五十一箇条 貞永元年八月 日(抄)
1 一 神社を修理し、祭祀を専らにすべき事
右、神は人の敬ひによつて威を増し、人は神の徳によつて運を添ふ。然ればすなはち恒例の祭祀陵夷(りょうい)を致さず、如在(にょざい)の礼奠(れいてん)怠慢せしむるなかれ。これによつて関東御分(ごぶん)の国々ならびに庄園においては、地頭・神主らおのおのその趣を存じ、精誠を致すべきなり。兼てまた有封(うふ)の社に至つては、代々の符に任せて、小破の時は且(かつがつ)修理を加へ、もし大破に及ばば子細を言上し、その左右(さう)に随ひてその沙汰あるべし。
2 一 寺塔を修造し、仏事等を勤行(ごんぎょう)すべき事
右、寺社異なるといへども、崇敬これ同じ。よつて修造の功、恒例の勤めよろしく先条に准ずべし。後勘(こうかん)を招くなかれ。ただし恣(ほしいまま)に寺用を貪(むさぼ)り、その役を勤めざるの輩は、早くかの職(しき)を改易(かいえき)せしむべし。
3 一 諸国守護人奉行の事
右、右大将家の御時定め置かるる所は、大番催促(おおばんさいそく)・謀叛・殺害人〈付(つけ)たり。夜討・強盗・山賊・海賊〉等の事なり。しかるに近年、代官を郡郷(ぐんごう)に分ち補し、公事(くじ)を庄保(しょうほ)に充て課(おお)せ、国司にあらずして国務を妨げ、地頭にあらずして地利(ちり)を貪る。所行の企てはなはだもつて無道なり。そもそも重代の御家人たりといへども、当時の所帯なくば駈(か)り催(もよお)すにあたはず。兼てまた所々の下司(げす)庄官以下、その名を御家人に仮り、国司・領家の下知を対捍(たいかん)すと云々。しかるがごときの輩、守護役を勤むべきの由、たとひ望み申すといへども、一切催(もよおし)を加ふべからず。早く右大将家御時の例に任せて、大番役ならびに謀叛・殺害のほか、守護の沙汰を停止(ちょうじ)せしむべし。もしこの式目に背き、自余の事に相交はらば、或は国司・領家の訴訟により、或は地頭・土民(どみん)の愁欝(しゅううつ)によつて、非法の至り顕然たらば、所帯の職を改められ、穏便(おんびん)の輩を補すべきなり。また代官に至つては一人を定むべきなり。
6 一 国司・領家の成敗は関東御口入(くにゅう)に及ばざる事
右、国衙(こくが)・庄園・神社・仏寺領、本所の進止(しんし)たり。沙汰出来においては、いまさら御口入に及ばず。もし申す旨ありといへども敢て叙用されず。
次に本所の挙状(きょじょう)を帯びず越訴(おっそ)致す事、諸国庄公ならびに神社・仏寺は本所の挙状をもつて訴訟を経(ふ)べきの処、その状を帯びずばすでに道理に背くか。自今以後、成敗に及ばず。
18 一 所領を女子に譲り与ふるの後、不和の儀あるによつてその親悔(く)い還(かえ)すや否やの事
右、男女の号異なるといへども、父母の恩これ同じ。ここに法家の倫(ひと)申す旨ありといへども、女子はすなはち悔い返さざるの文を憑(たの)みて、不孝の罪業(ざいごう)を憚(はばか)るべからず。父母また敵対の論に及ぶを察して、所領を女子に譲るべからざるか。親子義絶(ぎぜつ)の起(おこ)りなり。教令違犯(いぼん)の基(もとい)なり。女子もし向背(きょうはい)の儀あらば、父母よろしく進退の意に任すべし。これによつて、女子は譲状を全(まっと)うせんがために忠孝の節を竭(つく)し、父母は撫育(ぶいく)を施(ほどこ)さんがために慈愛の思ひを均(ひと)しうせんものか。
26 一 所領を子息に譲り、安堵(あんど)の御下文を給はるの後、その領を悔い還し、他の子息に譲り与ふる事
右、父母の意に任すべきの由、具(つぶさ)にもつて先条に載せ畢(おい)んぬ。よつて先判(せんぱん)の譲につきて安堵の御下文を給はるといへども、その親これを悔い還し、他子に譲るにおいては、後判(こうはん)の譲に任せて御成敗あるべし。
34 一 他人の妻を密懐(みっかい)する罪科の事
右、強姦(ごうかん)・和姧(わかん)を論ぜず人の妻を懐抱(かいほう)するの輩、所領半分を召され、出仕を罷(や)めらるべし。所帯なくば遠流(おんる)に処すべし。女の所領同じくこれを召さるべし。所領なくばまた配流(はいる)せらるべきなり。
次に道路の辻において女を捕ふる事、御家人においては百箇日の間出仕を止むべし。郎従以下に至つては、大将家御時の例に任せて、片方の鬢髪(びんぱつ)を剃(そ)り除くべきなり。ただし、法師の罪科においては、その時に当たりて斟酌(しんしゃく)せらるべし。
41 一 奴婢雑人(ぬひぞうにん)の事
右、大将家の例に任せてその沙汰なく十箇年を過ぎば、理非を論ぜず改め沙汰に及ばず。
次に奴婢所生(しょしょう)の男女の事、法意の如くば子細ありといへども、同じき御時の例に任せて、男は父に付け、女は母に付くべきなり。
42 一 百姓逃散(ちょうさん)の時、逃毀(にげこぼち)と称して損亡せしむる事
右、諸国の住民逃脱(ちょうだつ)の時、その領主ら逃毀と称して、妻子を抑留し、資財を奪ひ取る。所行の企てはなはだ仁政に背く。もし召し決せらるるの処、年貢所当の未済あらば、その償ひを致すべし。然らずば、早く損物を糺し返さるべし。ただし去留(きょりゅう)においてはよろしく民の意(こころ)に任すべきなり。
48 一 売買所領の事
右、相伝の私領をもつて、要用の時沽却(こきゃく)せしむるは定法なり。しかるに或は勲功に募り、或は勤労によつて別の御恩に預かるの輩、ほしいままに売買せしむるの条、所行の旨その科なきにあらず。自今以後、慥(たし)かに停止せらるべきなり。もし制符(せいふ)に背き沽却せしめば、売人といひ買人といひ、共にもつて罪科に処すべし。
起請
御評定の間、理非決断の事
右、愚暗(ぐあん)の身、了見の及ばざるによつてもし旨趣(しいしゅ)相違の事、さらに心の曲(まが)るところにあらず。その外、或は人の方人(かたうど)として道理の旨を知りながら、無理の由を称し申し、また非拠(ひきょ)の事を証跡ありと号し、人の短(たん)を明らかにせざらんがため、子細を知りながら善悪に付きてこれを申さずば、事と意(こころ)と相違し、後日の紕繆(ひびゅう)出来(しゅったい)せんか。およそ評定の間、理非においては親疎あるべからず、好悪あるべからず。ただ道理の推(お)すところ、心中の存知、傍輩を憚(はばか)らず、権門を恐れず、詞を出すべきなり。御成敗事切(ことき)れの条々、たとひ道理に違はずといへども一同の憲法(けんぼう)なり。たとひ非拠に行はるるといへども一同の越度(おっと)なり。自今以後、訴人ならびに縁者に相向ひ、自身は道理を存すといへども、傍輩の中その人の説をもつて、いささか違乱の由を申し聞かさば、すでに一味の義にあらず。ほとんど諸人の嘲(あざけ)りを貽(のこ)すものか。兼ねてまた道理なきによつて、評定の庭に棄て置かるるの輩、越訴(おっそ)の時、評定衆の中、一行(いちぎょう)を書き与へられば、自余(じよ)の計(はか)らひ皆無道の由、独りこれを存ぜらるるに似たるか。者(ていれ)ば条々の子細かくの如し。この内もし一事といへども曲折を存じ違犯せしめば、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・四大天王、惣じて日本国中六十余州の大小神祇、別して伊豆・筥根(はこね)両所権現(ごんげん)、三嶋大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神の部類眷属(けんぞく)の神罰・冥罰(みょうばつ)をおのおの罷(まか)り蒙(こうむ)るべきなり。よつて起請、件(くだん)の如し。
貞永元年七月十日
沙弥(しゃみ)浄円
相模大掾(だいじょう)藤原業時(なりとき)
玄蕃允(げんばのじょう)三善康連
左衛門少尉藤原朝臣基綱
沙弥行然
散位三善朝臣倫重
加賀守三善朝臣康俊
沙弥行西
前出羽守藤原朝臣家長
前駿河守平朝臣義村
摂津守中原朝臣師員
武蔵守平朝臣泰時
相模守平朝臣時房
問註奉行人の起請詞(きしょうし)同前と云々
(『中世政治社会思想』(上)による)
鎌倉幕府の基本法典。51か条。1232年(貞永1)制定。公家(くげ)法、本所(ほんじょ)法と並立する武家法の最初の成文法典であるが、武家法全体としてみれば、こののち式目に追加して種々の立法がなされたほか、慣習法にゆだねられていた分野も多い。
[羽下徳彦]
「御成敗式目」が正式の名称で、裁判規範であることを明示している。初め式条といい、のち単に式目ともいう。俗に制定時の年号によって「貞永(じょうえい)式目」ともいわれる。公家・本所側では関東式目ともいった。
[羽下徳彦]
承久(じょうきゅう)の乱(1221)後11年を経た貞永元年7月10日の制定。執権(しっけん)北条泰時(やすとき)の発意により、評定衆(ひょうじょうしゅう)中の法律知識のある人々、矢野倫重(ともしげ)、佐藤業時(なりとき)、斎藤浄円(じょうえん)、太田康連(やすつら)らが中心となって進められ、評定衆の合意を経て確定された。式目編纂(へんさん)者としては、泰時を中心とし、前記の人々を含む13人のほか、6人などの説もあるが、前者が妥当であろう。ほかに、当時鎌倉にあった公家の儒者清原教隆(きよはらのりたか)が1人で担当したとする説があるが、これはのちに清原氏が京都で式目の講説をしたところから生まれた虚説である。
[羽下徳彦]
幕府は、源頼朝(よりとも)以来、律令(りつりょう)や公家法とは異なる武家独自の法秩序を築いてきた。それは、平安末以来の東国武士(関東の在地領主)の間に生まれた自生的な法慣習を基礎とし、鎌倉殿(かまくらどの)頼朝の独裁的権力によって、「右大将家例(うだいしょうけのれい)」として定着してきた。しかし承久の乱の勝利による幕府支配圏の拡大により、御家人(ごけにん)と本所(荘園(しょうえん)領主)、御家人と西国農民との間に多くの紛糾を生じた。それらを処理し、幕府の御家人支配を安定させることを目的として制定された。
[羽下徳彦]
式目51か条は、聖徳太子の十七条憲法を基に、天地人の三方に配して3倍の51条としたと伝えられる。建武(けんむ)式目も17条であり、武家社会に太子信仰のあったことは事実であろうが、十七条憲法を直接意識したか否かはさだかでない。その中心思想は「道理」という理念であるが、これは武士の一般的な正義感を基礎に、裁判担当者の公正観念を通じて具体化されるもので、抽象的に定義できるものではない。式目の内容を分類すると、以下のようになる。
〔1〕寺社関係―1、2条。
〔2〕幕府の組織、(イ)守護―3、4条、(ロ)地頭(じとう)―5、38条、(ハ)その他―37、39、40条。
〔3〕土地法、(イ)土地所有―7、8、36、43、47条、(ロ)所領支配―42、46条、(ハ)所領売買―48条。
〔4〕刑事法―9~17、32~34条。
〔5〕親族相続法―18~27条。
〔6〕訴訟手続―6、28~31、35、41、44、45、49~51条。
〔2〕〔4〕は幕府の主体的意思によって立法された部分、〔5〕は武家の習(ならい)、民間の法といわれる武家社会の慣習法が強く反映され、〔3〕が両者の接点をなす。とくに8条の知行年紀法(ちぎょうねんきほう)(取得時効の制度)は、律令、公家法に対する武家法の独自性を強く示すものである。また、1~31条が整然と配列されているのに対し、32~51条は不整合なので、式目の原型は現在の1~31条を51か条に分かって規定したもので、のちにこれを縮め、さらに32~51条を付加して現存の形になったと推定されている。
[羽下徳彦]
式目は、律令や公家法、本所法を否定するものではないが、御家人をおもな対象とする幕府支配圏においてはこれらを排除し、武家法の自覚的独立を闡明(せんめい)にしたものである。すでに南北朝期には、式目を神聖視して、仏像の胎内に納めて祈念することがあり、実効は失われているにかかわらず、江戸時代には式目第1条の祭祀(さいし)を妻子にかけて笑い話の種とするほど民衆に知れ渡っており、また『庭訓往来(ていきんおうらい)』などとともに手習いの手本としても普及し、庶民の教養に大きな役割を果たした。『群書類従』、『中世法制史料集』(第1巻)、『中世政治社会思想』(上)所収。
[羽下徳彦]
『三浦周行著『続法制史の研究』(1925・岩波書店)』▽『植木直一郎著『御成敗式目研究』(1966・名著刊行会)』
1232年(貞永1)執権北条泰時のイニシアティブのもとに,太田康連,矢野倫重,斉藤浄円ら法曹系評定衆を起草者として制定された51ヵ条の鎌倉幕府法。貞永式目,関東式目とも呼ぶ。51の篇目(事書)が泰時のもとでまず決定され,それに対応する内容(本文)が13人の編さん参加者に諮問審議されたため,9,50条のように事書に見合う具体的な本文を欠く条文ができたとする説もある。体裁は1条に神社,2条に仏寺についての条文をおくが,これは当時の公家新制(新制)の体裁にならったものであり,以下の配列にも《法曹至要抄》などの影響が指摘されている。
このように式目には前後の幕府法にみられない法典的性格が濃いことは確かだが,基本的な法理がすべて盛り込まれたわけでもなく,また臨時立法的なものが除外されたわけでもない。たとえば御家人の自由任官の禁止,相続にあたっての親の悔返し権,さらに20年当知行法などの根本法理は,それ自身が法文化されているわけではなく,その原則にかかわる細則,例外規定などを法文化するための前提として副次的に登場しているにすぎず,もしこうした必要がなければ,これらの法理を式目に見いだすことができなかった可能性が大きい。立法の目的は,泰時が弟重時にあてた書状に述べているように,法の周知,裁判の公正,公家法に対する武家法の独自性の確立などにあったと思われる。また法の効力範囲については,あくまで幕府の政治的領域たる東国および幕府管轄の裁判であった。
しかし式目は立法者の意図にはかかわりなく,他の幕府法よりはるかに卓絶した効力を空間的にも時間的にも発揮するようになる。式目以後(正確には以前のもの若干を含む)発布されたいわゆる追加法のほとんどが,法の受容者である御家人にも周知されることなく,ごく限られた範囲と時間内に効力が限定されていたのに対し,式目は短期間に全国的に有名な法となり,裁判でしばしば引用適用されたのはもちろん,相続法や年紀法は社会的に生きた規範としての効力をさえもつようになった。鎌倉末の河内金剛寺の評定規式に式目末尾の起請文がほぼそのまま引用され,南北朝時代にある寺院の仁王像造立に際して,胎内に納める結縁者の交名(きようみよう)に式目写本の紙背が用いられる,などの例は式目が個々の条文のみならず,総体として一種の社会的尊崇をうけるに至ったことを物語るものといえよう。法理的にも室町幕府法や戦国大名法にも大きな影響を与え,さらに読み書きの手本として式目写本が用いられたため,おびただしい量の写本・版本がつくられ現存している。最近,現在知られている式目は貞永立法当時の原形ではなく,もとの50あるいは51ヵ条を現在の35ヵ条にまで統合し,現在の36条以下はその後追加された条文であるという有力な仮説が提示された。たしかに10条のように二つか三つの条文を合併して1ヵ条にしたとみるべきものがあり,今後の検討がまたれている。
執筆者:笠松 宏至
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「貞永式目」「関東御式目」「式目」とも。1232年(貞永元)に制定された鎌倉幕府の基本法典。内容は守護・地頭のこと,所領支配の効力,訴訟手続,犯罪とその処罰,百姓や奴婢の支配など51カ条。現在知られるものは原形ではなく,現在の第35条までを51カ条に配列したものを原形とする説がある。必ずしも体系的・網羅的なものではなく,当初から補充が予定されていた。実際,その後随時立法され,それらは式目追加とよばれた。室町幕府も,式目追加として同じく随時立法している。式目制定の趣旨について,主導者であった執権北条泰時は,裁判の公平を期するため,あらかじめ裁判の基準を御家人たちに周知させる,その基準は武家社会の良識で,律令格式とは異なるところもあるが,律令格式を否定するのではなく,この法を武家社会にのみ適用させる,とのべる。その背景には,承久の乱(1221)以後,全国各地に進出した地頭御家人が,荘園領主など異質の世界の人々との接触で,種々のトラブルにまきこまれるようになったことがある。泰時にとっては,評定衆(1225設置)たちとの評定の場を拠点に動きはじめた執権政治を,より確かなものにする必要もあった。式目は守護を通じて各国内の地頭御家人に伝達され,それを通して広く社会に浸透した。
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…日本の前近代社会でも,それぞれの身分や地域社会に,とくに忌避され慣習的な罰の対象となっていた悪口があったであろうが,ほとんど史料的痕跡をとどめていない。 その中で御成敗式目がその第12条で,悪口を罪として規定したことは,日本の悪口史上きわめて重大なできごとであった。なぜならこの法典が,日本前近代法の中で全く例外的に長く広く社会的な有名な法でありつづけたために,一つには後代のいくつかの成文法に影響を与えて悪口罪を制定させ,また同時に本来は歴史の表面に出る可能性のなかった多くの悪口を,悪口か否かの法廷論争を通じて歴史に記しとどめたからである。…
…中国古代では髡(こん)刑という剃髪刑がもちいられていたが,日本の律令国家は,例外的にこれをもちいたほかは髡刑を継承しなかった。片鬢剃が登場するのは,《御成敗式目》の刑罰としてであり,〈辻女捕(つじめとり)〉を犯した郎従以下のものにこの刑が科せられた。この刑がどのような法源より式目に登場するのか不明であるが,江戸時代初頭の秋田藩の鉱山人夫に対する刑として,そった頭に墨や朱をぬる多様な形態の片鬢剃刑がひろく採用されており,この刑罰が,中世東国の武家社会の基層部に慣習的刑罰の一形態として存在したことが想定されるのである。…
…僧兵の強訴などにあたっては,従来は朝廷が作成した収拾案の下で,幕府は防御を担当するだけであったが,乱後は収拾案までも幕府が提示し,事態解決の中心的役割を果たしている。1232年(貞永1)執権北条泰時の時代には《御成敗式目》が制定された。この式目は幕府の勢力範囲に限って適用されたものであり,朝廷の支配下では律令の系統をひく公家法,貴族・社寺の支配下では本所法が行われていたし,《御成敗式目》も国司・領家の支配に幕府が干渉しないことを規定している。…
…その結果,奴隷身分に固定される者,即座に解放される者,将来の解放が約束される者等を区別する基準が示されることになり,その後の中世社会に影響を与えていくことになる。《御成敗式目》はこの飢饉のさ中1232年(貞永1)に成立しているが,これは飢饉により諸矛盾が激化し,紛争の頻発,秩序崩壊の危機に際して,鎌倉幕府がその解決のための基準を打ち出したものとみることができる。また親鸞がその宗教的特質である絶対他力の立場に回心したのも,この飢饉のさ中である。…
…すなわち執権を2名に増員し(うち1名が連署),評定衆を新設し,さらに頼経を元服させ,翌26年に頼経は征夷大将軍に任命される(摂家将軍)などであり,ここに執権政治が確立した。32年(貞永1)には最初の武家法典である《御成敗式目》が制定され,裁判の基準が定められた。この時期の執権政治は,複数執権制や評定衆制に見られるように,従来の独裁に代わる合議に特色がある。…
…乱後の幕府は,むしろ在地領主,荘園領主双方の調停者としての機能を強めた。1232年(貞永1)の《御成敗式目》は,そうした時代背景の下に制定された武家法典だったといえる。【杉橋 隆夫】。…
…その体裁は,前書き,本文,稙宗の署名に続き,家臣の起請文が付けられている。これは,《御成敗式目》の伝本の一系統の体裁に一致し,また本文の一部の条文,前書き,起請文は,式目の文章をそのままひきうつして和文化したものであることが知られる。そのため古くからこの法典における式目の影響の強さが強調されてきたが,その実質的効力をうけついだ条文はわずか5ヵ条にすぎず,この点で《塵芥集》が他の家法よりその影響が濃厚であるとはいえない。…
…中世武家が1232年(貞永1)に初めて制定した法律は〈御成敗式目〉と称せられている。〈成敗〉という辞句を公式に法制用語として使用したのはこれが最初であろう。…
…正確には〈二十箇年年紀法〉という。《御成敗式目》第8条に〈一,御下文(くだしぶみ)を帯ぶるといえども知行(ちぎよう)せしめず,年序を経る所領の事 右,当知行の後,廿ヵ年を過ぎば,大将家の例に任せて,理非を論ぜず改替にあたわず。しかるに知行の由を申して御下文を掠め給るの輩,かの状を帯ぶるといえども叙用に及ばず〉(原漢文)とあるのが,明文的規定の嚆矢(こうし)である。…
… 12世紀の末,これら武士団を組織した鎌倉幕府が生まれると,これら武士社会の法慣習に,王朝国家を支える法体系である公家法,本所法を部分的に吸収した新しい国家法としての法体系が形成された。これが鎌倉幕府法であり,その基本法として制定されたのが《御成敗式目》である。《御成敗式目》は武家政権の国家法としての自覚のもとに制定され,公家法の影響下に新しい国家体制をつくる諸立法がみられるが,その立法の基底には,武家社会で形成されていた〈武士の習,民間の法〉が存在し,これらを前提に,現実に対応して,成文法としてより具体化するかたちで,修正・確認さらには補充が行われたものが多くみられる。…
…30‐31年(寛喜2‐3)ころの大飢饉には,倹約を命ずるとともに出挙米(すいこまい)の貸付け,年貢免除などによって,領民の救済に努めた。32年(貞永1)最初の武家法典である《御成敗式目》を制定し,御家人間の相論において公平な裁判を行うための客観的な規範を作った。当時畿内の大寺院は強大な勢力を誇り,朝廷も対策に苦しんでいたが,泰時は僧徒の武装禁止を求め,寺院側の不当な要求に対しては抑圧の態度で臨んだ。…
※「御成敗式目」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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