に先立たれて悲しみにくれる話は《宝物集》以下多くの説話集に見え,病む小式部が母のために命ながらえたいと祈ったところ,一度は病が治ったという《十訓抄》などの話とともに,母と娘の愛情の話として語られた。無常を感じた式部が書写山の性空聖人を訪ねて道心をおこす《古本説話集》の話も,のちに種々の変容をみせている。室町時代以降,式部の名は広く知られ,各地に伝説を残すようになった。御伽草子の《和泉式部》では,道命阿闍梨を式部と橘保昌(2人の夫を合わせた名になっている)の間の子とし,通ってくる僧が幼いときに捨てたわが子であることを知った式部が発心するという話になっている。謡曲には,《貴布禰》《東北》《鳴門》《法華経》をはじめ数々の曲に登場するが,かつて名歌を詠んだ式部が,罪障を懺悔して諸国を行脚するといった趣向のものが多い。また歌舞伎には《和泉式部千人男》,人形浄瑠璃には《和泉式部軒端梅》などがある。このように式部の名が広く知られるようになる背後には,式部の生涯を語る唱導の女性たちがあったらしく,式部の誕生地と伝える所は岩手県から佐賀県まで数十ヵ所に及び,墓の数もそれに劣らない。墓所の一つ京都市中京区の誠心(じようしん)院は,唱導の徒の拠点であった。各地に伝えられる式部の伝説には,瘡(かさ)を病んだ式部が,日向国の法華岳寺の薬師如来に平癒を祈ったが,いっこうに効験がないので〈南無薬師諸病悉除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ〉と詠むと,夢の中に〈村雨はただひと時のものぞかし己が身のかさそこに脱ぎおけ〉という返歌があって,難病もたちまちに平癒したという話や,アユ(鮎)の腸を意味する〈うるか〉ということばを,たくみに詠みこんださまざまな秀歌を作ったという話など,歌にまつわるものが多く,中には小野小町や西行の伝説と同じ内容のものもある。また,佐賀県には,式部が鹿の子であったために足の指が二つに割れており,親がそれをかくすために足袋というものを作ったという伝説もある。
→和泉式部集 →和泉式部日記
執筆者:大隅 和雄
御伽草子。作者不詳。成立は室町時代か。平安時代,一条天皇の世に,橘保昌とのあいだに1子をもうけた和泉式部は,その子を五条の橋のもとに捨てる。子は拾われ,やがて比叡山にのぼって道命阿闍梨(どうめいあじやり)という高僧になった。ある時,宮中の法事に召された道命は年のほど30ばかりの女房を見そめ,契るにいたったが,その女房は実は母和泉式部であった。相手がわが子であることを知った式部は,“憂き世”を捨てて播磨国書写山で出家をとげるという発心譚。道命は藤原道綱の子で著名な歌人,はやく《古事談》や《宇治拾遺物語》,くだっては御伽草子《小式部》にも和泉式部との交渉が語られるが,それらが両者を男女関係とするのに対し,母子関係を設定する点に本書の特徴がある。また〈橘保昌〉という人名は,和泉式部の2人の夫〈橘道貞〉と〈藤原保昌〉が伝承の過程で混同されたものと考えられる。
執筆者:今西 祐一郎
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生没年不詳。平安中期の女流歌人。大江雅致(まさむね)の女(むすめ)。母は平保衡(やすひら)の女であるとも。生年は円融(えんゆう)朝(970年代)とする説が有力。「雅致女式部」(拾遺集)、「江(ごう)式部」(御堂関白記(みどうかんぱくき))という女房名があることから、娘時代すでに出仕の経験があったと想像され、出仕先は大進(だいしん)であった父の縁で、冷泉(れいぜい)皇后昌子内親王のもとであったといわれる。やがて999年(長保1)までに橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚、和泉守(いずみのかみ)であった夫の官名から以後は「和泉式部」と一般によばれるようになった。2人の間にはまもなく娘の小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれたが、弾正尹(だんじょうのかみ)為尊(ためたか)親王(冷泉第3皇子)、大宰帥(だざいのそち)敦道(あつみち)親王(冷泉第4皇子)との相次ぐ恋愛事件によって夫婦の生活は破綻(はたん)し、父雅致からも勘当を受ける身の上となった。このうち帥宮(そちのみや)との恋愛の経緯は『和泉式部日記』に詳しい。その宮とも1007年(寛弘4)には死別し、悲嘆に暮れる式部の心情は、「家集」中の120余首にも上る挽歌(ばんか)群として結晶している。1009年、召されて上東門院(藤原彰子(しょうし))のもとに仕え、それが機縁となって藤原道長(みちなが)の家司、藤原保昌(やすまさ)に再嫁、夫とともに任国の丹後(たんご)(京都府)に下ったこともあった。1025年(万寿2)冬、娘の小式部が20歳代の若さで没し、そのおりにも子を悼む母親の痛哭(つうこく)の歌を残している。以後、晩年の式部の消息はさだかでないが、1027年9月、皇大后藤原妍子(けんし)の七七日の法事に、保昌にかわって玉の飾りを献上し、詠歌を添えたという記事が生存を伝える最後の記録となっている(『栄花(えいが)物語』玉の飾り)。即興即詠の日常詠はもとより、定数歌や連作、題詠など制約のある詠作のなかにも、式部の鋭敏な感性と揺らめく情念はみごとに形象化されており、新鮮で自由な用語を駆使したその叙情歌の数々は、平安中期最高の歌人の名にふさわしい作品群として輝いている。作品の大部分をとどめる「家集」には、902首を収める『和泉式部正集』、647首の『和泉式部続集』などがある。
くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端(は)の月
[平田喜信]
平安中期女流歌人を主人公とした叙事伝説。実在の和泉式部とは無関係。生地も、北は岩手県から南は九州まで全国にわたって散在し、墓も数多い。もっとも多いのは和歌を中心とする伝承で、代表的なものはおよそ三つの型に分けられる。
(1)うるか問答 式部が書写山参詣(さんけい)の途次泊まった家の娘に綿を売るかと尋ねると、鮎(あゆ)のはらわたである「うるか」のことを歌で答える。その娘は、式部が五条で捨てた子であった。
(2)瘡(かさ)の歌 瘡を患った式部が参籠(さんろう)中に、薬師(やくし)の返歌で平癒する。薬師信仰に運ばれた伝承。
(3)式部と高僧との歌問答 有名なのは書写山性空(しょうくう)に贈った歌の話。御伽草子(おとぎぞうし)『和泉式部』にもとられ、わが子と知らず道命法師と恋をすることになっている。
これらの伝承を運んだのは、小町、紫式部、静御前(しずかごぜん)、虎(とら)御前などの女性伝承を伝えた一群の人々と同じで、泉や川辺に宗教行事を行いながら回国した女たちと考えられる。その寄留地として有力なのが京都誓願寺で、墓や式部手植えの梅のほかに、『誓願寺縁起絵巻』にも式部がみえる。多くの伝承から謡曲にも『誓願寺』をはじめ9曲ほどの式部物がある。
[渡邊昭五]
『吉田幸一編『和泉式部全集』本文篇(1959・古典文庫)』▽『寺田透著『日本詩人選8 和泉式部』(1971・筑摩書房)』
(山本登朗)
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生没年不詳。平安中期の歌人。「和泉式部集」「和泉式部日記」の作者。大江雅致(まさむね)の女。母は平保衡(やすひら)の女。和泉式部は女房名で,江(ごう)式部ともよばれた。20歳頃に橘(たちばな)道貞と結婚,小式部内侍(こしきぶのないし)をうむ。やがて冷泉天皇の皇子為尊(ためたか)親王,その死後は弟の敦道(あつみち)親王との恋におちた。その経緯は「和泉式部日記」に詳しいが,1007年(寛弘4)敦道親王にも先立たれ,09年一条天皇の中宮彰子(しょうし)のもとに出仕した。その後,藤原保昌(やすまさ)と再婚,27年(万寿4)までの生存が確認できる。平安中期を代表する歌人の1人で,新鮮で情熱的な叙情歌が多い。中古三十六歌仙の1人。「拾遺集」以下の勅撰集に248首入集。奔放な恋愛と和歌はのちさまざまの説話・伝説をうんだ。
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…生母超子(ちようし)(藤原兼家の娘)の美貌をうけて容姿端麗であったうえに,文才に恵まれ,和歌のほか漢詩をもよくした。和泉式部との恋愛事件が衆人の関心を呼んだことは,《栄華(花)物語》や《大鏡》に詳しい。《和泉式部日記》中の和泉との贈答歌によって,その歌才のほどがうかがえる。…
…成立は室町時代か。平安時代,一条天皇の世に,橘保昌とのあいだに1子をもうけた和泉式部は,その子を五条の橋のもとに捨てる。子は拾われ,やがて比叡山にのぼって道命阿闍梨(どうめいあじやり)という高僧になった。…
…歌集。和泉式部の家集。正集,続集,宸翰(しんかん)本,松井本,雑種本の5類があり,その総称。…
…作者不明。シテは和泉式部の霊。旅の僧(ワキ)が都に着き,東北院の梅を眺めていると,若い女(前ジテ)が現れ,この寺はもと中宮上東門院の御所で,そのころ仕えていた和泉式部が植えたのがこの梅だと教え,実は自分がこの花の主(あるじ)だといって姿を消す。…
…母は越中守平保衡の女。和泉式部は女房名で,江式部,式部などとも呼ばれた。すぐれた抒情歌人として知られ,《和泉式部集》正・続1500余首の歌を残し,《和泉式部日記》の作者として名高い。…
※「和泉式部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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