今日の剣道は、日本古来の武術の一つとして操刀の技法「太刀打ち(たちうち)」を中心に発展してきた剣術に基づいている。
[渡邉一郎・中村民雄]
剣術は、すでに『日本書紀』に「撃刀」(たちかき)として表れるが、奈良時代には撃剣、撃刀と書いて「たちうち」と読ませるようになり、平安時代「太刀打ち」の文字が一般に使われた。やがて武士の興起とともに、鎌倉・南北朝時代には、刀剣製作技術の目覚ましい発達と相まって、いよいよ日本独自の剣術が展開する。さらに室町中期以降、相次ぐ国内の争乱と、これに加えて鉄砲の伝来による戦術の一大転換により、従来の騎馬中心の戦闘から、白兵歩戦が決定的な意味をもつようになると、時代の要求に応じて技法のくふうも一段と精妙を加えることとなった。
こうして、弓、馬、砲よりやや遅れて、16世紀末から17世紀にかけて、秘剣の妙法を自得した剣術者たちによって、師資相伝の方式を打ち立てた流派が成立してくる。その先駆となったのは、15世紀後半に、下総(しもうさ)国香取(かとり)に出た飯篠長威斎(いいざさちょういさい)の天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう)、伊勢(いせ)国飯南郡射和(いさわ)出身の愛洲移香(あいすいこう)の陰流(かげりゅう)(愛洲陰流)、鎌倉地(寿)福寺の僧慈音の教え=念流を受けたといわれる中条兵庫助(ちゅうじょうひょうごのすけ)の中条流の三者である。
ついで戦国末期にかけて、飯篠の系統には塚原卜伝(ぼくでん)(新当流(しんとうりゅう))、有馬大和守(ありまやまとのかみ)幹信(有馬流)、松岡兵庫助則方(のりかた)、松本備前守政信、諸岡一羽(もろおかいっぱ)(一羽流)らが、愛洲の流れには上泉(かみいずみ)伊勢守秀綱(信綱ともいう、新陰流)、柳生但馬守宗厳(やぎゅうたじまのかみむねよし)(新陰柳生流)、丸目蔵人佐(くらんどのすけ)(タイ捨流)、疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)(疋田新陰流)らが出た。また中条の分かれには、富田(とだ)一放(一放流)、長谷川宗喜(長谷川流)、富田勢源(富田流)、鐘捲(かねまき)自斎(鐘捲流)、伊藤一刀斎景久(一刀流)などが現れた。このほか斎藤伝鬼房(天道流)、吉岡拳法(けんぽう)(京流)らが自流を編み出すなど、後世に名をうたわれる流祖たちが出現した。この段階における剣法は、一般に兵法とよばれる実戦的な武技で、剣のほか長刀、槍(やり)、棒、捕縄、柔などの諸芸を包含するもので、これを外物(とのもの)といって兼修するのが常であった。
[渡邉一郎・中村民雄]
やがて近世初期に至り、禅思想などを導入して、業(技倆(ぎりょう))、理(理論・心法)の深化が図られ、これとともに相伝体系を整備して、剣一本の近世剣術へと発展する。柳生宗矩(むねのり)の『兵法家伝書』、宮本武蔵(むさし)の『五輪書(ごりんのしょ)』などは、この時期の代表的伝書である。一方、平和時代の到来とともに、実戦的で殺伐な戦国剣法は影を潜め、形式に流れて華美となり、遊芸化の傾向をみることとなる。また、幕府が新陰柳生流と小野派一刀流を御流儀とし、薩摩(さつま)藩が東郷重位(じゅうい)の示現流(じげんりゅう)を採用したように、各藩各様の流儀を用いて師家を取り立てたが、各流とも相互の交流を試みることなく、むしろ他流試合を厳禁して封鎖的、排他的であった。
こうした行き詰まりを打開したのが宝暦(ほうれき)~寛政(かんせい)期(1751~1801)に台頭してくる直心影流(じきしんかげりゅう)、神道無念流、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)などである。これら諸流はいずれも、直心影流の長沼四郎左衛門国郷(くにさと)や中西派一刀流の中西忠蔵子武(たねたけ)によって完成されたという鞱袍(しなえこて)を自流に採用し、竹刀(しない)打込み稽古(けいこ)を主体とし、いずれも幕末剣術界の有力流派に発展したのである。士風退廃の極にあったといわれる田沼時代は、ややもすると形式主義に流れた従来の型剣法の弊を脱却し、新流勃興(ぼっこう)の素地を醸成していったのである。
田沼時代に芽を出した新流を大きく伸長発展させたのは、松平定信(さだのぶ)の寛政の改革である。定信は、江戸市中の文武師家に書上(かきあげ)を命じ、内容のいかがわしいもの、技術の未熟なものに指南の禁止を命じたり、諸士の武芸上覧を復活し、下総小金原で将軍御鹿狩(しかがり)を催したりした。こうした定信の緊縮政策は、「文武文武で夜も寝られず」という世評にもかかわらず、いちおうの成果をあげた。しかし、修業者が現実的な利害に直結する免許を競望するに至り、幕府は1802年(享和2)武術稽古場の風紀粛正を求める戒告を発している。また、このころから関東農村内における農民の武芸稽古も顕在化してくる。これに対し幕府は、関東取締出役(とりしまりしゅつやく)を設置した1805年(文化2)農民間の武芸稽古を禁圧する令を出している。
[渡邉一郎・中村民雄]
ついで、化政(かせい)・天保(てんぽう)期(1804~1844)には、柳剛流(りゅうごうりゅう)、馬庭念流(まにわねんりゅう)、甲源一刀流、天然理心流、北辰(ほくしん)一刀流などの在野的新興流派が、古流の既成地盤に強力な刺激を与えるとともに、積極的に他流試合に出かけて、教線の拡大を試みるようになった。なかでも千葉周作の北辰一刀流は一族子弟・門下に俊秀を得て、目覚ましい発展を示した。一方、寛政の改革以降、藩営の武芸稽古場・演武場を設置するところが増加する。時あたかも外国船の接近が相次ぎ、武芸教育への関心が高まったからである。そして分散孤立的な師家道場を廃止して、藩校の武教場を一本化し、一藩内の家中に他流兼修を命じたり、市中道場の剣士を師範に登用するようになる。江戸在勤中の家士も地方に新流を普及するようになり、天保末年から嘉永(かえい)(1848~1854)にかけて、大藩においてもようやく他流試合が解禁となった。
このころ、九州から東下して江戸に剣名をはせた者に、長竹刀剣法の柳川(やながわ)藩士大石進や、久留米(くるめ)藩士加藤田平八郎がある。天保の改革の立役者水野忠邦(ただくに)は一日大石進をよんでその剣法を観賞したが、そのとき忠邦に招かれた江戸の剣客は、幕臣では直心影流男谷精一郎(おだにせいいちろう)、心形刀流伊庭軍兵衛(いばぐんべえ)、市中道場主では北辰一刀流千葉周作、神道無念流斎藤弥九郎(やくろう)、鏡新明智流桃井春蔵(もものいしゅんぞう)らであった。千葉の神田お玉が池「玄武館」、斎藤の九段坂上「練兵館」、桃井の築地浅蜊河岸(つきじあさりがし)「士学館」が、江戸の三大道場といわれたのも、このころである。
1853年(嘉永6)近代的装備をもつ米艦の来航は幕府に一大衝撃を与えたが、国防強化の必要性を痛感した老中阿部正弘(まさひろ)は、男谷らの建議を受けて1855年(安政2)講武所を開設した。その究極の目標は洋式砲術調練にあったが、戦場実用の立場から、剣槍も砲術とともに重視された。このとき剣術師範役には男谷精一郎、教授方に戸田八郎左衛門(田宮流)、本目鑓次郎(直心影流)、今堀千五百蔵(同)、松下誠一郎(心形刀流)、三橋虎蔵(同)、伊庭惣太郎(同)、近藤弥之助(忠也派(ちゅうやは)一刀流)、榊原鍵吉(さかきばらけんきち)(直心影流)、井上八郎(北辰一刀流)、藤田泰一郎(神道無念流)、松平主税助(柳剛流)らが選ばれた。
[渡邉一郎・中村民雄]
明治維新後、武士階級の崩壊により、武術諸流派はその存在基盤を失って一時に衰退し、1876年(明治9)3月、廃刀令(帯刀禁止令)が公布されると、剣術はまさに廃絶の危機に追い込まれた。この時期に、よく剣術の命脈をつなぎとめたのは、一つは榊原鍵吉らの撃剣興行、一つは民間道場有志らの奮闘、ついで警視庁における剣術再興の動きであった。
1877年の西南戦争における警視局抜刀隊の活躍によって、剣術が見直され、大警視川路利良(としよし)が剣術再興論を唱えたのをはじめとして、79年第2代大警視大山巌(いわお)は、全国の有名剣士を剣術世話係に任用して、市内各署に配属し、管下の巡査に剣術を課した。ついで各府県もこれに倣って巡査・看守らに剣術を奨励したため、1882年に始まった向ヶ丘弥生社(むこうがおかやよいしゃ)の撃剣大会は全国の関心を集め、警視庁剣術の一時代を画した。ついで、1894年日清(にっしん)戦争が起こると、国民の間に尚武の気風がにわかに高まり、翌95年4月、京都に大日本武徳会が設立され、武術の復興と普及が図られた。同年10月、第1回武徳祭演武大会を開催し、とくに技術精錬なる者に精錬証を授与した。さらに1899年、平安神宮に隣接して中心道場としての武徳殿を建立し、以後毎年5月4日に武徳祭を挙行し、引き続き大演武会を催し、8月には全国の青年を集めて青年演武大会を行うのを恒例とした。
一方、学校教育に武(剣)術を加えることの請願運動は、明治10年代から始められたが、政府・文部省は撃剣や柔術を教材とすることに強い難色を示し、成長期の児童・生徒の体育運動として強度にすぎ、身体の危険が伴いやすいので、正科教材として採用するのは適当でないが、伝統的な運動として行いやすい利点もあるので、一部課外として実施することは黙認するという、消極的な方針が受け継がれてきた。
しかし、日露戦争後、剣柔を正科教材に採用せよという声が一段と強まり、1908年3月の第24回帝国議会衆議院において、ついに武術の正科採用建議案が全員一致をもって可決された。ついで1910年5月の全国師範学校長会議において、「体操科の一部として、男生徒に剣道柔道の一または二を必修せしむるを可とす」という答申が提出された。ここで文部省もようやく重い腰をあげ、翌1911年7月「中学校令施行規則」を一部改正し、「体操ハ教練及体操ヲ授クヘシ又撃剣及柔術ヲ加フルコトヲ得」とした。これは不十分な正科で、実質的には随意科と同じであった。道場・武道具などの施設・用具をはじめ、指導法や教材研究の準備も不十分であり、また専門教員の不足やその資質の向上など、緊急な問題が山積していたためである。1925年(大正14)3月の第50回帝国議会において、中等学校においては、速やかに「必須科トシテ普及セシムルコト」という建議案が可決されたが、文部省当局は依然として随意科の姿勢を崩さず、翌1926年の体操教授要目の改正にも、撃剣の名称を「剣道」に改めるにとどまった。
[渡邉一郎・中村民雄]
大正末期から昭和初頭にかけて、大学・高専における剣道が多彩な活動を展開し、1928年(昭和3)11月、明治神宮体育大会を機に、全日本学生剣道連盟が結成され、全日本大学高専剣道優勝大会を開催した。加盟校も、1940年には結成当初の31校から127校に増え、学生剣道中心の時代を現出した。
やがて時代は満州事変、日中戦争と、しだいに強まっていく戦時体制への移行を背景としながらも、1929年御大礼記念武道大会、1934年皇太子殿下御誕生奉祝武道大会、1940年皇紀二六〇〇年奉祝昭和天覧試合と、三度に及ぶ華やかな天覧試合を経て、剣道人口は飛躍的に増加した。この間、学校行政の面では、1931年に中学校令施行規則等が改正され、剣道および柔道は「授クヘシ」と必須(ひっす)科目として実施されることになった。
ついで1936年6月、第二次改正の体操教授要目で、初めて中等学校の「剣道教授要目」が制定され、各学年ごとの教授指針が明確に示された。青年学校においても正課となり、1939年には尋常小学校5年以上および高等小学校の男子に準正課として課すことが認められ、さらに1941年国民学校令の公布とともに、体操科は体錬科と改められ、5年以上の高学年男子に剣道・柔道が必修教材として課せられることになった。
1941年12月、太平洋戦争に突入して、国内体制はすべて戦争遂行目的に合致するよう改正され、大日本武徳会も、武道綜合(そうごう)団体組織要綱に基づき、1942年3月21日、厚生・文部・陸軍・海軍・内務5省の管下に置かれ、加盟団体はあげて国防能力の一翼を担うものとされた。
[渡邉一郎・中村民雄]
終戦直後の1945年(昭和20)11月、文部省(現、文部科学省)は体錬科武道を全面的に禁止し、剣道が超国家主義および軍国主義の鼓吹に利用され、軍事訓練の一部として重んぜられたとの理由から、剣道を学校体育として実施することをいっさい禁止した。翌1946年8月、一般社会体育の面においても、武道という名称の使用を禁止し、公私の組織する団体で従来の剣道を指導督励することを禁止した。一方、同年7月、連合軍当局は、先に民間団体として再発足をした大日本武徳会に対し、占領方針中の禁止事項に抵触する疑いありとして、独自の調査を開始した。このため武徳会側は、同年10月31日自主的に解散したが、同11月8日内務省は解散を命令し、いっさいの財産を没収した。
こうしたきわめて困難な状況下にあって、民間の剣道愛好者は、新しい時代に即した剣道のあり方を模索しつつ練習を続け、スポーツとしての性格を備えた「しない競技」を考案し、1950年2月、東京に全日本撓(しない)競技連盟を結成し、同年10月第1回全日本撓競技大会を名古屋で開催、文部省に学校体育の教材として採用するよう要望した。文部省は、このしない競技の指導内容や、競技方法を検討した結果、その体育的価値を認めて、1952年4月から中学校以上に実施するに至った。
一方、平和条約の発効を機に、剣道の復活の動きがにわかに活発となり、1952年10月全日本剣道連盟が組織され、過去の剣道の弊害を除去し、本格的なスポーツとして、競技規則、審判規程をつくり、民主的な運営を図った。文部省はその新しい剣道について検討した結果、1953年5月、保健体育審議会の答申を得て、まず社会体育としての剣道の実施を認め、ついで同年7月には、高校・大学以上の学校で、新しい格技スポーツとして体育教材に採用することを認めた。柔道に遅れること3年、実に8年ぶりの禁止解除であった。
さらに1954年3月、全日本撓競技連盟と全日本剣道連盟は合同して、新しく全日本剣道連盟として出発することとなり、翌1955年3月日本体育協会(現、日本スポーツ協会)へ加盟し、同年秋の第10回国民体育大会から剣道が正式種目に加えられた。ついで1957年5月、文部省は「学校剣道の実施について」を通牒(つうちょう)し、中学・高校で実施しているしない競技と剣道の内容を整理統合して名称も「学校剣道」とし、体育教材として中学校以上に実施することになった。また、1958年10月1日告示の「中学校学習指導要領」によって、剣道は格技(運動領域6部門の一つ)のなかに含まれ、柔道、剣道、すもうの三者択一のもとに実施することが決まり、中学校では1962年度、高校では1963年度から、体育の必修教材として実施されることとなった。
その後、格技という名称は、1987年12月の教育課程審議会の答申に基づいて改訂された中学・高校の学習指導要領(1989年3月)において、武道という名称に改称され、「わが国の文化と伝統を尊重する態度の育成を重視する」教材として位置づけられている。
こうして体育・スポーツとしての剣道は急速に普及し、剣道人口も著しく増加したが、1980年代後半以降は減少傾向にある。高体連剣道部の調査によれば、高校生の剣道人口は1984年をピークに年々減少しており、以後も歯止めがかからない状態にある。また、女子とともに剣道人口を支えてきた幼少年剣道人口も少子化とともに減少しており、こちらも歯止めがかからない状態である。
一方、剣道の海外普及は昭和30年代からしだいに活発となり、着実にその成果をあげている。1965年、台北で第1回国際社会人剣道大会を開催したのをはじめ、1967年には日本武道館で国際親善剣道大会を開催し、1970年4月には加盟17団体による国際剣道連盟(IKF)が結成され、第1回世界剣道選手権大会が東京で開催された。以来3年ごとに大会を開催し、その後加盟団体も増え、2000年(平成12)3月の第11回サンタクララ大会には、37か国・地域が参加。2006年の第13回台湾大会には44か国・地域が参加した。また、第9回京都大会(1997)からは女子の個人・団体戦が国際選抜試合として加わった。
[渡邉一郎・中村民雄]
現行の剣道試合審判規則は、1995年4月1日に公布され、7月1日から施行されたもので、1975年5月に公表された「剣道の理念」「剣道修錬の心構え」の趣旨を、規則として第1条に「剣の理法を全うしつつ、公明正大に試合をし、適正公平に審判することを目的とする」と、位置づけたものである。
規則の概要を示せば、1辺9メートルないし11メートルの正方形または長方形の試合場で、剣道具(面、小手、胴、垂れ)を着用して竹刀で打突(だとつ)しあうものである。また、服装は剣道着、袴(はかま)を着用する。試合は5分三本勝負を原則とし、試合時間内に二本先取した者を勝ちとする。ただし、一方が一本取り、そのままで試合時間が終了したときは、この者を勝ちとし、試合時間内に勝敗が決しない場合は延長戦を行い、先に一本取った者を勝ちとする。それでも決まらない場合は、判定または抽選により勝敗を決め、あるいは引き分けとすることもできる。団体試合は勝者数法または勝抜き法とし、その大会で定められた方法により行い勝敗を決する。前者の場合、勝者が同数の場合は、総本数の多い方を勝ちとし、総本数が同数の場合は、代表者戦によって勝敗を決する。
打突部位は、(1)面部(正面および左右面)、(2)小手部(右小手および左小手)、(3)胴部(右胴および左胴)、(4)突部(突き垂れ)。竹刀の打突部は、物打を中心とした刃部(弦の反対側)と定められた。有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心(打突した後も油断なく、相手の反撃に心を配ること)あるものとされた。ただし、有効打突が両者同時にあった場合(相打ち)、もしくは被打突者の剣先が相手の上体前面に付いていて、その気勢、姿勢が充実していると判断された場合は有効打突としない。
審判員の構成は、審判長、審判主任(2試合場以上の場合)、審判員からなる。試合場における審判員は、主審1名、副審2名を原則とし、有効打突およびその他の判定については同等の権限を有する。
有効打突の決定は、2名以上の審判員が有効打突の表示をしたとき、もしくは1名が有効打突の表示をし、他の審判員が棄権の表示をしたときに決定される。
[渡邉一郎・中村民雄]
段位・称号の授与は、全日本剣道連盟(全剣連)が発足した1953年当初は、段位は五段までで、その上に錬士、教士、範士の称号を置くという一本建ての制度であった。ところが、十段制をいち早く採用した柔道に強く影響され、1957年には称号はそのままとし、段位を十段制とする二本建ての制度に改正された。2000年4月1日施行の現行規則においても、二本建ては踏襲されている。段位は「剣道の技術的力量(精神的要素を含む)」、称号は「これに加える指導力や、識見などを備えた剣道人としての完成度」を示すものとして、審査を経て与えられる。
段位は、初段から八段までとし、受審の資格は、全剣連加盟団体の登録会員で、所定の修業年限を経過し、かつ年齢、学年の条件にかなっていることが必要である。初段より五段までの審査は、実技、形および学科により加盟団体に委任して行い、六、七段の審査は実技、形、学科とし、別に定める審査員7名中5名以上の合意により合格とする。八段の審査は実技、形および学科とし、実技については第一次、第二次審査を行う。第一次実技審査は審査員7名中5名以上、第二次実技審査は審査員10名中7名以上、形および学科審査は審査員3名中2名以上の合意により合格とする。
称号は、錬士、教士、範士の三階制で、範士は称号、段位を通じた最高位である。受審の資格は、全剣連加盟団体の登録会員で、所定の段位、称号を受有していることが条件で、かつ加盟団体会長の推薦、さらに範士は全剣連会長の認可が必要である。錬士、教士の審査は加盟団体が行う講習を受けた後、錬士は小論文、教士は筆記試験を行い、審査員7名中5名以上の合意により合格とする。範士の審査は書類審査を行い、審査員10名中8名以上の合意で合格とする。
[渡邉一郎・中村民雄]
2009年4月より施行されている「剣道称号・段位審査規則」では、称号及び段位の審査は以下のとおりである。六段、七段の実技審査は審査員6名中4名以上の合意、型審査3名中2名以上の合意により合格とする。八段の第一次実技審査は6名中4名以上の合意、第二次実技審査は9名中6名以上の合意、型審査は3名中2名以上の合意により合格とする。錬士、教士の審査は6名中4名以上の合意で合格とする。
[編集部]
『堀正平著『大日本剣道史』(1934・剣道書刊行会)』▽『庄子宗光著『改定新版・剣道百年』(1976・時事通信社)』▽『『全日本剣道連盟三十年史』(1982・同連盟)』▽『中村民雄著『剣道事典―技術と文化の歴史―』(1994・島津書房)』▽『富永堅吾著『剣道五百年史』(1996・島津書房)』
日本に生まれ,日本で独自の発展をしながら受け継がれてきた伝統的な運動文化。技法的な源流は,いうまでもなく刀剣で相手と戦う戦技であるが,戦技としての実用性を離れ,修養,護身,芸能,体育,スポーツなど,広範な目的や形態をもつ文化として発展,普及してきた。〈剣道〉という名称は,近世に特殊な例としてみることができるが,公的にこの名称が用いられるのは近代の学校教育で,1926年改正の〈学校体操教授要目〉が最初である。古代,《日本書紀》には〈多知加伎(たちかき)〉〈多知宇知(たちうち)〉とあり,〈撃刀〉という語も〈たちかき〉と訓じている。平安時代から鎌倉時代ころは〈太刀打(たちうち)〉,室町時代後期から江戸時代初期にかけては〈兵法(ひようほう)〉が多く用いられたが,江戸時代は〈剣術〉が最も多く,ほかに〈剣法〉〈刀法〉〈剣技〉などの名称も用いられた。明治時代は〈撃剣(げつけん)〉が多く用いられるようになる。大正時代になって〈撃剣〉から〈剣道〉が中心になり,昭和に入ってからは〈剣道〉以外の名称はほとんど用いられなくなった。
日本における剣の技法の起源は,金属製刀剣の出現とともに始まったといってもよく,それは古墳時代にまでさかのぼる。初期の平造(ひらづくり)の直刀は武器としてよりも,むしろ所持者の地位や名誉の象徴であったらしい。それがおもに武器として用いられるようになって,反りのある彎(わん)刀に変化し,刀剣製作技術の進歩で,折れ曲がりせず,切れ味のよい日本刀が出現するようになって,操刀技術も進歩した。それは平安末期から鎌倉時代にかけて,武士の興起する時代でもあった。そして室町中期以降,相次ぐ国内の争乱と,これに加えて,鉄砲の伝来と普及による戦術の一大転換により,従来の騎馬中心の戦闘から白兵歩戦が重要な意味をもつようになると,技法のくふうも一段と精妙さを加えるようになった。こうして室町時代後期には,高度な技量をもつ天才的な剣豪たちによって,師資相伝の方式をうちたてた流派が成立してきた。代表的な流派として,神道(しんとう)流(新当流とも書く),陰流,中条流などがあり,これらを源流として江戸時代多数の流派が生まれるのである。
戦国時代の剣術は実戦的で,その形態は剣,槍,棒,弓,柔などの総合武術の一部であったが,近世になるとそれが,剣術,槍術,柔術というように分化し,独自の流派も次々と生まれ,免許伝授形式も確立した。また儒学の普及や禅思想の導入により,技(業,事)と理(理論,心法)の深化がはかられ,相伝体系を整備して武士の教養としての文化的発達をとげた。とくに剣術は諸武芸のうちで最も重視され普及した(武芸十八般)。なかでも隆盛したのは,徳川将軍家指南となった新陰流(新影流とも書く)と一刀流であり,近世の中心的流派といえる。ほかに宮本武蔵の二天一流,薩摩の示現流,新陰流から分かれたタイ捨流,馬庭念流など,特色ある著名な流派が続出した。剣術の理論化は,儒教,仏教,老荘などの思想の影響をうけながら,近世武芸伝書として書き著されるようになり,それらは今日まで伝えられている。代表的な伝書としては,沢庵の《不動智》,柳生宗矩の《兵法家伝書》,宮本武蔵の《五輪書》,佚斎樗山(いつさいちよざん)の《天狗芸術論》,古藤田俊定の《一刀斎先生剣法書》,小出切一雲の《剣法夕雲先生相伝》などがある。内容はすぐれたものが多く,現代剣道の考え方にも大きな影響を与えている。
一方,平和な時代の到来とともに,実戦的で殺伐な戦国剣法はかげをひそめ,〈華法剣法〉と呼ばれるように,形式に流れて華美となり,遊芸化の傾向をみるようになった。また各流とも相互の交流を試みることなく,他流試合を禁止して閉鎖的,排他的となった。このように華法化した形(かた)剣術に対して,江戸中期になって,直心影流の長沼四郎左衛門が正徳年間(1711-16)に,一刀流の中西忠蔵が宝暦年間(1751-64)にそれぞれ面,小手,胴などの防具や竹刀(しない)を考案し,防具をつけての竹刀打ち込み稽古が世間の注目をひき,しだいに広まった。これにより技や稽古法も大いに進歩し,現在行われている剣道の原型となった。この竹刀打ち込み稽古(しないうちこみけいこ)は,しだいに古来の形稽古を圧倒するようになり,剣術の主流となっていった。幕末,諸外国の日本接近による緊張のなかで,各藩は競って武備,武芸を拡充・奨励し,藩校を開いて文武教育による人材育成につとめた。そのなかで,心形刀流,北辰一刀流,神道無念流,直心影流,鏡心明智流,甲源一刀流など,近世剣術の行き詰まりを打開した新流が次々と現れた。さらに幕府が講武所を設置し,一般庶民も訓練できる町道場が隆盛するなど,幕末の剣術は活気を呈した。
明治維新後,禄と刀を奪われたかつての武士階級,なかでも剣客や道場主たちの生活は困窮した。また文明開化という,伝統的な武芸など顧みない風潮もあり,明治初期の剣道は著しく衰退した。そのなかにあって榊原鍵吉を中心とした剣客たちは,撃剣興行という営利形態の剣術を始め,のちの時代への橋渡し的存在となった。1877年西南戦争以後,警視庁を中心に剣道に対する関心も少しずつ高まった。明治20年代になると学校の課外などでも盛んになり,95年桓武(かんむ)天皇奠都(てんと)1100年を記念して大日本武徳会が創設され,武道教員の養成,道府県支部の結成,武徳殿建設などとともに,剣道の普及につとめた。剣道の近代化に必須の流派の統一も,武徳会によってはかられ,1912年〈大日本帝国剣道形〉が制定されて,剣道は全国的に組織化された。一方,学校剣道については,明治10年代以来武道の正科編入運動が継続され,数回の建議ののち,1911年中学校体操科の随意科としてその実現をみた。さらに,全日本学生剣道連盟の結成(1928)や天覧武道大会(1929,34)などにより,ますます普及された剣道は,31年学校体育のなかに正科必修となって,しだいにその存在を強くしていった。戦時体制下になると相次ぐ教授要目の改正によって,その精神性,国家主義的色彩を濃くしながら体育の花形となったのである。組織的にも,大日本武徳会が政府の外郭団体となり,よりはっきりと国家的武道の性格を打ち出すようになった。戦局が押し詰まるにつれ,戦技としての実戦性を強調し,戦闘訓練の一つとなるにいたった。
第2次世界大戦の敗戦後,連合軍の武道に対する弾圧はとくに剣道において厳しく,大日本武徳会は解散を命じられ,剣道は社会体育,学校体育から一掃された。その理由は,軍国主義の鼓吹に役割を担い,軍事訓練の一部として重んぜられたことなどによる。このような方針に対して,1950年剣道を母体とし,新しいスポーツとして考案され認められたのが〈しない競技〉である。そして講和条約の発効した52年に全日本剣道連盟が結成され,剣道はスポーツとして再出発することを明確にした。53年には学校でも行えるようになった剣道は,その後順調に発展し,警察,学校,実業団など組織的にも整備され,競技人口も急増した。とくに64年の東京オリンピック大会以後,ナショナルスポーツへの関心とスポーツ熱の高まりによって,剣道は老若男女を問わず全国民的に,かつてない広範な普及をみている。戦後剣道の性格の特徴はその競技性であり,年齢,地域,職業別などにより,数多くの大会が催されている。現在行われているおもな大会は,全日本剣道選手権大会,全日本都道府県対抗剣道優勝大会,全日本東西対抗剣道大会,全日本学生剣道選手権大会,全国教職員剣道大会,全日本実業団剣道大会,全国警察官剣道大会,全国高校総体剣道大会などである。女子の剣道は,1962年に第1回女子剣道選手権大会が催され,その後高校,大学を中心に女子の大会も数多く行われるようになった。そのほか子供たちの剣道大会もさまざまな形で行われている。
67年全日本剣道連盟は明治100年を機に,世界10ヵ国から選手を招待して国際親善剣道大会を開催した。これがきっかけとなって70年には国際剣道連盟International Kendo Federation(略称IKF)が創設され,同年第1回世界剣道選手権大会が日本で開催された。現在,この大会は3年おきに世界各地で催されている。
剣道の師範が弟子に対して,その進歩発達の程度に応じて段階的に一定の技を伝授する習慣は,室町中期ころから行われていた。江戸時代には,流派や時代によって一様ではないが,伝授される技の内容や程度に従って切紙,目録,免許などの段階があった。明治に入り,1879年ごろ警視庁が2級から7級にいたる階級を設けた。しかし,現代剣道における段位・称号制度のスタートは,1902年大日本武徳会がその振興政策の一環として制定した〈武術家優遇例〉である。ここで,範士,教士の称号制度を定め,範士には終身25円以内の年金を贈与することとした。〈武術家優遇例〉は18年〈武術家表彰例〉と改められ,さらに34年に改正されて,新たに錬士の称号が設けられ,初段から十段にいたる段位の規定も設けられた。戦後の全日本剣道連盟による段位・称号の規定も,おおむね大日本武徳会の規定を継承しているといってよい。現在全日本剣道連盟では,称号と段位の2本建てをとっている。段位は初段から十段まであり,初段から八段まではすべて試験に合格したものに授与される。九段以上は各都道府県連盟会長の推薦した者のなかから,審査会の議決を経て会長が授与する。段位はおもにわざの実力によって評価されるが,称号は実力に加えて,指導能力や普及振興に対する貢献度が評価の条件となり,錬士,教士,範士の3段階が設けられている。錬士は五段以上の者から,教士は錬士として修練を重ね,剣道の普及発展に寄与したもののなかから選ばれる。範士は教士として修行を積み,剣理に精通し,とくに剣道の普及発展に顕著な貢献をした者に授与され,剣道家として最高の栄誉を意味する。このような段位・称号制度は,日本文化独特のものである。
剣道のわざの体系は,おもに学校剣道を中心に整えられてきた。その分類,名称に若干の相違もみられるが,一般的な内容は表2のように基本(基本動作)と応用(対人的技能)に大別される。基本動作は,構え,足さばき,素(す)振り,打突,打ち返しの五つがある。対人的技能は,〈しかけわざ〉と〈応じわざ〉の二つに分類される。
しかけわざは,相手が打突の動作を起こす前にこちらから先に動作をしかけて打突するわざで,次のようなものがある。(1)払いわざ 相手の竹刀を左または右に払って構えをくずすと同時にそのすきに打ち込むわざ。(2)出ばなわざ 相手が打とうとし,または攻め込もうとする出ばなをすかさず打突するわざ。(3)かつぎわざ 充実した気勢で攻めて,竹刀を思い切り自分の左肩にかつぎ,相手がその勢いに圧倒されて手元のくずれたところを打つわざ。(4)ひきわざ 相手と鍔(つば)ぜり合いの状態あるいは間(ま)が近いとき,相手に自然にすきができたとき,または自分から積極的にすきをつくり,ひきながら打つわざ。(5)二,三段のわざ 最初の打突が決まらないとき,すかさず同じ部位または他の部位を二段,三段と続けて打つわざ。(6)片手わざ 左または右の片手で打突するわざ。(7)上段わざ 上段の構えから主として相手の出ばな,ひきばなを踏み込んで打つわざ。
応じわざは,相手が先にしかけてきた打突をかわし,あるいは受けて逆に相手を打突するわざで,次のようなものがある。(1)すり上げわざ 打ち込んでくる相手の竹刀を,下方から払い上げるようにすり上げて相手の打突を無効にし,すかさず打つわざ。(2)打ち落しわざ 相手の打突してくる竹刀を上方から打ち落とし,相手にすきができたところをすかさず打突するわざ。(3)返しわざ 相手の打突に対して応じ,ただちに手を返して打突するわざ。(4)抜きわざ 相手の打突に対して体をかわし,相手の竹刀をはずして空を打たせ,すきが生じたところを打突するわざ。
剣道は相対する2人の競技者が,一定の規則に従い,防具をつけ,竹刀をもって相互に相手の打突部位(面,小手,胴,突き)を打ち,あるいは突いて勝敗を決する競技である。試合には個人試合と団体試合があり,とくに人数に制限はないが,団体試合は5人か7人の場合が多い。
試合場は,縦横とも9~11mの広さとし,中心よりそれぞれ1.5mのところに開始線を設け,各線は幅5~10cmの白線とする。正式には試合場外側の周囲1.5mの余地を有する外郭線を設ける必要がある。防具は面,小手,胴および垂(たれ)を用い,服装は稽古着,袴とする。試合に使用する竹刀は規定のものを用いなければならない(表3参照)。
試合は一般的には3本勝負を原則とし,試合時間内に2本先取したとき,または時間内に一方だけが1本取ったときを勝ちとする。勝敗が決まらなかったときは,延長戦を行うか引分けとする。場合によっては,判定で勝敗を決めることができる。試合時間は5分を標準とし,技能程度,男女別などにより適宜かげんできる。審判は主審1人,副審2人,それぞれが紅白の旗をもつ。主審は試合運営の全般に関する権限を有し,審判旗をもって有効打突の表示,判定ならびに勝敗の宣告をする。副審は有効打突の表示を行う。副審は有効打突の判定については主審と同等の権限をもつ。したがって,有効打突は2人以上の審判が有効と認めたとき1本とする。ただし1人が有効と認め,他の2人が棄権した場合は1本とする。また場外その他の反則事項について,必要に応じて合議してその事実を明示する。有効打突は,竹刀の全長剣先より3分の1に当たる部分の弦の反対側で,充実した気勢,適法な姿勢をもって打突部位を正確に打突したものでなければならない。ただし,相打ちの場合,剣先が相手の体について生きている場合,見苦しい引揚げをした場合は有効としない。有効か否かの判定は,審判員の主観的判断の総合にゆだねられる。主審は,競技者が相互に礼をして,竹刀を合わせて〈そんきょ(蹲居)〉したところで〈始め〉と宣告して試合を開始させ,有効打突を認めたときは,その側の旗を斜め上方にあげ,〈面(小手,胴,突き)あり〉と宣告する。次に〈2本目〉と告げ,勝敗が決したときは〈勝負あり〉と宣告して試合を終わらせる。
執筆者:中林 信二
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(安藤嘉浩 朝日新聞記者 / 2007年)
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…しかし,その人気も一時的な好奇心や物珍しさからであり,会の乱立で客足も減り,しだいに衰微した。撃剣興行は,当時絶滅に(ひん)していた剣道の命脈を保ち,広く一般庶民に普及啓蒙して後の発展を可能にしたとする一面と,観客にこびて人気をとるため,奇声を発したり動作をはでにしたりして,態度や技術面でその後の剣道に悪影響を残したとする一面と,その評価には功罪両面があるといえる。当時からいろいろな批判もあったが,日本の武道史上特異な存在形態であり,明治後期武道が復活してくるまでの間のあり方として,歴史的な意味をもっている。…
…鎌倉・室町時代に著しく発達し,革を用い,金具も装飾金具を用いたり,漆塗り,錆地(さびじ)など,美術工芸品としても価値あるものとなった。(2)剣道の防具で,下膊(かはく)部から手を覆い,打撃の衝撃から保護する。手の部分は,なめし革を用い,親指と四指の二つに分かれ,腕の部分は,木綿布で綿を包んで刺子縫とし,筒状になっている。…
…剣道を行うときに用いる竹製の用具で,刀剣を模したもの。〈ちくとう〉ともいう。…
※「剣道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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