朝日日本歴史人物事典 「中原師員」の解説
中原師員
生年:文治1(1185)
鎌倉幕府の評定衆。中原師茂の子。朝廷では,明経道の教官として建仁2(1202)年に直講,建保6(1218)年に助教となった。その後,鎌倉に下って4代将軍藤原頼経の侍読となり,和漢の故事先例に通じた識者として将軍御所の行事を奉行し,様々な諮問に答えた。嘉禄1(1225)年,評定衆となる。寛喜3(1231)年藤原頼経の推挙によって,局務(太政官の外記の筆頭)の中原氏が独占していた大夫外記(五位の大外記)となる。同年摂津守に転任。貞永1(1232)年に御成敗式目が制定されると,評定衆として起請文に連署した。同年,明経博士となる。死の直前に出家,法名は行厳。<参考文献>永井晋「中原師員と清原教隆」(『金沢文庫研究』281号)
(永井晋)
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