日本歴史地名大系 「中津平野条里跡」の解説 中津平野条里跡なかつへいやじようりあと 大分県:中津市中津平野条里跡中津市の西半部、山国(やまくに)川のつくる沖積平野に残る古代条里跡。遺構の阡線は東に三〇度ぶれ、北はJR日豊本線の通る中津市島田(しまだ)から合馬(おうま)にかけての線上まで、南は万田(まんだ)・湯屋(ゆや)地区に及ぶ。北部で東西約三キロ、南部で東西約二キロ、南北約三キロの範囲に及ぶ県下でも最大の条里跡である。その北西部に中津市の市街地の中心部があり、近年宅地化の進行が著しい。条里区内には古山国(こやまくに)川のつくった自然堤防が北方に向けて数多く走っており、これらの自然堤防上で弥生時代や古墳時代の遺物が数多く発見されている。現存する畦畔からみて坪内の地割は長地形とみられる。弘長二年(一二六二)四月一六日の阿闍梨信寛私領田売券(永弘文書)に「豊前国下毛郡野仲郷六条八里卅坪捌段字隈元」とみえ、隈元は現在下池永の貴船(しもいけながのきぶね)神社近くの熊本(くまもと)と思われる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by