日本大百科全書(ニッポニカ) 「中西派一刀流」の意味・わかりやすい解説
中西派一刀流
なかにしはいっとうりゅう
近世中期におこった剣術の一流派。中西流ともいう。流祖は中西忠太子定(ちゅうたたねさだ)。忠太は江戸の人で、小野派一刀流4世小野次郎右衛門忠一(じろうえもんただかず)および5世忠方(ただかた)に学び、元文(げんぶん)年間(1736~1741)下谷練塀小路(したやねりべいこうじ)東側に町道場を開き、一刀流の教授を始めた。その子忠蔵子武(ちゅうぞうたねたけ)は、従来の刃引(はびき)、組太刀中心の教授法に改良を加え、胸当(むねあて)にかえて、面、籠手(こて)、胴などの防具を整備し、竹刀(しない)打込み稽古(けいこ)の方式を考案し、人々の人気を集めたという。4代忠兵衛子正(ちゅうべえたねまさ)の時代には、浅利又七郎義信(あさりまたしちろうよしのぶ)をはじめ、中西道場の三羽烏(さんばがらす)といわれた高柳又四郎義正(たかやなぎまたしろうよしまさ)、寺田五郎右衛門宗有(てらだごろうえもんむねあり)、白井亨義謙(しらいとおるよしのり)らの俊才を集め、当時江戸第一といわれた大道場は盛況を呈した。
[渡邉一郎]