長講堂(読み)ちょうこうどう

精選版 日本国語大辞典 「長講堂」の意味・読み・例文・類語

ちょうこう‐どう チャウコウダウ【長講堂】

(古くは「ちょうごうどう」とも) 京都市下京区本塩竈町にある西山浄土宗の寺。もと真言律宗。嘉応元年(一一六九後白河法皇が御所六条殿内に持仏堂として創建。貴賤を問わず、あらゆる人の亡魂を回向(えこう)し、法華経を講読した。天正六年(一五七八豊臣秀吉が現在地に移転。六条長講堂。後白河法華堂。六条御所。

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デジタル大辞泉 「長講堂」の意味・読み・例文・類語

ちょうこう‐どう〔チヤウコウダウ〕【長講堂】

《「ちょうごうどう」とも》京都市下京区にある浄土宗の寺。正称は法華長講弥陀三昧堂。もと後白河法皇が六条の仙洞せんとう御所に設けた持仏堂に始まる。六条長講堂。

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日本歴史地名大系 「長講堂」の解説

長講堂
ちようこうどう

[現在地名]下京区本塩竈町

西山浄土宗、本尊は阿弥陀三尊像。もとは六条大路北・西洞院にしのとういん大路西にあった後白河法皇の御所六条ろくじよう殿内の持仏堂。現在の下京区天使突抜てんしつきぬけ四丁目にあたる。「本尊弥陀左観音右勢至各々恵心之作」といい(雍州府志)、「法皇曾被過去帳斯堂近臣亡後悉被此過去帳」という(同書)。長講堂とは、法華長講弥陀三昧堂の略で、法華経を長日不断に講読したところから付けられた称という。「百錬抄」治承元年(一一七七)四月一九日条に長講堂で法花八講を修したことがみえるが、これは六条殿を院御所とする以前であり、すでに法皇は「長講堂」という仏堂をもっていたようである。「山槐記」文治元年(一一八五)八月二三日条には「長講堂仏前并前庭」で「被供養五輪一万基塔」のことがみえるが、これは六条殿内に設けた長講堂である。

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改訂新版 世界大百科事典 「長講堂」の意味・わかりやすい解説

長講堂 (ちょうこうどう)

後白河法皇がその御所の六条殿のうちにつくった持仏堂。はじめ京都六条西洞院にあった。法華長講弥陀三昧堂の略称で,法華経を長期にわたって講義し,あわせて阿弥陀仏を念じて三昧境に入る道場のことを意味する。したがって本来固有名詞ではなく,院政期には多くの貴族たちがこうした持仏堂をつくったが,歴史上この後白河法皇の建立したものが最も有名で,単に長講堂といえばこれを指す。文献上の初見は,1185年(文治1)であるが,創建は1183-84年(寿永2-元暦1)ころと推定されている。88年4月長講堂は火災にあって焼失するが,後白河法皇は播磨,越中,出雲等の諸国に費用を負担させて造営につとめ,はやくも年末には復興し,その盛時には,本堂,僧座,透渡殿,軒廊,渡殿,御影堂,宝蔵,御倉などを備え荘厳美麗を極めた。後白河法皇は,91年(建久2)10月,多年領掌してきた所領・荘園を長講堂に寄進してその経済的基礎を確定した。ついで法皇は重病になると,翌年1月,5ヵ条からなる《長講堂起請》を書き,長講堂の護持・運営と仏法興隆のために,僧の任命,仏事,荘園の管理,堂舎の修理などに関する具体的な条規を定めた。この,法皇が寄進した所領・荘園が長講堂領の基幹をなした。それは,42ヵ国89ヵ所におよび,米5384石,絹1216疋,糸4274両,綿2万0256両,白布2790反,鉄1万廷以下の膨大な収入が予定されていた。

 長講堂領はその後も増加し,《梅松論》などに180ヵ所と称されて,八条院領とならび皇室領の双璧をなすにいたる。92年3月,後白河法皇は死にさいして,長講堂とその所領を寵姫丹後局所生の宣陽門院覲子内親王にゆずった。宣陽門院はここに移住し,源通親を院別当に任命したが,その所領に目をつけて恩賞にあずかろうとして追従する貴族たちが多かった。とくに別当通親は,この膨大な長講堂領の管理責任者だったので,その富は摂関家をしのいだといわれる。後鳥羽上皇もまたこの所領に目をつけ,第2皇子雅成親王が誕生すると,すぐに宣陽門院の猶子とした。雅成親王が承久の乱の謀議に参画したため,長講堂領は鎌倉幕府によって没収されたが,まもなく本主の宣陽門院に返還された。宣陽門院は,猪隈関白家実の女藤原長子を養子にし,後堀河天皇に入れて中宮鷹司院とし,この鷹司院に長講堂とその所領を譲与しようとした。しかし後嵯峨上皇から異議がでたため,1251年(建長3)その処分状を破棄し,後深草天皇に譲与することを定めた。翌年,宣陽門院が死んで後深草天皇が相続するが,実際に管理したのは後嵯峨上皇であった。67年(文永4)にいたって後深草上皇が長講堂とその所領を引きつぎ,1304年(嘉元2)にこれを伏見上皇に譲与する。

 ところで,後嵯峨上皇は27年にわたって院政をおこない,後深草天皇のあとに弟の亀山天皇を即位させ,しかも亀山の皇子世仁親王を皇太子にしたため,以後,後深草天皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)の両統に分かれて政争が激しく展開されることになった。膨大な長講堂領もその相続・獲得をめぐって暗闘にまき込まれるが,結局,後深草天皇→伏見天皇→後伏見天皇→花園天皇→光厳天皇→崇光天皇→後小松天皇と持明院統に伝領され,その皇統の勢力をささえる最も重要な経済的基盤になった。1407年(応永14)の長講堂領目録では,その所領は43ヵ国112ヵ所であるが,応仁・文明の乱後は急激に減少する。こうして,所領・荘園が伝領されている間に,長講堂は何回も火災にあい,とくに1273年(文永10)に焼失し後深草上皇が再建したとき土御門油小路に移され,旧地を上長講堂と称した。室町時代の末期になると,長講堂の建造物もいちじるしく荒廃し,1588年(天正16)豊臣秀吉によって,現在の京都市下京区富小路の寺町の地に移された。現在は,西山浄土宗に属している。
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百科事典マイペディア 「長講堂」の意味・わかりやすい解説

長講堂【ちょうこうどう】

京都市下京(しもぎょう)区にあり,浄土宗西山派。もと後白河法皇が六条殿(京都六条西洞院)内に作った持仏堂(法華長講弥陀三昧堂)。創建後数年で焼失し,1188年播磨(はりま)ほか諸国に造営費を課して再建。法皇が崩御に先立ち堂の護持・運営,仏法興隆のために寄進した89ヵ所の長講堂領(のち180ヵ所に増加)は,法皇皇女の宣陽(せんよう)門院後深草(ごふかくさ)天皇を経て持明院(じみょういん)統に伝領された。なお火災にあい,たびたび移転,現在地へは1588年に移る。
→関連項目大泉荘忽那氏高階栄子松浦荘安富荘山内荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長講堂」の解説

長講堂
ちょうこうどう

京都市下京区にある浄土宗西山派の寺。後白河上皇の御所六条殿(六条西洞院殿)内の持仏堂に始まる。「法華経」を長日不断に講読することから法華長講弥陀三昧堂といい,略して長講堂とよばれた。創建は六条殿の完成の1184年(元暦元)頃とみられる。後白河上皇は死に際して長講堂とその所領を子の宣陽門院(覲子(きんし)内親王)に譲り,のち持明院統に伝えられた。長講堂は数度の火災で所在地もかわり,天正年間(1573~92)現在地へ移った。

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世界大百科事典(旧版)内の長講堂の言及

【皇室領】より

…寄進地系荘園の設立が本格化し,院政権力のもとに荘園の寄進が集中したためであるが,天皇・上皇・女院(によいん)等の御願寺建立の盛行がそれに拍車をかけ,御願寺領荘園として皇室の所領を拡大した。鳥羽上皇建立の安楽寿院領48ヵ所,後白河上皇建立の六条長講堂領90余ヵ所などは,その代表的なものである。また一条天皇の母后東三条院に始まる女院も,院政時代以降急激に増加したが,とくに皇女の女院に皇室領が伝領される例が続いた。…

【女院】より

…鳥羽上皇の皇女八条院は父上皇から譲渡された所領を基礎に,鳥羽の安楽寿院領や白河の歓喜光院領なども伝領し,記録にみえるだけで220余ヵ所の所領を有していた。また後白河上皇の建立になる六条長講堂の所領は皇女の宣陽門院が伝領し,長講堂領として有名である。なお女院庁の構成はほぼ上皇の院庁と同じであるが,所衆,武者所などはおかれなかった。…

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