改訂新版 世界大百科事典 「中津平野」の意味・わかりやすい解説
中津平野 (なかつへいや)
九州の北東部,周防灘に臨む平野。福岡県豊前市から国東(くにさき)半島基部の大分県豊後高田市南部まで,東西約30km,南北4~8kmにわたり,山国川,駅館(やつかん)川などの沖積低地と,ほぼ同面積の標高10~30mの洪積台地からなる。台地は山国川,犬丸川,伊呂波(いろは)川,駅館川などによって分断され,上毛原(こうげばる),下毛原(しもげばる),長峰原(ながみねばる),糸口原(いとくちばる),宇佐原(うさばる)などの小台地となって西から東へ並ぶ。平野東部は邪馬台国宇佐説の舞台となったところで,九州最古期の赤塚古墳や,条里制の遺構である地割跡が残り,古代史上注目すべき地域である。赤塚古墳の周辺は,現在,〈宇佐風土記の丘〉として整備されている。また,古代から中世にかけては宇佐神宮の絶大な勢力を背景に独特の宇佐文化が花開いた。近世は,中津平野の西部は中津藩領,東部は島原藩の枝領となり,その中間の地域は天領や神領などが交錯していた。中津市は中津藩の城下町,豊後高田市は島原藩の陣屋町,宇佐市四日市は天領の代官町,宇佐は宇佐神宮の鳥居前町としての起源をもつ。
産業は農業が主で,山国川の大井手井路(おおいでいろ),荒瀬井路,駅館川の平田井路,辛島(からしま)井路,広瀬井路などの大井路によって安定した米の生産を誇ってきた。下毛原,宇佐原などの洪積台地ではダイコン,ハクサイなどの野菜や,ブドウなどの果樹の生産が盛んである。周防灘に面する海岸は遠浅で,近世には干拓が盛んに行われ,文政・天保(1818-44)のころから多くの新田が誕生した。なかでも豊後高田市の呉崎(くれさき)新田は最大規模のもので,現在は野菜の産地である。漁業は単調な海岸線のためあまりふるわず,宇佐市の長洲,中津市小祝などの漁業基地があるにすぎないが,中津から豊後高田市の旧香々地(かかじ)町までの浅海干潟でノリの養殖が盛んである。海岸沿いを宇佐まで日豊本線と国道10号線が走り,宇佐から国道213号線が国東半島をめぐる。
執筆者:勝目 忍
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報