現在の日南市および南那珂郡
建武三年(一三三六)一一月八日、「日向方飫肥」が長谷場鶴一丸に安堵されている(「光明院院宣案」長谷場文書)。同年一二月二日には足利尊氏が飫肥における武士の乱妨停止を約束し、年貢収納の勤めを果すよう鶴一丸に命じ(「足利尊氏御内書案」同文書)、違乱があった場合、その停止は鹿児島の島津貞久に命じるとしている(一二月一九日「行政奉書」同文書)。当地域はこの頃水間氏が年貢未納により、島津庄の領家預所であった奈良興福寺
応永七年(一四〇〇)奥州家島津元久と従兄の総州家島津伊久が不和となった際、飫肥方(野辺氏か)は元久の側についている(四月二三日「島津伊久書状」都城島津家文書)。同二四年九月、元久の子島津久豊は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
日向国(宮崎県)の城下町。《和名抄》には飫肥郷の名でみえ,《建久図田帳》には島津荘寄郡として飫肥北郷400町,飫肥南郷110町と出てくる。15世紀来島津・伊東両氏の係争の地となり,1587年(天正15)豊臣秀吉によって伊東祐兵(すけたか)がこの地に封ぜられるにおよんで,同氏によって本格的に城下の整備がなされた。城の大手門から南北にのびる大手門通りに交差してまず東西に横馬場が走り,次に県道をはさんで本町通り,前鶴通りの各通りがある。本町通りにはかつて商家が形成され,同通りの東にのびる今町は唐人町とも呼ばれた。本町,今町には別当,小別当などの町役人がおかれ,町政を担当した。1834年(天保5)の宗門改めでは両町の住人はあわせて749人を数え,また69年(明治2)の調査でも飫肥町人768人となっているから,近世を通じて町人人口はさほど多くない石高相応の城下町であったといえる。1950年周辺町村を合併し,日南市となった。
→飫肥藩
執筆者:上原 兼善
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…市域西部には古第三紀の鰐塚(わにつか)山地,海岸近くには新第三紀の鵜戸(うど)山地があり,鰐塚山地から南東方向へ広渡(ひろと)川が流れ沖積地を形成する。市制時に合体した旧町の飫肥(おび),吾田(あがた),油津(あぶらつ)にそれぞれ市街地が発達し,広渡川の河谷に通じる日南線と国道222号線によって結ばれている。飫肥は藩政時代飫肥藩伊東氏の城下町で,現在は商業地区であるが,城跡を中心に古い町並みを残し,伝統的建造物群保存地区に指定されている。…
…油津以南は古第三紀の厚い砂岩とケツ岩の山地が海に迫って岬や湾をなし,海中には大島,築島,幸(こう)島などの島が点在する。地形が険しいために,古くは鵜戸山地西側の断層線に沿って宮崎市南部から飫肥(おび)に通じる飫肥街道が利用されたが,現在は海岸沿いに国道220号線が通り,南郷町以南は県道が都井岬を経て串間市へ通じる。北から青島,太平洋と鬼の洗濯板の海岸を望む堀切峠,約130万本のサボテンに覆われたサボテン公園,鵜戸神宮,城下町の面影が残る飫肥,大島周辺の海中公園,ニホンザルの生息する幸島,野生馬の都井岬など見どころが続く。…
※「飫肥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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