飫肥(読み)おび

精選版 日本国語大辞典 「飫肥」の意味・読み・例文・類語

おび をび【飫肥】

宮崎県日南市の中心地区の一つ。伊東氏五万一千石の旧城下町で、武家屋敷が残る。日南線が通じる。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「飫肥」の意味・読み・例文・類語

おび【飫肥】

宮崎県日南にちなんの中心地区。もと伊東氏の城下町で、武家屋敷が残る。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「飫肥」の解説

飫肥
おび

現在の日南市および南那珂郡北郷きたごう町・南郷なんごう町にわたる一帯をさす地名で、古代の宮崎郡飫肥郷(和名抄)を継承する。鎌倉―南北朝期には北郷町と日南市の中・北部をおおよその範囲とする飫肥北郷と、同市南部と南郷町をおおよその範囲とする飫肥南郷に分れていた。両郷はともに島津庄寄郡のうちで、長谷場氏・野辺氏などが在地で勢力があった。室町・戦国期には地内の飫肥城(南北朝期の築城という)が島津氏の日向国南部経営の拠点となり、同城やその城付地を飫肥あるいは飫肥領とよぶことが多くなる。また当地は島津氏領の北東端に位置していたため、都於郡とのこおり(現西都市)佐土原さどわら(現佐土原町)に拠って南下を図る伊東氏との抗争の場となった。なお史料では飫肥南郷・飫肥北郷を合せて「飫肥南北」という呼称がみえ、ほかに「飫肥東西」という呼び方も散見する(→山東・山西

建武三年(一三三六)一一月八日、「日向方飫肥」が長谷場鶴一丸に安堵されている(「光明院院宣案」長谷場文書)。同年一二月二日には足利尊氏が飫肥における武士の乱妨停止を約束し、年貢収納の勤めを果すよう鶴一丸に命じ(「足利尊氏御内書案」同文書)、違乱があった場合、その停止は鹿児島の島津貞久に命じるとしている(一二月一九日「行政奉書」同文書)。当地域はこの頃水間氏が年貢未納により、島津庄の領家預所であった奈良興福寺一乗いちじよう院から収納使・弁済使職を解任されたとみられ、同氏に代わって長谷場氏が補任されている。その後大隅国志布志しぶし(現鹿児島県志布志町)を拠点とした楡井氏一族の勢力も浸透し、また飫肥から櫛間くしま(現串間市)に至る港湾は海上交通の要地として海賊の拠点ともなっていた。南北朝末期、九州探題今川了俊は末子今川満範を日向国に下向させて南朝方の島津氏に対抗した。満範にくみした日向の国人土持栄勝は永和四年(一三七八)春から飫肥・櫛間に在陣し(年月日未詳「土持栄勝軍忠状」旧記雑録)、大将満範の庄内しようない出陣などにつき従い同年満範より当地や志布志・都城などでの軍功を賞されている(一二月二日「今川満範書状」肝付文書)

応永七年(一四〇〇)奥州家島津元久と従兄の総州家島津伊久が不和となった際、飫肥方(野辺氏か)は元久の側についている(四月二三日「島津伊久書状」都城島津家文書)。同二四年九月、元久の子島津久豊は川辺かわなべ(現鹿児島県川辺町)松尾まつお城救援のため自ら兵を発し、途中山中に陣を構えて時機を待っていたところ、飫肥・櫛間など各地の兵が海を渡って駆けつけたため、川辺に向け兵を進めている(「島津義天譜」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「飫肥」の意味・わかりやすい解説

飫肥 (おび)

日向国(宮崎県)の城下町。《和名抄》には飫肥郷の名でみえ,《建久図田帳》には島津荘寄郡として飫肥北郷400町,飫肥南郷110町と出てくる。15世紀来島津・伊東両氏の係争の地となり,1587年(天正15)豊臣秀吉によって伊東祐兵(すけたか)がこの地に封ぜられるにおよんで,同氏によって本格的に城下の整備がなされた。城の大手門から南北にのびる大手門通りに交差してまず東西に横馬場が走り,次に県道をはさんで本町通り,前鶴通りの各通りがある。本町通りにはかつて商家が形成され,同通りの東にのびる今町は唐人町とも呼ばれた。本町,今町には別当,小別当などの町役人がおかれ,町政を担当した。1834年(天保5)の宗門改めでは両町の住人はあわせて749人を数え,また69年(明治2)の調査でも飫肥町人768人となっているから,近世を通じて町人人口はさほど多くない石高相応の城下町であったといえる。1950年周辺町村を合併し,日南市となった。
飫肥藩
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「飫肥」の意味・わかりやすい解説

飫肥
おび

宮崎県南部、日南市(にちなんし)の中心地区。旧飫肥町。飫肥藩伊東氏5万1000石の城下町。飫肥城は、広渡(ひろと)川の支流、酒谷(さかたに)川が大きく南に屈曲した丘陵の末端に位置する平山城(ひらやまじろ)である。城下町は、江戸時代の武家屋敷が今日でもよく保存され、1977年(昭和52)重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けた。指定種別は武家屋敷で、その規模は山口県萩(はぎ)市に次ぐ。代表的建造物に旧藩校振徳堂(しんとくどう)、藩主私邸予章館(よしょうかん)などがある。明治の外交官小村寿太郎の出身地で、小村記念館が設置されている。

[横山淳一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「飫肥」の意味・わかりやすい解説

飫肥
おび

宮崎県南部,日南市の中心市街地。旧町名。 1950年近隣町村と合体して日南市となる。広渡 (ひろと) 川の支流酒谷川が鰐塚山地と離れる谷口に位置する,旧飫肥藩伊東氏5万 7000石の城下町。商業の中心地であるとともに,県南部の文化の中心地。飫肥城跡をはじめ,藩校振徳堂,伊東氏庭園,武家屋敷などが旧構をとどめ,県下でも城下町の面影をよく残しており,77年には,国の伝統的建造物群保存地区に指定されている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の飫肥の言及

【日南[市]】より

…市域西部には古第三紀の鰐塚(わにつか)山地,海岸近くには新第三紀の鵜戸(うど)山地があり,鰐塚山地から南東方向へ広渡(ひろと)川が流れ沖積地を形成する。市制時に合体した旧町の飫肥(おび),吾田(あがた),油津(あぶらつ)にそれぞれ市街地が発達し,広渡川の河谷に通じる日南線と国道222号線によって結ばれている。飫肥は藩政時代飫肥藩伊東氏の城下町で,現在は商業地区であるが,城跡を中心に古い町並みを残し,伝統的建造物群保存地区に指定されている。…

【日南海岸】より

…油津以南は古第三紀の厚い砂岩とケツ岩の山地が海に迫って岬や湾をなし,海中には大島,築島,幸(こう)島などの島が点在する。地形が険しいために,古くは鵜戸山地西側の断層線に沿って宮崎市南部から飫肥(おび)に通じる飫肥街道が利用されたが,現在は海岸沿いに国道220号線が通り,南郷町以南は県道が都井岬を経て串間市へ通じる。北から青島,太平洋と鬼の洗濯板の海岸を望む堀切峠,約130万本のサボテンに覆われたサボテン公園,鵜戸神宮,城下町の面影が残る飫肥,大島周辺の海中公園,ニホンザルの生息する幸島,野生馬の都井岬など見どころが続く。…

※「飫肥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android