宮津市(読み)ミヤヅシ

デジタル大辞泉 「宮津市」の意味・読み・例文・類語

みやづ‐し【宮津市】

宮津

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日本歴史地名大系 「宮津市」の解説

宮津市
みやづし

面積:一六九・七六平方キロ

奥丹後半島の東南基底部から、若狭湾に面して南北に広がる。奥丹後半島と向い合う栗田くんだ半島に抱かれた部分を宮津湾と称し、そのうち天橋立の東を外海そとうみ、内側を内海うちうみまたは阿蘇海あそかいと称する。西側背面の山岳部は奥丹後半島の脊梁部をなし、高いところで五〇〇―六〇〇メートルに達する。南部も由良ゆらヶ岳(六四〇メートル)赤岩あかいわ(六六九メートル)などの山系、大江おおえ山山系の一部、五万騎ごまんぎ山などに囲まれる。以上の山系が竹野郡・中郡ならびに与謝郡野田川のだがわ町・加悦かや町、加佐郡大江町・舞鶴市などの境をなしている。宮津市は宮津湾で北部分と南部分に二分されるので、南北間の陸路は宮津湾奥、阿蘇海西岸の与謝郡岩滝いわたき町を通過する。海岸の大部分は若狭湾国定公園に含まれ風光明美で、とりわけ天橋立は日本三景の一で特別名勝に指定されている。

平城宮出土木簡に「宮津郷烏賊二斤」とあるのが宮津の初見で、次いで「和名抄」に宮津郷がある。ここにいう「宮」はどこか、また宮津郷の地域がどこまで及ぶかは定かでない。後世、丹後国田数帳にいう宮津庄は宮津市の宮津谷・栗田地区、岡田おかだ地区(現舞鶴市)漆原うるしばら辺りまでを含むので一応の目安となる。

〔原始〕

府中ふちゆう地区の中野なかの遺跡からは縄文時代と弥生後期の土器が出土している。上宮津かみみやづ地区の桑原口くわばらぐち遺跡は弥生終末期から古墳初期にかけての遺跡である。日置ひおき地区の高石たかいし、府中地区江尻えじり深田ふかだ、上宮津地区の薬師やくし、由良地区の石浦いしうらなども弥生時代の遺跡である。古墳時代に入ると阿蘇海周辺須津すづ地区のかき二号墳が五世紀初頭のものとして最も古く、時代の下るものとしては須津・府中・日置・上宮津・栗田・由良などに古墳が散在している。

〔古代〕

「和名抄」に当市関係の郷を拾えば、宮津・日置・拝師はやしの三郷があるが、現在市域のなかに的確に位置づけることは難しい。

奈良時代に置かれた国分寺は府中にある国指定史跡国分寺跡が位置を示している。国分尼寺は丹後国田数帳によって存在を推定できるが、位置を確かめる手がかりはない。「延喜式」神名帳に記される式内社「与謝郡廿座大三座小十七座」のうち、この神社(名神大、丹後一宮)布甲ふこう神社(小)久理陀くりた神社(小)多由たゆ神社(小)杉末すぎのすえ神社(小)、「加佐郡十一座大一座小十座」のうち奈具なぐ神社(小)の大一座・小五座が宮津市域にあり、ほかに吾野あがの神社(小)を須津の須津神社とする説もある。籠神社は海部直が祝部となって祀った古社で、いまも海部氏の貞観年中(八五九―八七七)作の古系図および近世の勘注系図がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮津市」の意味・わかりやすい解説

宮津〔市〕
みやづ

京都府北部,若狭湾の支湾宮津湾栗田湾に面する市。1954年市制。1956年には由良村を編入して東の由良川が市境となる。市域の大部分が丹後山地で,平地は少ない。中心市街地の宮津は江戸時代には主として松平氏(本庄氏)の城下町西廻海運の寄港地として発展。現在の宮津港は丹後の機業地を後背地とする商港。メリヤスなどの繊維工業や水産加工業が行なわれ,宮城県の松島,広島県の厳島(宮島)と並ぶ日本三景の一つ天橋立(国の特別名勝)があり,観光地としてもにぎわう。宮津湾奥の阿蘇海北岸には国指定の史跡,丹後国分寺跡がある。また,国指定重要文化財の多宝塔がある智恩寺,国指定重要文化財の絹本著色紅玻璃阿弥陀像を所蔵する成相寺(なりあいじ)や国宝の海部氏(あまべうじ)系図を所蔵する籠神社などがある。湾岸部一帯は丹後天橋立大江山国定公園に属する。湾岸部を北近畿タンゴ鉄道が通り,国道178号線が並走する。面積 172.74km2(境界未定)。人口 1万6758(2020)。

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