日本歴史地名大系 「竹野郡」の解説
竹野郡
たけのぐん
丹後半島に位置、北は日本海に面し、東端の
藤原宮出土木簡に「旦波国竹野評□□里大贄布奈」とみえるのが早く、以降異記はない。「延喜式」神名帳は「タカノ」と訓じ、「和名抄」刊本(郡部)も「多加乃」とするが、いつの頃からか「タケノ」といいならわすようになっている。しかし丹後町に郡名の発生地と考えられている竹野の地があり、これは「タカノ」、また竹野に隣接する
〔原始〕
郡内における縄文・弥生時代のおもな遺跡として、丹後町
古墳は、前期の前方後円墳に丹後町の
〔古代〕
先引藤原宮出土木簡に「旦波国竹野評」とみえ、竹野評は丹波国に属していたが、「続日本紀」によれば和銅六年(七一三)丹波国の竹野郡など五郡が割かれて丹後国が設置された(同年四月三日条)。天平一一年(七三九)一〇月付の正倉院宝物赤には「丹後国竹野郡」とある。また天平勝宝元年(七四九)一二月一九日付の東大寺奴婢帳(正倉院文書)に「婢真玉女年弐拾陸
「古事記」懿徳天皇の段に「次に当芸志比古命は、血沼の別、多遅麻の竹別、葦井の稲置の祖」とあって、
竹野郡
たけのぐん
- 福岡県:筑後国
- 竹野郡
筑後国の北端中央部に位置し、北西端は
〔古代〕
「和名抄」東急本・元和古活字本は「多加乃」の訓を、名博本は「タカムノ」の傍訓を付す。「三代実録」貞観八年(八六六)三月四日条に、大宰府が観世音寺(現太宰府市)講師性忠の申出に従って、同寺の家人清貞・貞雄・宗主の三人を良民とし、本貫地を「筑後国竹野郡」とすることを願出て許されたとあるのが郡名の初見。延喜五年観世音寺資財帳の水田章には、和銅二年(七〇九)一〇月二〇日の太政官符によって観世音寺に筑後国の墾田一六町が施入されたことがみえるが、その内訳は
〔中世〕
仁治二年(一二四一)六月一日の筑後国検交替使実録帳(宮内庁書陵部所蔵諸官符口宣古宣命等古文書/鎌倉遺文八)では、当郡の正倉がすでに廃絶していることが報告され、郡の機構が衰退していることを示している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報