中冨田村
なかとみだむら
[現在地名]鈴鹿市中冨田町
汲川原村の西、東海道沿いの街村。江戸時代当初より亀山藩領で、慶安郷帳(明大刑博蔵)に高五七一石、うち五四一石余田方、二九石余畑方とある。延享元年(一七四四)の村指出帳(麻生家蔵)では高五二三石余と減少、家数五三(うち本役一九・半役七・無役二七)、ほかに無家七人。人数二四一、馬四、牛一五とある。また鈴鹿川支流和泉川(安楽川)の川付村として、人足入用の時は、他の三ヵ村(小田村・和泉村・西冨田村)と分担して出す義務があった(→西冨田村)。元禄一三年(一七〇〇)庄野宿との間に台地上の蟻越付近の入会野争論が起こり、他の三ヵ村とともに幕府の裁決を受けた(→汲川原村)。
集落の東入口東浦に式内社に比定される川俣神社がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 