小田村(読み)おだむら

日本歴史地名大系 「小田村」の解説

小田村
おだむら

[現在地名]筑波町小田

三村みむら山西南麓に所在。北は小和田こわだ村。村域の小田田向おだたむかい遺跡からは縄文後期の土器・石器が出土、小田古墳群には石室が残る。古代には「和名抄」筑波郡三村郷に属し、中世には小田氏の本拠地となり、長島家蔵の室町期の石造灯籠(県指定文化財)など多くの文化財が残されている。また現新治にいはり郡新治村の東成とうじよう寺祖師堂の伝広智上人坐像膝下の永仁六年(一二九八)の墨書銘(発願文)に「南野庄小田之住人藤原氏」とあり、南野みなみの庄に属したと思われる。なお文保三年(一三一九)の常陸国総社造営役所地頭等請文目録(総社文書)には「一通 筑波社三村郷地頭小田常陸前司」とみえ、小田の地名は確認できない。

鎌倉初期に常陸守護八田知家が小田を本拠とし、その子孫は筑後氏・小田氏を称したが、小田氏の支配は戦国期には不安定となり、佐竹氏の南下に抗しきれず、天正一八年(一五九〇)頃までには完全に崩壊した。

小田村
おだむら

[現在地名]角田市小田

阿武隈高地の東部山間、東流して阿武隈川に注ぐはらい(現小田川)流域にある。斗蔵とくら山・鍋森なべもり山・大森おおもり山がある。東は角田本郷、西は大蔵おおくら(現伊具郡丸森町)、北は豊室とよむろ村。東方におお沼が広がる。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「おたかう」とみえ一九貫三七五文。同二二年正月一七日の伊達晴宗安堵状(伊達家文書)では「小田之郷裏、法花寺へのうりち一たひ一間、一ミなみやしき一間、一きたやしき一間、一あらひ一間」の四軒ともが桑折播磨守(貞長か)に返されている。同二二年集成の晴宗公采地下賜録によれば、小田のうち一条常陸よりの買地「きり田」一貫六〇〇文、「山田たいふ」よりの買地「ふしはら在け」、山田新介よりの買地「山中在け」が阿部平三に下されている。元亀元年(一五七〇)五月には亘理元宗・重宗父子に勲功の賞として小田村等が加増された(性山公治家記録)

慶長三年(一五九八)以降石川氏の知行地。寛永二一年(一六四四)の同氏知行目録(石川俊直家文書)では八三貫二〇一文。

小田村
おたむら

[現在地名]上野市小田町

上野台地の西北にあり、北の服部はつとり川が北流する長田ながた(木津川)に西北部で合流する低湿地を主とし、台地上の俗称鉄砲場てつぽうばを含む。天喜四年(一〇五六)の藤原実遠所領譲状案(東南院文書)の阿拝郡三田みた郷に「小田村 田参町肆段、在条里坪付」とあり、当地は実遠から甥の信良に譲られている(条里遺構は明治四二年消滅)。暦応三年(一三四〇)の馬野雑掌案(三国地志)に出る馬野ばの(現阿山郡大山田村)乱入の「当国名誉悪党小田七郎」は当地の土豪と思われる。文明五年(一四七三)には一条兼良が「荒木の菩提寺を立ちて上野小田など言所を通る」(ふち河の記)と記している。「中書家久公御上京日記」(東大史料編纂所蔵)天正三年(一五七五)五月二八日条には「伊賀の内小田市といへるに関有」とあり、北伊勢と大和を結ぶ道(大和街道)の要として市・関のあったことがわかる。永禄一一年(一五六八)仁木長政が築いた「新城」は、当村南高台の上野丸山まるやまの城であろう。江戸時代にはその東の空堀が城下西之丸を結ぶ道として府下七坂の一つ小六ころく坂に変り、番所が設けられた(庁事類編)

小田村
おだむら

[現在地名]矢掛町小田

宇内うない村の南にあり、南は甲努こうの(現笠岡市)、南辺を小田川が東流し、同川に並行する山陽道が横断する。日置谷ひおきだに古墳・八幡谷はちまんだに古墳・林田はいだ古墳群などがあり、古代小田郡小田郷(和名抄)の遺称地。郡上こおりかみ郡前こおりまえ郡脇こおりわきなどの地名があり、郡上には郡宮跡の伝承が残る。応永元年(一三九四)仮託の吉備津宮惣解文写(吉備津神社文書)によれば、小田郷より花紙三〇〇帖が吉田師貞によって納められている。小田など四ヵ村の帰属をめぐる大原来迎らいこう院と同勝林しようりん(ともに現京都市左京区)との係争で、永享三年(一四三一)五月二五日幕府は、暦応三年(一三四〇)一二月四日の院宣の旨に任せ、来迎院に返付するよう決定している(御前落居記録)。康正二年(一四五六)九月二三日、幕府は京都東福寺の書記正徹に備中国小田庄を安堵している(草根集)。正徹は小田の地頭小松康清の子として生れたといわれる。室町時代の代表的歌人として知られ、歌集「草根集」、歌論書「正徹物語」などを残した。北西には神戸山こうどやま城跡があり、「備中府志」は城主を毛利氏麾下の小田政清・隆清(高清)父子とする。

小田村
おだむら

[現在地名]志度町小田

鴨部下庄かべしものしよう村の東に位置する。北は播磨灘に面し、大串おおぐし岬の東に小田湾が入込み、湾内に苫張とまばり興津こうづ浦小田うらおだ本小田ほんおだの漁業集落が連なる。ガ鼻を回ると東端釜居谷かまいだにの集落がある。日盛ひもり山・官府かんぷ山・上野北うえのきた山に囲まれ、ほとんど平地はない。村名も「山片つぎたる所なれば、田毎の畝甚狭き故」(新撰讃岐国風土記)の命名という。上野北山山上に弥生時代中期の高地性集落遺跡がある。大串鼻の長者ちようじや谷から師楽式土器が出土、古代における製塩が確認されており、宝亀一一年(七八〇)一二月二九日の西大寺資財流記帳(西大寺文書)にみえる「寒川郡塩山」や、建久二年(一一九一)五月一九日の西大寺領庄園注進状案(同文書)の「寒川郡鴨郷」の塩釜一面の記事などが留意される。平安末期には山城石清水いわしみず八幡宮領鴨部庄の一部で、寛喜二年(一二三〇)正月日の宗清置文(石清水文書)にみえる「苫張」は小田湾西部の地で、「神湊」は小田湾中央の本小田・浦小田付近に比定されている。

小田村
おだむら

[現在地名]猪苗代町蚕養こがい

白木城しらきじよう村の北東方、布森ぬのもり山・一ノ野いちのの山・天狗角力取てんぐすもうとり山などの山々に取囲まれた山間に位置する。本村集落は川支流小田川右岸扇状地を占め、本村の西方、小田川合流点南方の酸川左岸に端村くち(筧ノ口)がある。また本村東方、酸川支流達沢たつさわ川流域山間にある達沢集落は木地小屋集落であった。達沢西方、母成ぼなり(石筵峠)越の道で二本松藩領安達郡石筵いしむしろ(現郡山市)に通じた。川東組に属した。伝承によると、石筵の増子若狭・後藤越中が当地に移り、六角平ろつかくだいらあるいは古屋敷ふるやしきの地に住したのが村の草創ともいわれる(「八幡神社社家覚書」猪苗代町史)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに小田とみえ、高三〇三石余。享保三年(一七一八)には高五九六石余、家数一一三、男二三〇・女二二一、馬六八、天明六年(一七八六)には高六〇〇石余、家数八二、男一六一・女一九一、馬四七(「留帳」小林家文書)

小田村
おだむら

[現在地名]えびの市小田

池島いけじま村・大明司だいみようじ村の西にあり、南方で池島川を合せて川内せんだい川が北西へ流れる。肥後街道の途中、二十里はたり(羽田里)の西で球磨くま間道が北へ折れ、小田村を縦貫しながら北上して茶屋平の茶屋番所(現VLF基地内)で肥後街道に合流する。江戸時代には加久藤かくとう郷に属し、同郷麓集落として愛宕山西側のふもとに地頭館も置かれ、郷士屋敷も多かった。初め中福良なかふくら村と称した。「日向地誌」は元禄一五年(一七〇二)頃には中福良村と称し、のち小田村と改めたとしているが、確かではない。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳には中福良村は表高三六八石余と表高五三二石余の二筆が記され、天保郷帳も同じ。日向国覚書では高五三二石余の中福良村と石高の記載されない「中福良村内」が記され、元禄国絵図には高三六八石余と高五三二石余の中福良村二筆と「中福良村之内川北村」「中福良村加久藤村」「中福良村之内湯田村」が記される。ただし元禄一一年の飯野内場外城境并村道縄引帳(えびの市役所蔵)には「右方加久藤小田村の内松原」とある。

小田村
おたむら

[現在地名]玖珠町小田

中山田なかやまだ村の西方、玖珠川左岸にある。南部は山地であるが、北方はなだらかな水田地帯をなす。「和名抄」の玖珠郡小田郷の遺称地とされる。貞治三年(一三六四)二月の大友氏時所領所職等注進状案(大友文書)に球珠郡横尾新庄とあり、永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)にもみえる。当地の横尾または九重ここのえ引治ひきじの横尾に比定される。なお豊後国弘安田代注進状(平林本)には山田やまだ山階やましな村および飯田はんだだん村の地頭として横尾十郎成資跡が記される。慶長六年(一六〇一)の予州替地知行所目録(佐伯藩政史料)に村名がみえ、高一千四九三石余。同七年の玖珠郡・日田郡御蔵入目録(同史料)では物成四三〇石余のうち米二二二石余・豆一五七石余・稗一二石余・蕎麦二一石余・粟四石余・大唐一二石余。

小田村
おだむら

[現在地名]甘木市小田

平塚ひらづか村の東、佐田さだ川下流右岸の台地上に位置する。下座げざ郡に属し、東は佐田川を隔てて屋永やなが村、北は一木ひとつぎ村。元和九年(一六二三)から秋月藩領。小早川時代の指出前之帳では小田村の田一九町六反余(分米一八七石余)・畠一二町六反余(分大豆六二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高六六三石余、うち大豆一九〇石余(慶長石高帳)。同年の検地帳(桑野家文書)によると、名請人数六八(うち屋敷持一九・無屋敷四九)。元禄五年(一六九二)には高七〇〇石余・反別七二町六反余、家数六〇・社一、人数二七〇(田圃志)。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数八〇(うち酒家一・麹家一)・人数四三三、馬三五(別本「続風土記附録」)。文政元年(一八一八)の年貢は米七五〇俵余・大豆一八四俵余(「下座郡御物成帳」秋月黒田家文書)

小田村
おだむら

[現在地名]河内町小田、大和だいわ箱川はこがわ

宇山うやま村の東南に位置し、北は椋梨むくなし(現大和町)と接する。和木わき(現大和町)から西流する椋梨川は当村東南部で西からの支流小田川と合して南流。周辺の山地には緩傾斜面が発達し、小田川流域の平地は盆地状の景観を呈する。水利に関しては早くから椋梨村と関係が深く、椋梨村側の山頂に溜池を造り、灌漑用水を賄っていた。小田川北岸のだけひら古墳群、椋梨川沿いに深山みやま古墳群があり、須恵器などが出土。

当村は沼田ぬた新庄に属し、仁治四年(一二四三)二月日付安芸沼田新庄方正検注目録写(小早川家文書)に、小田の畝数三五町九反二四〇歩のうち、除田三丁一二〇歩・定田三二町九反一二〇歩、所当米六九石一斗三升二合(うち公物四三石九斗二升四合)、地頭得分は地頭給一町一反、所当米二五石二斗八合とみえる。

小田村
おだむら

[現在地名]安佐北区高陽こうよう町小田・高陽町鳥越とりごえ

東は松笠まつかさ山など標高三〇〇メートルほどの山にさえぎられ、西は太田おおた川を挟んで東野ひがしの(現安佐南区)に接する。北は矢口やぐち村、南は安芸郡戸坂へさか(現東区)で、深川ふかわ郷から広島城下へ通じる往還が、山麓寄りを走る。東側の山には前期古墳が多く残り、この地の開発の古さを物語る。大永七年(一五二七)七月一三日には、松笠山で大内・武田両軍が交戦した(三浦家文書、石井文書)。大内氏が武田氏配下の府中ふちゆう(現安芸郡府中町)の白井氏などを攻撃したので、援助のために出撃した銀山かなやま(現安佐南区)城主武田光和の軍との間で起こった戦いであったが結末は定かでない。

小田村
こだむら

[現在地名]相川町小田

南は赤崎あかさき浜を境に石名いしな村、北は大倉おおくら川を隔てて大倉村、東は急峻な大佐渡山地の尾根で馬首うまくび(現両津市)と接する。集落は海岸低地にあり、背後の段丘は近世の開発によって水田化されているが、段丘面は石名川を境にして一段と高くなる。立上たちかみ川から赤崎浜にかけての段丘先端の城跡は、近世初期には石名村との入会地で、諏訪神社も入会地の赤崎にあることから、古くは両村は一村同様であったと思われる。草分は、重立七人衆といわれる左衛門太郎・八郎右衛門・次郎左衛門・平左衛門・甚右衛門らで、元和三年(一六一七)の屋敷検地帳(稲場左衛門太郎家蔵)によれば、それぞれ広い屋敷地を所有する。

小田村
おだむら

[現在地名]多伎町小田

北は日本海に面し、東は多岐たき村、西は口田儀くちたぎ村。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高六六五石余、寛文四年(一六六四)の本田高六一〇石余・新田高七石余。「雲陽大数録」では高六六〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡南方万指出帳(比布智神社文書)では東西一里七町・南北一里一九町、家数一一七・人数七一四、牛六三・馬一、制札場一、御立山二、大工一・木挽一、猟師鉄砲三・威鉄砲一、塩竈二、渡海船一・伝馬船五、鮎御免川一、町竈数三五、制札場一と記す。宗門人別帳(山本家文書)の人口は、寛政三年(一七九一)六七六、同九年六八七、天保四年(一八三三)九二三、同九年九五八である。

小田村
おだむら

[現在地名]隼人町小田

国分郷野久美田のくみだ村の北東にあり、北部の山間部と南境を西流する清水しみず川流域の平地部からなる。北は日当山ひなたやま朝日あさひ村、南は国分郷真孝しんこう村。文和二年(一三五三)一〇月二六日のものと考えられる大隅国将軍方交名注文(旧記雑録)によると、足利尊氏方の島津氏久に属する武士に「小田次郎 同平四郎」とあり、当地名を名乗る武士と推測できる。永正一八年(一五二一)本領日向国野々美谷ののみたに(現宮崎県都城市)に代わり堅利かたしり五五町・小浜おばま二四町などを与えられた樺山長久は、同年五月一〇日「堅利小田かりや」に移った(「樺山玄佐自記」など)

小田村
こたむら

[現在地名]西区小田

草場くさば村の北、糸島いとしま半島東岸にある。志摩しま郡に属する。東は博多湾に面し、三方を稜線に囲まれ、南東は今津いまづ村、北は宮浦みやのうら村・西浦にしのうら村に、西は桜井さくらい(現志摩町)に接する。小田川が南境から北東に流れる。中世から近世初頭には北崎きたざき、北崎村の内で、天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)、小早川時代の指出前之帳などでは北崎村の内に含まれる。慶長石高帳に村名がみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高一千三八三石余。

小田村
おだむら

[現在地名]瀬高町小田

矢部やべ川左岸、南長田みなみながた村の東にある。下妻しもつま郡に属する。対岸は溝口みぞくち(現筑後市)。天文一五年(一五四六)の水田庄作人注進状(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)には「おた」一所五反とあり、安楽寺(太宰府天満宮)水田みずた庄内であった可能性がある。文禄四年(一五九五)の知行方目録に「溝口ノ内」として小田村がみえ、高七〇五石余。慶長二年(一五九七)の柳川領村高附帳(立花家文書)には反別五五町二反余・分米四八六石余、村柄は中とある。

小田村
おだむら

[現在地名]北淡町小田

仁井にい村の東にあり、東浦ひがしうらと西浦の分水嶺から河内こうち(現東浦町)にかけて東面に傾斜する一帯を占める。小田・仁井・河内の山系を水源とするうら(通称大川)が北東へと流れる。東浦と西浦をつなぐ道や、北方舟木ふなぎ村・上山うえやま村への道などが通る。大永三年(一五二三)六月一日、八日市善兵衛尉光家から中嶋北新左衛門に売却された伊勢道者株のなかに、「上郡 小田ノ里一円」がみえる(「道者売券案」来田文書)

小田村
おだむら

[現在地名]赤来町小田

野萱のがや村の南東にあり、南は真木まき村。北は琴引ことびき(一〇一三・六メートル)くさじよう(九七六・四メートル)などが頓原とんばら(現頓原町)との境をなし、東は備後国恵蘇えそ高暮こうぼ(現広島県高野町)。「出雲国風土記」飯石郡条にみえる幡咋はたくい山は現高野たかの町との県境にある幡咋峠はたくいだわ北方の山といわれる。江戸初期には真木村・野萱村とともに中来島なかきじま村を構成しており、寛文(一六六一―七三)頃に分村したとされる(郡村誌)

小田村
おだむら

[現在地名]川崎区小田一―七丁目・小田栄おださかえ一―二丁目・きよう町一―三丁目

南は海に面し、東は渡田わたりだ村、西南は下新田しもしんでん村に接する磯方の村。西辻子にしずし馬場崎ばばさき・東辻子・本村ほんむら地蔵谷じぞうだにかまふちなどの小字がある。北西から南へ流れる川崎用水を利用。小田原衆所領役帳には小菅摂津守「四拾貫八百四文 稲毛小田村」とみえる。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制写(武州古文書)は「小田村」に宛てられている。

小田村
おだむら

[現在地名]近江八幡市小田町

十王町じゆうおうまち村の西北に位置し、南を日野川が西流する。北は水茎みずくきの入江に面する。寛永石高帳では高五八六石余、幕府領。元禄郷帳では高七五一石余、幕府領と三上藩領の相給。天明村高帳では高七六〇石余、うち丹波福知山藩領四五〇石余、宮川藩領一九四石余、三上藩領一〇六石余、地内諸社寺の除地八石余。慶長六年船数帳によれば船一一艘を有していた。延宝九年船数帳でも船数は同じで、加子一一人。当村および江頭えがしら村・十王町村の田水は日野川上流の桐原きりはら郷地区の井口より取水していたが、同地区の安養寺あんようじ村・池田いけだ村との間で慶安年中(一六四八―五二)から度々水争いが生じ、寛文一〇年(一六七〇)に決着している(野洲郡史)

小田村
おだむら

[現在地名]瑞浪市小田町・下沖町したおきちよう

西流する土岐川南岸にある。東方を万尺まんじやく川が北流し、土岐川に合流する。東は寺河戸てらかわど村。上組・下組からなる。建武三年(一三三六)一一月一日の足利尊氏御教書写(金沢市立図書館蔵松雲公採集遺編類纂)に「美濃国小田保」とみえ、同保のうち伊味いみ南方・寺河戸・月吉つきよしの領掌が近衛局(民部卿)に安堵されている。小田保は土岐川両岸から土岐川支流日吉ひよし川流域に広がっていたと考えられる。慶長郷帳では高五四六石余、旗本小里光親領。元和九年(一六二三)幕府領となる。正保郷帳では田三九九石余・畑一四四石余・山高二石余、草山・草野がある。中山道大湫おおくて宿の助郷勤高五四六石(元禄七年「大湫町助郷帳」森川文書)

小田村
おだむら

[現在地名]宮津市字小田

宮津谷南部の山ふところにある。

中世末の丹後国御檀家帳に「宮津太田 弥左衛門殿 おくら殿の御中間」とある「太田」は当地小田をさすものとされている。

近世初頭京極氏時代は喜多きた村・今福いまぶく村とともに慶長検地郷村帳にみえる上宮津かみみやづ庄に含まれ、宮津川上流域の上宮津三ヵ村の一つであった。その後個別に高付され、延宝三年郷村帳に「上宮津小田村」高四三九・七五四石と記されるが、同九年(一六八一)の延高で五八七石余となった(天和元年宮津領村高帳)

小田村
おだむら

[現在地名]和泉市小田町・今福いまふく

和気わけ村の西、松尾まつお川下流左岸にあり(一部は右岸)、熊野街道(小栗街道)が通る。古代の軽部かるべ(和名抄)に含まれており、天平一九年(七四七)法隆寺伽藍縁起并流記資財帳に「池和泉郡軽郷(一カ)塘」とみえる池は、当地のかる(四つ池)のことと推定されている(和泉市史)。村内の田圃の小字に一の坪・二の坪・三の坪・四の坪・九の坪・十の坪・十三・十四・十六・二十二・二十八があり(大阪府全志)、条里制地割の遺称と考えられる。地名は「粉河寺旧記」文明一六年(一四八四)九月五日の記事に「当寺行人より根来行人合力を頼遣し、泉州木島へ陣立、先水間之城を粉河勢責落し、夫より木島へ下向し、小田ニ一宿」とみえる。

小田村
おだむら

[現在地名]龍野市揖西町中垣内いつさいちようなかがいち

中垣内村の西に位置し、北西は西にしノ峠を境に菖蒲谷しようぶだに村。揖西郡に属する。集落は北の山裾の平見ひらみ長坂ながさか水谷みずたに矢野やの(現相生市)へ通ずる道沿いに点在する。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高一九五石余、高一六一石余。正保郷帳では田方一四七石余・畑方一四石余。元禄郷帳では高一六五石余。当村は江戸時代前期から美作道飾西しきさい宿(現姫路市)の助人馬役を勤めていた(寛文一一年「飾西宿助人馬役存続願書」飾西自治会蔵)。宝暦年間(一七五一―六四)の龍野藩領分明細帳(矢本家文書)では反別は田方一〇町八反余・畑方四町三反余、本免七ツ二分・開方四ツ二分・荒起二ツ、ほかに山役米六斗余・山札役銀二三匁一分が課せられている。

小田村
やないだむら

[現在地名]山東町小田

野一色のいしき村の北東、あね川南岸平地に立地。応永二六年(一四一九)二月二七日の観音寺本堂造作日記帳(大原観音寺文書)に「小田村人」とみえ、五〇〇文を奉加している。永禄六年(一五六三)閏一二月一〇日の観音寺巨細帳(同文書)には、宝徳四年(一四五二)三月二日に開かれた山伏集議に小田の住人が参列したとある。同七年七月七日の竹腰氏信寄進状(同文書)に「大原ノ庄小田ノ郷ハツレ字ミソ尻」とみえる。竹腰氏は佐々木大原氏の支流と伝える。当地は出雲いずも井の最初の分岐点で、野田のだ井・落川おちかわ井に分流(大原郷四ヵ村共有文書)。地内に落河おちかわと称する地があったが、「佐々木南北諸士帳」に落河居住という竹腰五郎介がみえる。

小田村
おだむら

[現在地名]高野口町小田・向島むこうじま

紀ノ川中流域右岸の低位洪積台地に位置する。東は伏原ふしわら村、北は南名古曾みなみなごそ村。正応二年(一二八九)一二月日の比丘尼法阿弥陀仏御影堂田畠寄進状(続宝簡集)に「在金剛峯寺領河北方小田村字義細原」とみえる。高野山領官省符かんしようふ庄上方に属し、応永三年(一三九六)五月日の官省符上方惣田数分米目録・官省符上方惣畠数分麦目録(又続宝簡集)によると、当時の田数は一七町三五〇歩、畠数は五町七反二六〇歩、在家一七宇(下地九反一四〇歩)であった。

慶長検地高目録によれば村高五八〇石余、小物成一・〇六四石。

小田村
おだむら

[現在地名]広神村並柳なみやなぎ 小田

和田わだ川と小屋柄こやがら川が破間あぶるま川に合流する地点にある。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)に「あふるま川 幅九拾間程、石川なり、船渡。和田川 幅二拾間程、石川なり、歩行渡。親柄川 幅拾間程、石川なり、歩行渡」とあり、破間川・和田川・親柄おやがら(小屋柄川)が集まる。正保国絵図に「尾田村」とあり、高一三石余。天和三年郷帳では高一三石四斗余。寛政元年(一七八九)の村明細帳(関矢道太郎氏蔵)では田八反余・畑三反余。

小田村
おだむら

[現在地名]清水市草薙北くさなぎきた

草薙村の北西、有度山うどさん丘陵の北麓にある。東海道が通る。延文四年(一三五九)一二月二三日の駿河守護今川範氏書下(駿河伊達文書)に小田村とみえ、伊達盛貞から子息矢部氏定に譲られた当村の田畠在家が範氏によって安堵されている。天正七年(一五七九)九月五日朝比奈泰勝に宛行われた知行地のなかに当村の二〇〇貫文がみられる(「徳川家康判物写」書上古文書)。寛永九年(一六三二)から幕府領、国立史料館本元禄郷帳では旗本青山領、旧高旧領取調帳では幕府領。元禄郷帳によると高一三四石余。元禄四年(一六九一)の検地帳(杉田家文書)によれば、名請人は一五名、うち三名は村外で、村外三名を含む四名が村高の八割五分を占め、一一名は五畝以下。

小田村
おだむら

[現在地名]桜江町小田

川戸かわど村の南、八戸やと川下流域左岸の氾濫原に立地する。川戸村との境界に近い志応地しおうちは、新羅国との関係が緊張した貞観九年(八六七)石見国ほか四ヵ国に四天王像を祀る四王寺を建立し修法を行わせているが(「三代実録」同年五月二六日条)、その石見の四王寺の所在地との伝承がある。現在も往年の本尊と伝える千手観音像と四天王のうち北方守護の多聞天王および不動明王の三像が当地内に安置されている(桜江町史)

江戸初期に市山いちやま村から分村し、正保四年(一六四七)の古田領郷帳に村名がみえる。高二八三石余、免六ツ九分。ほかに「年々開方」の高一四石余。宝永石見国郷村帳には市山村枝郷とみえ、高四〇二石余。

小田村
おだむら

[現在地名]会津若松市花見はなみおか一―三丁目・湯川南ゆがわみなみ

小田山の北西にあり、東は天寧てんねい村、北と西は若松城下、南は北青木きたあおき村。一時期宝積ほうしやく寺があるため宝積寺村と称したが、寛文年中(一六六一―七三)旧名に復したという(新編会津風土記)。元文二年(一七三七)城下に隣接する五七軒が町分として町方に編入された(家世実紀)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では宝積寺とあり、高二六一石余。

小田村
こだむら

[現在地名]足助町上小田かみこだ

ともえ川左岸の籠林かごばやし村と、標高五七一・八メートルの十明とみよう山北麓のまつ村の間に位置する。東はさわどう村、南は四ッ松村、西は山中やまなか村、北は大野おおの村に接する。集落は山麓の傾斜地に点在。寛永一二年(一六三五)当時、旗本梶次郎兵衛の知行地で、同家の知行が幕末まで続く。

小田村
こだむら

[現在地名]弥生町小田

井崎いさき村の南東、井崎川と番匠ばんじよう川の合流点東に位置する。慶長一六年(一六一一)の上ノ村検地目録(佐伯藩政史料)に小田村とみえる。郷帳類では上野かみの村に含まれたと思われる。旧高旧領取調帳では高一六四石余。同帳にみえる下小倉しもおぐら(高三三石余)は当村の枝郷であったとみられる。

小田村
おだむら

[現在地名]鈴鹿市小田町

和泉いずみ村の西に接し、東海道沿いの村で、北に安楽あんらく(和泉川)、南には鈴鹿川に注ぐむく川が流れる。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「小田・川井・海善寺」として一五二八・一三石が記される。江戸時代を通じて、おおむね亀山藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)に高五一〇・一六石、うち四一八石余田方、九一石余畑方とある。延享(一七四四―四八)頃の村高五七二・八一石、延宝四年(一六七六)の家数三七(うち本役一九・無役一八)、人数一九四、馬七、牛一三。

小田村
こだむら

[現在地名]倉吉市小田

天神川左岸、北条ほうじよう平野の南部にあたり、南は田内たうち村、西は古川沢ふるかわさわ村。北を北条用水が流れる。拝領高は一八〇石余、本免五ツ九分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二五〇石余。山王権現(現小田神社)を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二九四石余、竈数三一。藪役銀四匁を課されていた(藩史)。小田神社(祭神大山祇命・宇迦之御魂命)みやたにに鎮座し、明治初年に山王権現から現社名となった。

小田村
こだむら

[現在地名]足助町北小田きたこだ

現国道一五三号に沿う。東は平沢ひらさわ村、南は細田ほそだ村、西は大井おおい村、北は鳥巣とりのす村・加塩かしお(現旭町)に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。鎌倉時代と推定のさくらいり古窯があった。甕の破片・山茶碗などを出土している。

小田村
おだむら

[現在地名]綾部市睦合むつあい町 小田

真野まの村の東、上林かんばやし川右岸の若狭街道沿いに位置する。真野・引地ひきじ両村とともに園部藩領の飛地であった。

村内に宝蔵ほうぞう(臨済宗南禅寺派)があり、天文二三年(一五五四)寿岳宗永の開創と伝える。

小田村
おだむら

南北朝期にみえる村。現夜須町東小田から現筑紫野ちくしの市西小田にかけての地域に比定される。建武三年(一三三六)三月六日の足利尊氏諷誦文(歴代鎮西志/南北朝遺文(九州編)一)によると、尊氏は少弐妙恵(貞経)の追善のため大宰府安養あんよう院で諷誦を修し、「僧食一村」を寄進した。「歴代鎮西志」はこのとき寄進された地を「小田郷在夜須郡」としている。貞和七年(観応二年、一三五一)一月に同院の雑掌良賢が当知行の散在寺領の安堵を足利直冬に申請し、同月二三日に安堵されているが(同年正月日「安養院雑掌良賢申状写」太宰府天満宮文書/南北朝遺文(九州編)三)、このなかに「夜須庄内小田村」がみえ、当村は夜須庄に属していた。

小田村
こだむら

[現在地名]作手村守義もりよし

御領ごりよう村の北に連なる。かつて村内にあった白鳥しろとり神社・熊野社などは、道貝津村の白鳥神社に合祀されている。村域西側の山上、字平沢宇連ひらさわうれに古城跡がある。小田城跡といい、二重の空堀と土塁を残す。「三河国二葉松」に「小田村古屋鋪 奥平源五左衛門、奥平美作守家人、有故兵藤新左衛門依命殺之」とある。

小田村
こだむら

[現在地名]弥栄町字小田

黒部くろべ村の北に位置し、東側は山を負い西側は間人たいざ街道が走り竹野川が北流する。

中世末の丹後国御檀家帳に「東小田 山そいこんのかみ殿」と記され、以下一八人の名が連記される。慶長検地郷村帳では高一三七・五二石「小田村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高によって一六三石余となった(天和元年宮津領村高帳)

小田村
おだむら

[現在地名]用瀬町鷹狩たかがり

鷹狩三ヵ村の一で、「因幡志」に「下鷹狩と一村の如く街道を堺て東側にあり」と記される。拝領高は二〇五石余。本免五ツ三分。「因幡志」によると家数二五、産土神は小田大明神。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二九二石余、竈数二二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報