日本歴史地名大系 「和泉村」の解説
和泉村
いずみむら
- 千葉県:鴨川市
- 和泉村
和泉村
いずみむら
- 東京都:狛江市
- 和泉村
多摩川北岸にあり、東は岩戸村、東から南は
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
頓原村の北東から東に位置する。東は
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
- 福井県:大野郡
- 和泉村
県の東端に位置し、
明治二二年(一八八九)の町村制施行によって
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
- 愛知県:安城市
- 和泉村
南は
藩政期の支配は、初め甘縄藩、元禄一六年(一七〇三)甘縄藩の分家である松平万次郎領と幕府領に二分。
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
- 福岡県:筑後市
- 和泉村
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
- 東京都:杉並区
- 和泉村
寛永一六年(一六三九)の熊野神社造立棟札に「武州多東郡中野郷泉村鎮守」とあり、江戸時代も「泉」とも記された。田園簿によれば田方九四石余・畑方一〇五石余、旗本内田領。その後も新田開発が行われたらしく、それまで無年貢であった新開地五町余について正徳五年(一七一五)以降は相応の年貢を納めることになった(「新開改出控帳」大宮八幡宮文書)。
和泉村
いずみむら
筑後川中流左岸、
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
- 栃木県:足利市
- 和泉村
渡良瀬川右岸の低地に位置し、対岸は
和泉村
いずみむら
松山平野の南平坦部に位置する農村。東は
境域は古代には久米郡
和泉村
いずみむら
慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。慶安元年(一六四八)三月、園部藩の検地を受けた。上田は六町三段八畝一五歩で高八三・〇〇五石、中田は三町三段七畝一八歩で高四〇・五一二石、下田は一町五段四畝二一歩で高一七・一〇七石。上畑は四町八段七畝二一歩で高三九・〇一六石、中畑は二町六段七畝六歩で高一八・七〇四石、下畑は一町二段三畝一五歩で高七・四一石。
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高五六六・〇一石、うち田方四九町七反一畝、五四五・二石、畑方三町三反八畝、二〇・八石とあり、そのほかに畑一反三畝、漆二二本、空地二畝、永荒畑三畝があり、稲荷社地一畝二〇歩は常福院抱えであった。元禄三年(一六九〇)には藤崎組に属し、村位は上(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、寛政一〇年(一七九八)に二一八・二石、文化九年(一八一二)に二〇七・一石、文政二年(一八一九)に一五〇石の新田高が書上げられている。
和泉村
いずみむら
北会津郡北西端にあり、西は
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
和泉村
いずみむら
- 大分県:竹田市
- 和泉村
和泉村
いずみむら
- 三重県:桑名市
- 和泉村
現桑名市の南部にあり、
和泉村
いずみむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報