中之又谷村(読み)なかのまただにむら

日本歴史地名大系 「中之又谷村」の解説

中之又谷村
なかのまただにむら

[現在地名]木城町中之又なかのまた

鹿遊かなすみ村の北西に位置し、小丸おまる川の支流板谷いたや川南岸の谷間にある。仲俣などとも記される。文明一六年(一四八四)伊東氏が飫肥おびへ出陣する際、中ノ俣衆は伊東祐国の軍勢に組織されていた。中ノ俣衆は渡河衆・雄八重衆などとともに米良氏を中心とする山裏一揆を構成しており、天文二年(一五三三)伊東祐清が祐武を殺害した伊東氏内訌の際には祐武の嫡男左兵衛佐は山裏一揆を頼りとしている(日向記)

元禄一〇年(一六九七)の肥後国絵図(永青文庫)に中俣谷とみえ、人居斗と注記されるのみで、高の記載はない。天保五年(一八三四)の米良山郷村高帳写(相良家文書)によると高六石七斗余、うち小物成高三石三斗余、延享三年(一七四六)高入れの焼畑雑穀高二石五斗余、天保二年高入れの焼畑雑穀高八斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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