川原村(読み)かわばるむら

日本歴史地名大系 「川原村」の解説

川原村
かわばるむら

[現在地名]上津江村川原

現上津江村域の南東部を除いた地域で、北東流する川原川流域に笹野ささの程野ほどの小竹おだけ官谷かんたに吉井よしい松野まつの豆生野まめうの永野ながの上元組かみもとぐみ幸又こうまた広川ひろかわ福島ふくしま、それと合流する上野田かみのだ川流域にうら甫手野ほての、その支流小平こびら川流域に小平本村こびらほんむらつづら熊戸くまんと、浦の北東に山中やまなか手水野ちようずのなどの集落がある。笹野から南に向かうと肥後国境の兵戸ひようど(標高六六八メートル)に至る。峠の北東の桂野かつらのは「豊後国志」では当村支郷とされる。


川原村
かわはらむら

[現在地名]飯山町川原

真時さんとき村の東、下法軍寺しもほうぐんじ村の北東に位置する。東の東坂本ひがしさかもと村境に楠見くすみ池があって、その西北と南部は丘陵、そのほかは西寄りを大束だいそく川が北流する低平地に立地する。北部を善通寺に通じる道、南部を金毘羅に通じる道が抜けていた。村名は当地が旧土器どき川の氾濫原で川原となったためという。戦国時代高木隼人の居城であったという楠見城があった。

寛永国絵図では坂本さかもと郷の内に楠見が載る。寛永二一年(一六四四)の坂本郷吉利支丹改帳(鎌田博物館蔵)によれば高八一四石余、家数五八・人数三二一、馬一一・牛七、真言宗みや坊があった。


川原村
かわらむら

[現在地名]角館町川原

南流する檜木内ひのきない川に山谷やまや川が合流する辺りにある。狭い川谷の両岸は二〇〇メートルほどの丘陵。

寛永一四年(一六三七)に池田太左衛門ほか四名に対し差紙が与えられ、「川原村わかみこより小勝田村松ケ崎迄野谷地」(角館誌)とあり、檜木内川に沿い北は若神子わかみごからまつさきにかけて開発可能な地域が広がっていた。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に川原悪戸かわらあくど村五二八石とあり、元禄一五年(一七〇二)以前に村名が改まった(「出羽国秋田領変地其外相改候目録」県立秋田図書館蔵)。享保八年(一七二三)の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)に本田当高四四五石余のほか新田高一五五石余で、免は六ツから四ツ五歩で、合計当高五八二石余とあり、家数は九軒。


川原村
かわらむら

[現在地名]山陽町鴨前かもさき山陽団地さんようだんち一―七丁目

倉敷往来筋の村で、和田わだ村から北東に山坂を越え、一里塚を経て当村に至る(吉備温故秘録)正崎しようざき村とすな川を挟んで西に立地する。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)鳥取ととり庄に村名がみえる。寛永備前国絵図に河原村とみえ高三四八石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高三八九石余。貞享元年の荒などを引いた残高三七四石余。享保六年(一七二一)には田畠二四町四反余、家数四三・人数二七九、池四(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると牟佐むさ(現岡山市)大庄屋組合に属し直高は四七六石余、蔵入と家臣四名の給地。


川原村
かわらむら

[現在地名]明日香村大字川原かわはら

飛鳥あすか村とたちばな村の中間、飛鳥川以西に立地する。「日本書紀」斉明天皇五年の条に「甘橿丘の東の川上」とある「川上」に「箇播羅かはら」の訓注があり、カワラには川上かわのへ(川辺)の意があったようだ。川原寺跡が所在する。慶長郷帳に「河原村」と記す。村高三五〇石。江戸時代を通じて旗本神保(相茂系)領。元禄郷帳では小山田こやまだ村が分離したので村高は三三九・七二一石に減石した。

元禄郷帳に小山田村は「川原村之枝郷」と注記する村高一一・一五八石の小村。


川原村
かわらむら

[現在地名]豊後高田市美和みわ 川原上かわらかみ川原下かわらしも

野部のうべ村の南西に位置し、かつら川下流右岸から美和台地崖下に広がる沖積地に立地する。江戸時代の領主の変遷は高田たかだ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、御蔵納と志水知行分に分けて記される。合せて高二四四石余、家数二五(うち百姓一一・寺一、うらや・にわや・牛屋一三)・人数五五(うち百姓一一・名子八)、牛六・馬一。正保郷帳では来縄くなわ郷に属し、田方一五二石余・畑方二九石余、新田がある。安永三年(一七七四)の島原藩領郷村帳(島原半島史)では高一九三石余、ほかに同所新田六石余がある。明治八年(一八七五)田福たふく村・野部村・いかずち村と合併し美和村となる。鎮守は貴布禰きぶね神社。


川原村
くみがわらむら

[現在地名]鈴鹿市汲川原町

庄野しようの宿の南西、鈴鹿川北岸の東海道沿いの街村。関ヶ原戦後、神戸かんべの一柳監物領(市川家蔵文書)。寛永一三年(一六三六)より幕府領となる。延享二年(一七四五)本多忠統五千石加増の際、神戸藩領になる。文化一四年(一八一七)家数三九、人数二一〇余(「諸用雑記」本田善一郎氏蔵)。元禄一三年(一七〇〇)庄野宿と津賀つが中冨田なかとみだ・西冨田・汲川原四ヵ村との間に庄野北西の丘陵地をめぐる入会野争論が起こり、幕府裁決がなされている。


川原村
かわばるむら

[現在地名]前原市川原

西堂にしのどう村の南東に位置する同村の枝郷。北は王丸おうまる村、南西は瑞梅寺ずいばいじ村、南東は飯場いいば(現福岡市早良区)。福岡藩領。正保国絵図に「西堂村ノ内河原村」とある。寛文一二年(一六七二)当村の願によって五人の役目出肩と水利・田畠境・野山の利用は従来の慣行を維持するとの条件で西堂村から高が分けられた(「仕上ル書物之事」西堂区有文書)。しかし元来「分り村」であるため、元禄郷帳では「高分り枝郷」として記載し、宗旨改なども枝郷の格で実施することになった。


川原村
かわばるむら

[現在地名]伊万里市大川町おおかわちよう川原

西部を松浦川が北流し、南東の山地から北西へ向けて放射状の谷が形成される。小字名に佐次郎さじろう片草かたくさ神谷かみや・川原・畑田はたけだなどがあり、古窯跡がある。正保絵図に村名がみえる。

大川野おおかわの盆地とくにまゆ山山麓はよい陶土に恵まれ、古くから陶器を焼いていた。享保四年(一七一九)の中里家記録に「一、高麗人、弥作、彦右衛門、又七、此三人の者共、大川野組田代村にて、五七年間程焼物窯立て焼申候。其後川原村へ焼物窯立て、十年程も焼き申候。其後府招村之内椎峯へ引越し窯立焼物仕候。今年迄大方八、九十年余の儀に罷り成り可申候哉と存じ奉り候。


川原村
かわらむら

[現在地名]篠山市川原

福住ふくすみ村の東に位置し、籾井もみい川が流れる。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「籾井之内川原村」とみえ、高二七〇石余。正保郷帳では河原村として田高二五六石余・畠高一三石余。「丹波志」では真継まつぐ(穀井庄)のうちで、高一八七石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では福住組で、家数二二・人数一六八。「多紀郡明細記」によれば、山役米二石四斗、小物成の茶役のほか薪三八荷余・瓦焼木一九束などを納め、家別三二・人別一四一、牛一六で、住吉大明神、天台宗の清光せいこう寺、禅宗の永泉えいせん(現曹洞宗)などがある。


川原村
かわらむら

[現在地名]日野町川原

鈴鹿山脈から延びる丘陵地を隔て小野この村の北、佐久良さくら川右岸にある。小字つぼは古代条里の遺称とされる。はやし村・しよう村と合せて近世には杉杣すぎぞま三ヵ村とよばれ(正徳二年大屋神社棟札など)、「興福寺官務牒疏」などにみえる杉杣(郷)の地とされる。慶長七年(一六〇二)徳川家康は当村の高六六一石余を由良繁貞に与えている(東京大学史料編纂所蔵文書)。寛永石高帳でも高六六一石余、幕府領。


川原村
かわらむら

[現在地名]草津市川原一―四丁目・川原町

平井ひらい村の西、村の北に位置し、葉山はやま川左岸に集落がある。天正一一年(一五八三)八月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)上笠かみがさのうちとして「かわら」とみえる。寛永石高帳では高五三八石余、大坂定番稲垣重綱領。慶安高辻帳では田四四二石余・畑一二石余・永荒八三石余。元禄郷帳では河内狭山藩領。延宝七年(一六七九)検地帳(川原共有文書)では高四七四石余、田三二町三反余・畑二町六反余。名請人数四九・屋敷持三九、上田・中田が大半を占めた。享和二年(一八〇二)の免は四ツ七分で、年貢米の多くは大津で換金された(大阪府立中ノ島図書館文書)


川原村
かわはらむら

[現在地名]国分市川原

川内かわうち村の北にあり、集落は検校けんこう(上流)やその支流の川沿い、また台地上に形成される。南東は上井うわい村、東は上小川かみこがわ村で、近世には清水きよみず郷に属した。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高二七九石余。「三州御治世要覧」によると延享(一七四四―四八)頃の高六九九石余。寛政七年(一七九五)の清水郷改帳(国分郷土誌)では高八〇〇石余。


川原村
かわばいむら

[現在地名]田代町川原かわはら

北西流する花瀬はなぜ(雄川)の流域に位置し、北東はふもと村。天保郷帳などでは麓村とともに大禰田おおねだ村として一括される。「三州御治世要覧」に村名がみえ、延享(一七四四―四八)頃の高一千二三石余。旧高旧領取調帳では高一千一五九石余。元禄八年(一六九五)鹿児島藩主島津綱貴は肝付源之丞などに命じて川原新田開墾に着手。岩山の場所が多いため溝や隧道の開削は容易に進まず、米一升と石の粉一升とを交換すると奨励し、同一四年に竣工。


川原村
かわらむら

[現在地名]勝央町河原かわら

石生いしう村の北東、たき川沿いに立地。文明一四年(一四八二)八月一〇日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家林家長の檀那村書(肥塚家文書)に、美作国の内として「かわらの彦衛門」とある。正保郷帳に村名がみえ、田四〇七石余・畑九一石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一四〇石余・開高四九石余、村位は上。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によると延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数三二(うち森原七・ゆつりハ一〇・いてうノ木五・菊松六など)、延宝四年からは津山藩主の弟森長俊領。


川原村
かわらむら

[現在地名]糸魚川市西川原にしがわら

ひめ川の左岸と支流むし川の右岸の間に立地。姫川上流は尻掛しりかかり村。寛永三年(一六二六)頃と思われる川原村古検高帳によると、反別合計一〇町三反余・分米八五石四斗余、「丑ノ荒田ニ成る所也」として四反余があり、周囲の村々の入作によって成立っている(糸魚川市史)。寛永一〇年には「高三口合 五拾九石八斗八升四合 右の通り、酉四月十九日、同五月七日、六月四日に大水出申し、くつれ・なかれ・水おし申し候て、百性ども迷惑つかまつり候」とあり、三度にわたる水害で五九石八斗余の水損があった(同書)


川原村
かわばるむら

[現在地名]古賀市川原

河原村とも書く(続風土記拾遺)今在家いまざいけ村の南東に位置する。川原はもと民家のあった所の名で、唐津街道に宿駅を立て青柳あおやぎ町の東に移住したことから新町しんまちともいう(続風土記拾遺)。町立ては東西五六間(地理全誌)。小早川時代の指出前之帳では河原村の田一四町五反余(分米一九三石余)・畠一四町二反余(分大豆五〇石余)。慶長七年(一六〇二)の川原村の検地高四四三石余(慶長石高帳)


川原村
かわはらむら

[現在地名]松江市川原町

だけ山の北麓に位置し、北は朝酌あさくみ川を挟んで坂本さかもと村、東は新庄しんじよう村。「かわら」ともいう(「郡村誌」など)。戦国期には河原かわはら村として登場し、長田東ながたひがし郷に含まれていたとみられる。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳によると高二五一石余、寛文四年(一六六四)には本田高二五〇石余。


川原村
かわらむら

[現在地名]矢島町川辺かわべ

子吉こよし川が大きく蛇行する西岸にあり、対岸は八ッ杉やつすぎ村、上流は矢島町、下流は杉沢すぎさわ村である。

元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡仙北郡之内生駒主殿同権之助知行高辻帳(秋田県庁蔵)の河原村の項に「昔ハ小坂村」とあり、正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)の小坂村は五七石七斗二升とあり、元禄一一年も同高である。


川原村
かわばるむら

[現在地名]木城町川原

蛇行しながら南東流する小丸おまる川を挟んで持見もちみ村の北に位置し、西は穂北ほきた(現西都市)。小丸川には宮下渡があり、筏が一艘置かれていた(日向地誌)。河原とも記す。高鍋藩領で、川原郷に属した。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえ、同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高一二〇石余。


川原村
こうばらむら

[現在地名]美山町東河原ひがしこうばら西河原にしこうばら

東西両天田あまだの南、北流する足羽川の東岸に東河原、西岸に西河原がある。長承二年(一一三三)六月一四日付の官宣旨案(醍醐雑事記)に、参議藤原成通の所領について「就中彼家領(中略)川原郷内折立村・川原村・味美村・有羅河内・佐佐熊足河内・穴馬河内等所在之田畠、依及数百町、視聴之者、皆驚耳目」とあり、川原郷内川原村の名がみえる。


川原村
かわらむら

[現在地名]綾部市故屋岡こやおか町 川原

有安ありやす村の東、上林かんばやし川両岸の山麓にある。村内を東西に若狭街道が通る。江戸初頭は旗本藤懸氏領、のちに小山藤懸氏領。

中世は上林庄の地。村名は天文年間(一五三二―五五)の勧進奉加帳(光明寺文書)に「川原 兵衛」「川原 婆」などとみえるのが早い。


川原村
かわばるむら

[現在地名]大分市上戸次かみへつぎ 川原

大野川右岸にあり、北は上尾あがりお村。江戸時代を通じて臼杵藩領で、正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳に村名がみえ本高三一石余・出来高一六石余、田高二一石余・畑高二六石余。


川原村
かわらむら

[現在地名]糸魚川市東川原ひがしかわら

新町あらまち村の西に隣接する。正保国絵図に高五五石余とある。天和三年郷帳では河原村と記し、高九六石五斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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