清少納言(読み)セイショウナゴン

デジタル大辞泉 「清少納言」の意味・読み・例文・類語

せい‐しょうなごん〔‐セウナゴン〕【清少納言】

平安中期の女流文学者。本名未詳。父は清原元輔きよはらのもとすけ曽祖父深養父ふかやぶ。正暦4年(993)ごろから一条天皇の中宮定子に仕え、和漢学才をもって寵を受けた。随筆枕草子」、家集「清少納言集」など。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「清少納言」の意味・読み・例文・類語

せい‐しょうなごん‥セウナゴン【清少納言】

  1. ( 父清原元輔の清原姓にちなんだ呼び名という ) 平安中期の女流随筆家。本名未詳。曾祖父深養父(ふかやぶ)、父元輔ともに歌人。中古三十六歌仙の一人。橘則光と結婚したが別れ、正暦四年(九九三)ごろから一条天皇の皇后定子に仕えて和漢にわたるその才を愛された。藤原実方、公任、行成らと交友関係があった。定子没後は宮中から退き、藤原棟世の後妻となる。随筆に「枕草子」、家集に「清少納言集」など。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「清少納言」の意味・わかりやすい解説

清少納言 (せいしょうなごん)
生没年:966ころ(康保3ころ)-?

平安中期の女流文学者。父は〈梨壺の五人〉の一人として有名な歌人清原元輔,祖父(曾祖父ともいう)深養父(ふかやぶ)も清少納言自身も中古歌仙三十六人に数えられる和歌重代の家柄。父の友人には源順,大中臣能宣ら漢詩文や和歌に達者な一流人物が多く,元輔の末娘はこれらの人々に愛され,利発で早熟な少女として育った。981年(天元4)ころ,名家橘氏の嫡男則光と結婚,翌年則長を生んだがまもなく離婚,991年(正暦2)ころ,父ほど年の違う藤原棟世(むねよ)と再婚し,小馬命婦(こまのみようぶ)を生んだが別居して,993年冬,一条帝中宮,関白藤原道隆の娘定子に仕えた。外向的で協調性に富み,感激性の清少納言は,華やかな宮廷生活に素直に融け込み,たちまち中宮方を代表する存在となった。994年2月の積善寺供養に前後するころが最も華やかな時期,〈香炉峰の雪〉で評判をとったのもその年の冬であった。

 しかし翌995年(長徳1)4月10日道隆が薨(こう)じると,政界の形勢は一変して中宮の周辺には暗雲が垂れこめ,翌年4月,中宮の兄弟伊周・隆家らが左遷されると,中宮の女房たちも去就に迷い,殊寵をほしいままにしていた清少納言には,左大臣道長方に内通しているとのうわさが集中して,その夏・秋には長期の里居にこもることとなった。清少納言が気を紛らせるために原初狭本類纂型の《枕草子》を執筆し始めたのはこの時であろう。やがて中宮の愛情にこたえて帰参してからは,叔父道長の圧迫や,道長の娘彰子と二后並び立つ窮境にも屈せず,一条天皇の愛情にこたえる皇后定子の姿に,いっそうの忠誠心を固めていった。修子,敦康,媄子と次々に子を儲け,心身ともに疲れ果てて1000年(長保2)12月16日24歳の若さで皇后が没してからは,道長方が皇后の遺児たちに温かく接することを願って,もっぱら皇后定子のすばらしい人柄を筆の限りを尽くして賞賛し,完結広本雑纂型《枕草子》を完成したのは,寛弘年間(1008ころ)にも及んでいた。

 皇后の死後は宮仕えせず,初めは老夫摂津守棟世のもとに身をよせ,次いで亡父元輔の桂山荘のかたわらに侘び住いしたが,さらに世間との交渉を避けて,愛宕山中腹月輪寺に近い棟世の月輪山荘に隠棲した。元輔の子といわれることをおそれて中宮に詠歌御免を請い,《清少納言集》《枕草子》《公任集》《和泉式部集》を通計して55首の自詠しか残さなかった寡作ぶり,道長方に内通するとのうわさにも争わずに里居にこもり,皇后亡きあとは人里離れた隠遁生活を送るなど,清少納言には意外な気の弱さが隠されていた。近世になって,晩年の清少納言は零落して遠国に流浪したという数々の説話が発生したが,これは,清少納言自身がひそやかな晩年を送ったという事実と,夫藤原宣孝や従兄信経のかんばしからぬ逸話を《枕草子》に書きたてられたことを恨んだ紫式部が,その日記に清少納言の零落を予言するかのような酷評を残したこととが結合してのことである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清少納言」の意味・わかりやすい解説

清少納言
せいしょうなごん

生没年未詳。平安時代中期の歌人、随筆家。966年(康保3)のころ生まれて1025年(万寿2)のころ没したと推測されている。父は歌人清原元輔(もとすけ)であるが、母は明らかでない。966年に元輔は59歳であり、年齢に差のある異腹の兄姉、雅楽頭(うたのかみ)為成(ためしげ)、大宰少監(だざいのしょうげん)致信(むねのぶ)、花山院(かざんいん)殿上法師(てんじょうほうし)戒秀(かいしゅう)、藤原理能(まさとう)妻がいた。清原氏には和歌や漢学に精通した者も多く、恵まれた環境下に成人し、981年(天元4)のころ陸奥守橘則光(むつのかみたちばなののりみつ)と結婚し、則長をもうけたが、離別し、父元輔も990年(正暦1)に肥後守(ひごのかみ)として83歳で任地に没した。993年に一条(いちじょう)天皇の中宮定子(ていし)のもとに出仕し、約10年間の女房生活を送った。清少納言の清は清原氏を意味するが、なぜ少納言とよばれるかは明らかでない。多数の才媛(さいえん)に交じって才能を発揮し、藤原実方(さねかた)・同公任(きんとう)・同斉信(ただのぶ)・同行成(ゆきなり)らと交流し、快適な日々を過ごしたが、中宮の父道隆(みちたか)が没して政権は道長に移動し、中宮の兄弟の伊周(これちか)・隆家(たかいえ)が大宰権帥(ごんのそつ)・出雲権守(いずものごんのかみ)に左遷させられる事件が起こり、清少納言も道長方に内通しているといった噂(うわさ)をたてられて、私邸に籠居(ろうきょ)したこともあった。その間に初稿本の『枕草子(まくらのそうし)』を執筆して人々の賞賛を博す。再出仕後に増補するが、現存本の完成は、中宮が1000年(長保2)に崩御したのちのことである。

 その後の清少納言の動静は明らかでない。摂津守(せっつのかみ)藤原棟世(むねよ)と再婚して歌人小馬命婦(こまのみょうぶ)をもうけているが、その時期についても諸説がある。『紫式部日記』は彼女の学才を疑い、他人と異なることを好む性向を批判するが、『枕草子』は中宮のめでたさを賛美し、自己の観察した世界を記す。赤染衛門(あかぞめえもん)や和泉式部(いずみしきぶ)ら女流歌人とも交流し、その明るい人柄は多数の人々から敬愛された。晩年は月輪(つきのわ)(京都市東山区月輪町)に隠棲(いんせい)し、宮仕え時代と比べると寂しい生活を送ったが、零落し、放浪したという『無名草子(むみょうぞうし)』『古事談』などの説話は事実ではなかろう。家集『清少納言集』がある。

[上野 理]

『岸上慎二著『清少納言伝記攷』(1943・新生社)』


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朝日日本歴史人物事典 「清少納言」の解説

清少納言

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:康保3頃(966)
平安時代の歌人,作家。治安・万寿年間(1021~28)ころ没。随筆集『枕草子』の著者。曾祖父清原深養父と共に中古三十六歌仙のひとり。父は清原元輔。橘則光と結婚して則長をもうけるが,のち離別。中関白藤原道隆の後見する一条天皇皇后定子に仕え,後宮では,折りにつけ機敏な才能を発揮した。藤原公任,源俊賢,藤原斉信,藤原行成らをはじめ,公卿殿上人などの貴顕との交流においても才知を披瀝している。道隆の死後,その子伊周,隆家が失脚し,定子の後宮が衰微していくなかで,反対勢力の道長方とみられたこともあった。長保2(1000)年の定子没後は,その遺児脩子内親王に仕えたり,摂津守藤原棟世と結婚し,小馬命婦を生んだりしたらしい。晩年は零落して地方に住んでいたという逸話が『無名草子』や『古事談』などにあるが,実際は父の住んでいた月輪(京都東南の郊外)で暮らしたとされる。 歌集『清少納言集』には日常生活的な詠歌が多く,機知に長けた表現の即興的詠風である。その歌風には古今集風の詠歌をする曾祖父と,即興的詠歌をする父との歌才を直接に受け継いだ面がある。しかし,ふたりの影響は,詠歌よりも『枕草子』の表現に結実している。『紫式部日記』には「さかしだち,真名書きちらして侍るほども,よく見れば,まだいとたへぬこと多かり(賢ぶって学才をひけらかすけれども,浅薄なものでしかない)」と,厳しい批評があるが,むしろ臨機応変な対応が要求された後宮で,鋭敏な感性と,常識的教養に裏打ちされた知識と即興的行動が周囲の人々を感嘆させた。また,周りがそれを歓迎したことなどが『枕草子』成立の基盤となっている。このように『枕草子』は,宮廷文化のなかで,中関白家の教養ある環境と清少納言の感性,表現力とから生まれたものであるといえる。「春はあけぼの」などそれまで和歌には詠まれなかった材料も,『枕草子』では新たな美的評価が与えられるなど,清少納言の文学的貢献は大きい。

(松田豊子)

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百科事典マイペディア 「清少納言」の意味・わかりやすい解説

清少納言【せいしょうなごん】

平安中期の女性文学者。生没年未詳。歌人清原元輔の女。祖父深養父(ふかやぶ)も有名な歌人。993年ごろ一条帝中宮(のち皇后)定子に仕えた。文化的な家庭環境に育ち,早くから和漢の才をもって聞こえ,中宮彰子の側にあった紫式部と並び称された。関白藤原道隆の没後不遇であった皇后に最後まで仕え,1000年皇后の死とともに宮廷を退いた。《枕草子》の完成は宮仕えの後。晩年は隠遁生活を送ったらしい。家集に《清少納言集》があり,《小倉百人一首》にも選ばれている。
→関連項目赤染衛門一条天皇紫式部日記

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清少納言」の意味・わかりやすい解説

清少納言
せいしょうなごん

[生]康保3(966)頃
[没]万寿2(1025)頃
平安時代中期の女流歌人。『枕草子』の作者。歌人の家柄に生れ,父は『後撰集』の撰者清原元輔。橘則光,藤原棟世 (むねよ) らと結婚,橘則長,小馬命婦らを産んだと推定される。その生涯の詳しいことは,一条天皇の中宮定子に正暦4 (993) 年頃出仕してから長保2 (1000) 年定子が薨じるまでの宮廷生活を中心に知りうるだけである。定子の寵愛を受けて,その父の関白藤原道隆,その兄の伊周 (これちか) をはじめ,藤原斉信 (ただのぶ) ,藤原行成以下の公家貴族とのはなやかな交際場裡に生きた。それらを具体的に記した散文『枕草子』には,打てば響く活発な才気,宮廷文化の頂点に立つ鋭い美意識がみられる。和泉式部,紫式部とともに平安時代女流文学を代表。晩年は落ちぶれて老い恥をさらしたと『古事談』などに伝えられ,東国に流れていったときに記したという『松島日記』などがあるが,すべて伝説で信じられない。家集に『清少納言集』がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「清少納言」の解説

清少納言
せいしょうなごん

生没年不詳。平安時代の歌人・随筆家。「枕草子」「清少納言集」の作者。本名未詳。清少納言は女房名。966年(康保3)頃出生し,1017年(寛仁元)以降没した。父は清原元輔(もとすけ),母は未詳。曾祖父は深養父(ふかやぶ)。974年(天延2)元輔の周防国赴任に同行し,4年を過ごす。981年(天元4)頃に橘則光と結婚,翌年則長を生むが,離別して993年(正暦4)一条天皇の中宮定子に出仕。定子の命により「枕草子」を執筆する。定子の死去(1000)後の動静は不明だが,藤原棟世と再婚して上東門院に仕えた小馬命婦(こまのみょうぶ)を生んだらしい。晩年は京都近郊の月輪山荘に住む。「後拾遺集」以下の勅撰集に14首ほど入集。中古三十六歌仙の1人。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清少納言」の解説

清少納言 せいしょうなごん

?-? 平安時代中期の歌人,随筆家。
清原元輔(もとすけ)の娘。橘則光(たちばなの-のりみつ)と結婚したが離婚,正暦(しょうりゃく)4年(993)ごろより一条天皇の中宮の藤原定子(ていし)につかえ,約10年間女房生活をおくる。漢詩文の教養と才気と機知により宮廷に名をはせた。著作に「枕草子(まくらのそうし)」,家集に「清少納言集」。
【格言など】夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂(あふさか)の関は許さじ(「小倉百人一首」)

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防府市歴史用語集 「清少納言」の解説

清少納言

 平安時代後半の有名な女性歌人で、三十六歌仙[さんじゅうろっかせん]の1人に数えられるほどでした。また、『枕草子[まくらのそうし]』の作者としても有名です。父である清原元輔[きよはらのもとすけ]が周防国司[すおうこくし]になったときは、父とともに周防を訪れたと思われます。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「清少納言」の解説

清少納言
せいしょうなごん

生没年不詳
平安中期の女流随筆家・歌人
歌人清原元輔 (もとすけ) の娘。紫式部と並び称せられた才女で,一条天皇の中宮定子に仕えた。著書に『枕草子』,家集『清少納言集』。

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世界大百科事典(旧版)内の清少納言の言及

【藤原定子】より

…12月16日次女子内親王を出産,即日死去した。定子に仕えていた清少納言の《枕草子》には,聡明で奥ゆかしい美人として描かれており,清少納言の傾倒のほども察せられる。【今井 源衛】。…

【枕草子】より

…平安中期,996年(長徳2)ころから1008年(寛弘5)ころの間に成立した日本最初の随筆文学。作者は清少納言。一条天皇の中宮定子(藤原定子)に仕えていた清少納言は,996年秋,中宮の一家と対立し容赦ない圧迫の手を加える左大臣藤原道長方に内通しているとのうわさにいたたまれず,中宮のそばを離れて長期の宿下がりに閉じこもった。…

※「清少納言」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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