竹野郡
たけのぐん
面積:二二〇・一五平方キロ
弥栄町・丹後町・網野町
丹後半島に位置、北は日本海に面し、東端の経ヶ岬から西方熊野郡久美浜町に向かって海岸線が長く延びる。東南部は成相山脈が丹後半島の東寄りを北に縦走して太鼓山山系となり、碇高原と岳山を経て経ヶ岬に至る丹後半島の脊梁をなしている。この山系が竹野郡と与謝郡伊根町、宮津市、中郡の境界をつくる。南方は宮津市上世屋、中郡大宮町・峰山町、西は権現山・トッサカ山につながる山脈をもって熊野郡と接する。
野間谷に発する宇川、中郡大宮町の五十河を源とする竹野川、網野町の切畑・新庄の谷に発する福田川の三川が郡内を北流して日本海に注ぎ、流域の沖積平野は竹野郡の穀倉地帯となっている。
藤原宮出土木簡に「旦波国竹野評□□里大贄布奈
」とみえるのが早く、以降異記はない。「延喜式」神名帳は「タカノ」と訓じ、「和名抄」刊本(郡部)も「多加乃」とするが、いつの頃からか「タケノ」といいならわすようになっている。しかし丹後町に郡名の発生地と考えられている竹野の地があり、これは「タカノ」、また竹野に隣接する宮にある式内社竹野神社も「タカノ」とよぶ。
〔原始〕
郡内における縄文・弥生時代のおもな遺跡として、丹後町平遺跡・竹野遺跡、網野町宮ノ下遺跡・浜詰遺跡・林遺跡・柳谷口遺跡がある。
古墳は、前期の前方後円墳に丹後町の神明山古墳、網野町の銚子山古墳、弥栄町の黒部銚子山古墳があり、中期の円墳に丹後町産土山古墳、後期の円墳に同町大成古墳群(一三基)などがある。前方後円墳三基は日本海沿岸の他地域の古墳に比べてとくに大きく、古墳前期に大規模な古墳を築造できたほどの権力を有した豪族のいたことを物語る。
〔古代〕
先引藤原宮出土木簡に「旦波国竹野評」とみえ、竹野評は丹波国に属していたが、「続日本紀」によれば和銅六年(七一三)丹波国の竹野郡など五郡が割かれて丹後国が設置された(同年四月三日条)。天平一一年(七三九)一〇月付の正倉院宝物赤
には「丹後国竹野郡」とある。また天平勝宝元年(七四九)一二月一九日付の東大寺奴婢帳(正倉院文書)に「婢真玉女年弐拾陸印左頬黒子 竹野郡戸主家部広足之婢価稲壱仟束」とみえるほか、天平勝宝四年一〇月二五日付造東大寺司牒(同文書)に「丹後国伍拾戸竹野郡網野郷」とあって、この時網野郷五〇戸が東大寺家雑用料として封ぜられている。
「古事記」懿徳天皇の段に「次に当芸志比古命は、血沼の別、多遅麻の竹別、葦井の稲置の祖」とあって、竹別は但馬国美含郡竹野郷(現兵庫県城崎郡竹野町)にあった別氏であり、丹後の竹野は但馬とはあまりかけ離れていないことから考えると、丹後北部から但馬北部へかけての一帯の地を竹野という総称でよんでいたか、あるいは但馬竹別の勢力が丹後の北部に及んでいたとも考えられる。
竹野郡
たけのぐん
筑後国の北端中央部に位置し、北西端は御井郡、西は山本郡、南は上妻郡、東は生葉郡、北は筑前国上座郡・下座郡に接する。およその近世の郡域は現在の浮羽郡田主丸町および同郡吉井町の西端部に相当する。古代・中世は「たかの」、近世以降は「たけの」と称されたという。
〔古代〕
「和名抄」東急本・元和古活字本は「多加乃」の訓を、名博本は「タカムノ」の傍訓を付す。「三代実録」貞観八年(八六六)三月四日条に、大宰府が観世音寺(現太宰府市)講師性忠の申出に従って、同寺の家人清貞・貞雄・宗主の三人を良民とし、本貫地を「筑後国竹野郡」とすることを願出て許されたとあるのが郡名の初見。延喜五年観世音寺資財帳の水田章には、和銅二年(七〇九)一〇月二〇日の太政官符によって観世音寺に筑後国の墾田一六町が施入されたことがみえるが、その内訳は三原郡に八町、生葉郡に四町、竹野郡に四町であった。竹野郡四町の墾田の所在地を現田主丸町秋成字蔵八付近とする説がある。「和名抄」には管郷として柴刈・二田・竹野・長栖・船越・川会の六郷が記載されている。このうち二田・竹野の郷名は中世、あるいは近世を経て明治以降にまで引継がれているが、柴刈・長栖・船越・川会の四郷は現在にその地名を残すものの、いずれも明治期に旧郷名を復活させたもので、古代郷の遺称地名と考えることはできない。郡衙は郡名を負う竹野郷に所在していたと推定されている。耳納山地北麓は条里地割の痕跡がきわめて良好に残存しており、竹野郡およびその東西に隣接する生葉郡・山本郡の三郡にわたる東西約二十数キロの範囲で大条里区が展開している。また遺存する条里呼称に基づく遺称地名によって各郡の条里復元もなされており、条里施行地帯における郡境も推定されている。それによれば竹野郡は現田主丸町の西方で、境川より一〇〇―二〇〇メートル東側の地割線を山本郡との境界とし、現吉井町の県立浮羽高等学校敷地の西側の地割線を生葉郡との境界としているとされる。
〔中世〕
仁治二年(一二四一)六月一日の筑後国検交替使実録帳(宮内庁書陵部所蔵諸官符口宣古宣命等古文書/鎌倉遺文八)では、当郡の正倉がすでに廃絶していることが報告され、郡の機構が衰退していることを示している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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