安徳天皇(読み)アントクテンノウ

デジタル大辞泉 「安徳天皇」の意味・読み・例文・類語

あんとく‐てんのう〔‐テンワウ〕【安徳天皇】

[1178~1185]第81代天皇在位1180~1185。高倉天皇の第1皇子。名は言仁ときひと。母は平清盛の娘建礼門院徳子。2歳で即位源平戦い西国に逃げ、壇ノ浦で平家一族とともに入水。→壇ノ浦の戦い

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精選版 日本国語大辞典 「安徳天皇」の意味・読み・例文・類語

あんとく‐てんのう‥テンワウ【安徳天皇】

  1. 第八一代天皇。高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。名、言仁(ときひと)治承四年(一一八〇)即位し在位五年。木曾義仲入京の時、平宗盛に守られて三種神器と共に西下。源氏に追撃され、長門山口県)壇の浦で平氏一族とともに入水。治承二~文治元年(一一七八‐八五

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改訂新版 世界大百科事典 「安徳天皇」の意味・わかりやすい解説

安徳天皇 (あんとくてんのう)
生没年:1178-85(治承2-文治1)

第81代に数えられる天皇。在位1180-85年。名は言仁。高倉天皇の第1皇子として平重盛の六波羅邸で誕生。母は平清盛の娘建礼門院徳子。翌月立太子。80年(治承4)即位。同年6月摂津国福原に遷都したが,11月京都に帰る。83年(寿永2)7月木曾義仲入京のさい,平氏に擁されて西海に落ち,大宰府讃岐国屋島などにのがれたが,85年3月長門国壇ノ浦で平氏一門とともに入水・死亡。陵墓は下関市阿弥陀寺陵。
執筆者:

安徳天皇が壇ノ浦の戦ののちも流離し,生存したという伝承の根を探るとすれば,《平家物語》巻十一〈先帝身投〉にまで戻らねばならない。二位尼に抱かれた幼帝安徳は壇ノ浦の海底深く沈んだことになっているが,覚一本系の諸本を見ると,はじめのところでは〈御髪黒うゆらゆらとして御せなか過ぎさせ給へり〉とあり,そのあとには〈山鳩色の御衣にびんづらゆはせ給ひて〉となっていて,明らかに安徳帝の描写に矛盾があり,同一人物とは思えないところから替玉説が浮上してくる。安徳帝は死んだと見せかけて,ひそかに壇ノ浦から脱出して生存したとする説がそれであって,四国を中心に中国,九州,対馬,硫黄島にまで足跡をとどめている。なお安徳伝説を伝えているところは例外なく辺境である。高貴な出自の中でも,とりわけ尊い天子をみずからの先祖と関係あるものと仰ぐことによって,辺境に生きる人々は,不遇と落魄の日々を支える精神的な支柱としたことが考えられる。
平家伝説
執筆者:

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百科事典マイペディア 「安徳天皇」の意味・わかりやすい解説

安徳天皇【あんとくてんのう】

平安末期の天皇。高倉天皇の第1皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)。1180年3歳で即位,1185年まで在位。源平の戦に平宗盛に擁せられて西走,1185年壇ノ浦の戦で平氏一門とともに入水。
→関連項目赤間神宮後鳥羽天皇三種の神器先帝祭平時子高倉天皇中山忠親六代勝事記

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安徳天皇」の意味・わかりやすい解説

安徳天皇
あんとくてんのう
(1178―1185)

第81代天皇(在位1180~1185)。名は言仁(ときひと)。高倉(たかくら)天皇の第1皇子。母は平清盛(きよもり)の女(むすめ)徳子。治承(じしょう)2年11月12日誕生。翌々年高倉天皇譲位の後を受けて即位したが、源平争乱の渦中で平氏と運命をともにした。1183年(寿永2)木曽義仲(きそよしなか)入京の際、平宗盛(むねもり)に擁せられて出京。大宰府(だざいふ)、讃岐(さぬき)の屋島(やしま)、長門(ながと)の壇ノ浦(だんのうら)と移動し、1185年(文治1)壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡するときに、二位尼(にいのあま)に抱かれて海に沈んだ。ときに8歳。御陵は下関市の阿弥陀(あみだ)寺陵。

[山本博也]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安徳天皇」の意味・わかりやすい解説

安徳天皇
あんとくてんのう

[生]治承2 (1178).11.12. 京都
[没]元暦2 (1185).3.24. 長門,壇ノ浦
第81代天皇(在位 1180~85)。名は言仁。高倉天皇第1皇子,母は建礼門院平徳子。治承4(1180)年即位。寿永2(1183)年7月,源義仲の入京により平宗盛に擁せられて西海に遷幸大宰府に入った。次いで讃岐の屋島に移り(→屋島の戦い),さらに源氏に追われて長門の壇ノ浦で平家一門と入水(→壇ノ浦の合戦)。陵墓は山口県下関市阿弥陀寺町の阿弥陀寺陵。

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朝日日本歴史人物事典 「安徳天皇」の解説

安徳天皇

没年:文治1.3.24(1185.4.25)
生年:治承2.11.12(1178.12.22)
平安末期の天皇。諱は言仁。高倉天皇と平清盛の娘建礼門院徳子の第1皇子。誕生の翌月12月8日親王宣下。12月15日立太子。治承3(1179)年祖父清盛がクーデタを起こして独裁政治を開始し,翌年4月に3歳で即位。同年6~11月まで摂津福原に遷幸。寿永2(1183)年平家一門の都落ちに際し奉ぜられて同行。太宰府から屋島に逃れたが,文治1(1185)年源義経らの攻撃に屈し壇の浦で入水。三種神器のうち宝剣がともに海中に没した。安徳天皇と宝剣,竜との関係が説かれ,また各地には安徳天皇生存の伝説が残る。<参考文献>生形貴重『「平家物語」の基層と構造』

(櫻井陽子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安徳天皇」の解説

安徳天皇 あんとくてんのう

1178-1185 平安時代後期,第81代天皇。在位1180-85。
治承(じしょう)2年11月12日生まれ。高倉天皇の第1皇子。母は平徳子(建礼門院)。平清盛の後押しにより3歳で即位。翌年清盛が死に,各地で平氏追討の動きが出,寿永2年平氏は天皇と神器を奉じて西国へ脱出,後白河上皇は後鳥羽(ごとば)天皇を即位させ,天皇がふたりたった。2年後,長門(ながと)(山口県)壇ノ浦の戦いで平氏は敗れ,元暦(げんりゃく)2年3月24日天皇は入水。8歳。墓所は阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)(山口県下関市)。名は言仁(ときひと)。別称は西国天皇。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安徳天皇」の解説

安徳天皇
あんとくてんのう

1178.11.12~85.3.24

在位1180.2.21~85.3.24

高倉天皇の第1皇子。母は平清盛の女建礼門院徳子。名は言仁(ときひと)。誕生後1カ月で皇太子に立てられ,3歳で即位。父高倉からの譲位は清盛によって強引に進められたが,反発を招き,全国的内乱に発展した。1183年(寿永2)7月,源義仲の軍勢に京を追われ,以後,平家とともに西国を転々とし,85年(文治元)3月24日,祖母の平時子に抱かれて長門国壇ノ浦に入水,8歳。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「安徳天皇」の解説

安徳天皇
あんとくてんのう

1178〜85
平安末期の天皇(在位1180〜85)
名は言仁 (ときひと) 。高倉天皇第1皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。源平合戦のとき,宗盛ら平氏一門とともに西国に下り,1185年壇の浦で祖母平時子に抱かれ入水した。

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367日誕生日大事典 「安徳天皇」の解説

安徳天皇 (あんとくてんのう)

生年月日:1178年11月12日
平安時代後期の第81代の天皇
1185年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の安徳天皇の言及

【赤間神宮】より

…山口県下関市阿弥陀寺町に鎮座。1185年(文治1)源平壇ノ浦合戦で入水した安徳天皇をまつる。ときの朝廷は長門国に勅して赤間関に御影堂を建立し,阿弥陀寺として奉祀させた。…

【硫黄島】より

…1186年(文治2)河辺平太道綱が本島へ逃亡し,翌年には義経同意のやからが隠れているという疑いがあったため,源頼朝は宇都宮信房と鎮西九国奉行天野遠景をつかわして本島で合戦し,これを帰順させた(《吾妻鏡》)。島内の記録によれば,壇ノ浦で敗れた平資盛と安徳天皇一行は本島に逃れ,1243年(寛元1)安徳天皇はここで没したと伝え,安徳帝陵,黒木御所,硫黄大権現宮など関係史跡がある。この平家落人伝説は1773年(安永2)薩摩藩へ提出された《平家没落由来記》以後知られることとなった。…

【剣山地】より

…丸笹山に至る鞍部が〈見ノ越〉(1400m)で,大剣神社があり,北側の貞光町からのドライブウェーや穴吹川沿いの自動車道,および西側からの祖谷(いや)川沿いの自動車道がここで会合する。【相馬 正胤】
[剣山の信仰]
 剣山はもとは石立(いしだて)山とよばれていたが,頂上にある宝蔵石という巨石の下に安徳天皇の剣を奉納して以来〈つるぎさん〉とよぶようになったという。剣山は7世紀に役行者(えんのぎようじや)が開いたと伝えられるように,古くから修験道の霊山とされ,近年まで女人禁制が守られ,現在も先達に導かれた多くの信者が登拝する信仰の山となっている。…

【天皇】より

…この異人は,一般に貴種とされ,人神的性格をになっている。伝説上では,素戔嗚(すさのお)尊や日本武(やまとたける)尊,神功皇后などの神話上の人物のほかに,後醍醐天皇や安徳天皇,花山天皇など実在の天皇があげられている。共通しているのは,これらの貴種は,地位を追われて放浪している存在だということである。…

【二位尼】より

…宗盛・知盛・重衡・徳子らを生み,1168年(仁安3)清盛とともに出家,71年女徳子が高倉天皇の中宮になってから従二位に叙せられたので二位尼,二品尼と称される。清盛の死後は一門の後見的立場をしめたが,85年3月,長門国壇ノ浦で平家が滅亡するさい,安徳天皇を抱いて入水した。【田中 文英】。…

【平家伝説】より

…現在までに約150ヵ所あまり報告され,さまざまな伝説が残されている。その中には,自分たちがただ平家公達の末流と称するだけではなく,安徳天皇や平維盛・重盛などの子孫と伝える所もある。たとえば,安徳天皇が壇ノ浦から無事脱出し生き延びたという伝承は多く,徳島や鳥取,山口県ほか数十ヵ所に陵墓があると言われている。…

※「安徳天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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