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和泉式部 いずみしきぶ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

和泉式部
いずみしきぶ

[生]貞元1(976)頃
[没]長元9(1036)頃
平安時代中期の女流歌人。父は大江雅致 (まさむね) ,母は平保衡 (やすひら) の娘。父母ともに縁のあった冷泉天皇皇后昌子 (しょうし) のもとに早くから出仕したらしい。 20歳前後で和泉守橘道貞 (みちさだ) と結婚し,小式部内侍 (こしきぶのないし) を生んだが,冷泉天皇皇子為尊 (ためたか) 親王と関係し,道貞と離婚。長保4 (1002) 年為尊親王と死別,翌年夏頃からその弟敦道 (あつみち) 親王と関係が生じた。寛弘4 (07) 年敦道親王とも死別,同6年頃一条天皇中宮彰子 (しょうし) に再出仕した。その後藤原保昌 (やすまさ) と再婚。万寿2 (25) 年小式部内侍に先立たれる不幸もあった。最終詠歌は同4年皇太后妍子 (けんし) 追善歌。多感で清新な詠歌は傑出しており,『拾遺集』以下の勅撰集に 250首近く入集し,家集『和泉式部集』がある。『和泉式部日記』は敦道親王との愛情の成立過程を記したもの。和泉式部にまつわる説話,伝説は,民間信仰と結びついて広く各地に分布している。

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デジタル大辞泉の解説

いずみ‐しきぶ〔いづみ‐〕【和泉式部】

平安中期の女流歌人。大江雅致(おおえまさむね)の娘。和泉守橘道貞と結婚し、小式部内侍を産んだ。為尊(ためたか)親王、次いでその弟の敦道(あつみち)親王と恋をし、上東門院彰子に仕えてのち藤原保昌に嫁するなどした経歴から、恋の歌が多い。「和泉式部日記」「和泉式部集」がある。生没年未詳。

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百科事典マイペディアの解説

和泉式部【いずみしきぶ】

平安中期の歌人。生没年不詳。越前守大江雅致の女。のち和泉守となる橘道貞と結婚,小式部内侍を産んだ。冷泉天皇の皇子,帥宮(そちのみや)敦道親王との恋愛の経緯を140余首の歌を中心にして記す《和泉式部日記》の作者として名高い。
→関連項目赤染衛門後拾遺和歌集袴垂保輔藤原保昌紫式部日記

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

和泉式部 いずみしきぶ

?-? 平安時代中期の歌人。
大江雅致(まさむね)の娘。母は平保衡(やすひら)の娘。長徳2年(996)和泉守橘道貞(たちばなの-みちさだ)と結婚,小式部内侍(こしきぶのないし)を生む。夫と別居後,為尊(ためたか)親王,敦道(あつみち)親王の求愛をうけたがともに死別。のち中宮(ちゅうぐう)彰子(上東門院)につかえ,藤原保昌(やすまさ)と再婚した。中古三十六歌仙のひとりで,「拾遺和歌集」などの勅撰集に多数の歌がのる。「和泉式部日記」「和泉式部集」がある。万寿2年(1025)娘の小式部内侍に先立たれている。
【格言など】あらざらむこの世のほかの思ひ出に今一度(ひとたび)の逢ふこともがな(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

和泉式部

生年:生没年不詳
平安時代の歌人。父は越前守大江雅致。母は越中守平保衡の娘で,冷泉天皇の皇后昌子に仕え,介内侍と呼ばれた女房であった。橘道貞と結婚。夫が長保1(999)年に和泉守となったことから和泉式部と呼ばれ,のちに小式部内侍と呼ばれる娘も生まれたが,やがて不和が生じ,道貞と別居。親からも勘当された。ほどなく冷泉天皇の第3皇子である弾正宮為尊親王の寵愛を受けたが,親王は疫病で同4年に死去。その後1年も経ずに為尊親王の同母弟である帥宮敦道親王の求愛を受け,同5年の末に親王邸に移った。敦道親王と式部は,藤原公任と3者で和歌を詠みあったり,特異な形の牛車に同乗して賀茂祭を見物し注目を集めたりしたが,親王は寛弘4(1007)年に病死した。やがて,藤原道長の娘である一条天皇の中宮彰子に女房として出仕。藤原保昌と再婚。その後,娘の小式部内侍に先立たれたが,式部自身の晩年の動向は明らかでない。 奔放な異性関係から,藤原道長に戯れに「浮かれ女」といわれるなど,とかくの風評があったが,「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」の一首をはじめ,数多く残されたその和歌には,身のなりゆきを素直に受けとめた深い詠嘆が感じられる。その和歌は真情がそのまま歌となったような趣があるが,率直で大胆な作風は当時にあってきわめて個性的であり,現代に至るまで高い評価を受けている。『拾遺集』以下の勅撰集に多数の作が入集。また,敦道親王との恋を物語的に記した『和泉式部日記』には他作説もあるが,式部自作とする見方が有力である。早くからさまざまな和歌説話の主人公とされ,「東北」などの謡曲の素材となる一方,後世,女性の性にまつわる罪障とその宗教的救済を主題とする説話に特に式部の名や歌が用いられ,民間信仰とも結合して全国に多くの墓や供養塔が出現することにもなった。

(山本登朗)

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世界大百科事典 第2版の解説

いずみしきぶ【和泉式部】

平安中期の女流歌人。生没年不詳。越前守大江雅致の女。母は越中守平保衡の女。和泉式部は女房名で,江式部,式部などとも呼ばれた。すぐれた抒情歌人として知られ,《和泉式部集》正・続1500余首の歌を残し,《和泉式部日記》の作者として名高い。《後拾遺集》をはじめ勅撰集にも多くの歌を収める。式部の父は,朱雀天皇の皇女で冷泉天皇の皇后となった三条太皇太后昌子内親王に,太皇太后宮大進として仕え,母も同内親王に仕えていたから,式部は幼いころ昌子の宮邸で過ごしたと思われる。

いずみしきぶ【和泉式部】

御伽草子。作者不詳。成立は室町時代か。平安時代,一条天皇の世に,橘保昌とのあいだに1子をもうけた和泉式部は,その子を五条の橋のもとに捨てる。子は拾われ,やがて比叡山にのぼって道命阿闍梨(どうめいあじやり)という高僧になった。ある時,宮中の法事に召された道命は年のほど30ばかりの女房を見そめ,契るにいたったが,その女房は実は母和泉式部であった。相手がわが子であることを知った式部は,“憂き世”を捨てて播磨国書写山で出家をとげるという発心譚。

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大辞林 第三版の解説

いずみしきぶ【和泉式部】

平安中期の女流歌人。大江雅致まさむねの女むすめ。和泉守橘道貞と結婚、小式部内侍を生む。冷泉院の皇子為尊ためたか親王(977~1002)・敦道あつみち親王(981~1007)の寵ちようを受け、両親王薨御こうぎよ後は、一条天皇中宮彰子に出仕。のち、藤原保昌(958~1036)と再婚、夫の任地で没。恋の哀歓を直截ちよくせつに詠んだ女性として名高い。生没年未詳。著「和泉式部日記」、家集「和泉式部集」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

和泉式部
いずみしきぶ

生没年不詳。平安中期の女流歌人。大江雅致(まさむね)の女(むすめ)。母は平保衡(やすひら)の女であるとも。生年は円融(えんゆう)朝(970年代)とする説が有力。「雅致女式部」(拾遺集)、「江(ごう)式部」(御堂関白記(みどうかんぱくき))という女房名があることから、娘時代すでに出仕の経験があったと想像され、出仕先は大進(だいしん)であった父の縁で、冷泉(れいぜい)皇后昌子内親王のもとであったといわれる。やがて999年(長保1)までに橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚、和泉守(いずみのかみ)であった夫の官名から以後は「和泉式部」と一般によばれるようになった。2人の間にはまもなく娘の小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれたが、弾正尹(だんじょうのかみ)為尊(ためたか)親王(冷泉第3皇子)、大宰帥(だざいのそち)敦道(あつみち)親王(冷泉第4皇子)との相次ぐ恋愛事件によって夫婦の生活は破綻(はたん)し、父雅致からも勘当を受ける身の上となった。このうち帥宮(そちのみや)との恋愛の経緯は『和泉式部日記』に詳しい。その宮とも1007年(寛弘4)には死別し、悲嘆に暮れる式部の心情は、「家集」中の120余首にも上る挽歌(ばんか)群として結晶している。1009年、召されて上東門院(藤原彰子(しょうし))のもとに仕え、それが機縁となって藤原道長(みちなが)の家司、藤原保昌(やすまさ)に再嫁、夫とともに任国の丹後(たんご)(京都府)に下ったこともあった。1025年(万寿2)冬、娘の小式部が20歳代の若さで没し、そのおりにも子を悼む母親の痛哭(つうこく)の歌を残している。以後、晩年の式部の消息はさだかでないが、1027年9月、皇大后藤原妍子(けんし)の七七日の法事に、保昌にかわって玉の飾りを献上し、詠歌を添えたという記事が生存を伝える最後の記録となっている(『栄花(えいが)物語』玉の飾り)。即興即詠の日常詠はもとより、定数歌や連作、題詠など制約のある詠作のなかにも、式部の鋭敏な感性と揺らめく情念はみごとに形象化されており、新鮮で自由な用語を駆使したその叙情歌の数々は、平安中期最高の歌人の名にふさわしい作品群として輝いている。作品の大部分をとどめる「家集」には、902首を収める『和泉式部正集』、647首の『和泉式部続集』などがある。
 くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端(は)の月[平田喜信]

和泉式部伝説

平安中期女流歌人を主人公とした叙事伝説。実在の和泉式部とは無関係。生地も、北は岩手県から南は九州まで全国にわたって散在し、墓も数多い。もっとも多いのは和歌を中心とする伝承で、代表的なものはおよそ三つの型に分けられる。
(1)うるか問答 式部が書写山参詣(さんけい)の途次泊まった家の娘に綿を売るかと尋ねると、鮎(あゆ)のはらわたである「うるか」のことを歌で答える。その娘は、式部が五条で捨てた子であった。
(2)瘡(かさ)の歌 瘡を患った式部が参籠(さんろう)中に、薬師(やくし)の返歌で平癒する。薬師信仰に運ばれた伝承。
(3)式部と高僧との歌問答 有名なのは書写山性空(しょうくう)に贈った歌の話。御伽草子(おとぎぞうし)『和泉式部』にもとられ、わが子と知らず道命法師と恋をすることになっている。
 これらの伝承を運んだのは、小町、紫式部、静御前(しずかごぜん)、虎(とら)御前などの女性伝承を伝えた一群の人々と同じで、泉や川辺に宗教行事を行いながら回国した女たちと考えられる。その寄留地として有力なのが京都誓願寺で、墓や式部手植えの梅のほかに、『誓願寺縁起絵巻』にも式部がみえる。多くの伝承から謡曲にも『誓願寺』をはじめ9曲ほどの式部物がある。[渡邊昭五]
『吉田幸一編『和泉式部全集』本文篇(1959・古典文庫) ▽寺田透著『日本詩人選8 和泉式部』(1971・筑摩書房)』

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世界大百科事典内の和泉式部の言及

【敦道親王】より

…生母超子(ちようし)(藤原兼家の娘)の美貌をうけて容姿端麗であったうえに,文才に恵まれ,和歌のほか漢詩をもよくした。和泉式部との恋愛事件が衆人の関心を呼んだことは,《栄華(花)物語》や《大鏡》に詳しい。《和泉式部日記》中の和泉との贈答歌によって,その歌才のほどがうかがえる。…

【和泉式部】より

…成立は室町時代か。平安時代,一条天皇の世に,橘保昌とのあいだに1子をもうけた和泉式部は,その子を五条の橋のもとに捨てる。子は拾われ,やがて比叡山にのぼって道命阿闍梨(どうめいあじやり)という高僧になった。…

【和泉式部集】より

…歌集。和泉式部の家集。正集,続集,宸翰(しんかん)本,松井本,雑種本の5類があり,その総称。…

【東北】より

…作者不明。シテは和泉式部の霊。旅の僧(ワキ)が都に着き,東北院の梅を眺めていると,若い女(前ジテ)が現れ,この寺はもと中宮上東門院の御所で,そのころ仕えていた和泉式部が植えたのがこの梅だと教え,実は自分がこの花の主(あるじ)だといって姿を消す。…

【和泉式部】より

…母は越中守平保衡の女。和泉式部は女房名で,江式部,式部などとも呼ばれた。すぐれた抒情歌人として知られ,《和泉式部集》正・続1500余首の歌を残し,《和泉式部日記》の作者として名高い。…

※「和泉式部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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