児湯郡(読み)こゆぐん

日本歴史地名大系 「児湯郡」の解説

児湯郡
こゆぐん

面積:七一五・五八平方キロ
都農つの町・川南かわみなみ町・高鍋たかなべ町・新富しんとみ町・木城きじよう町・西米良にしめら

宮崎県のほぼ中央部に位置し、西都市によって東西に分断される。同市東側には都農町・川南町・高鍋町・新富町・木城町があり、北は日向市と東臼杵郡東郷とうごう町・南郷なんごう村、南は宮崎郡佐土原さどわら町、東は日向灘に面する。西都市西側には西米良村があり、北は東臼杵郡椎葉しいば村、西は熊本県球磨くま水上みずかみ村・湯前ゆのまえ町・多良木たらぎ町、南は西諸県にしもろかた須木すき村、東諸県郡あや町・国富くにとみ町と接する。西端に空野そらんの(一一二六・八メートル)、北に尾鈴おすず(一四〇五・二メートル)がそびえる。その間を深い谷を形成しながら小丸おまる川が東流し、途中切原きりばる川などを合せながら日向灘に注ぐ。また尾鈴山東麓に源を発する名貫なぬき川や都農川・平田へだ川などがあり、南端の郡境を一ッ瀬川が東流し、いずれも日向灘に注ぐ。名貫川には三〇余の滝がかかり、尾鈴山瀑布群として知られる。郡の東部は宮崎平野の北部に属する。近世の郡域は肥後国に所属した現西米良村を除く現在の児湯郡域のほか、北は耳川の右岸、現在の日向市南端部を含み、西は西都市の旧東米良村域を除く地域を含んでいる。北は臼杵郡、西は肥後国球磨郡、南は那珂郡・諸県郡に接していた。訓は「和名抄」名博本に「コユ」、建久図田帳の応永二八年(一四二一)二月二七日の追記部分に「コイノコヲリ」とある。

〔古代〕

「和名抄」高山寺本は「児嶋」とするが、これは誤写と思われる。「日本書紀」景行天皇一七年三月一二日条によれば、景行天皇は高屋たかや宮から子湯県に幸して丹裳小野にものおのに遊んだという。また「塵袋」所引の「日向国風土記」逸文には古郡吐濃峯の説話がみえ、「続日本後紀」承和四年(八三七)八月一日条には子湯郡都濃神の記事があるので、「古郡」「子湯郡」の表記もあったことがわかる。その名義に関して「日向旧跡見聞録」は、昔この地で火明尊が生れたとき尊を水で沐浴させたので児湯というとする古老伝を載せるが、「太宰管内志」はこの説は信をおけないとする。「和名抄」によれば当郡は三納みのう穂北ほきた大垣おおがき三宅みやけ覩唹とお韓家からや平群へぐり都野つのの八郷からなる。郡内には茶臼原ちやうすばる古墳群・西都原さいとばる古墳群(西都市)新田原にゆうたばる古墳群(新富町)をはじめとする数多くの古墳があり、そのなかには九州最大の前方後円墳である女狭穂塚めさほづか古墳(西都市)も含まれており、当地域の首長が古くからヤマト王権と密接な関係をもち、日向地方の中心地であったことがわかる。七世紀末には三野みの(現西都市)が造られたと考えられ、八世紀には国府が置かれて日向国の中心として機能した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報