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剣道 けんどう

8件 の用語解説(剣道の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

剣道
けんどう

防具を着けて相対した競技者が,竹刀 (しない) で定められた部位を打突し合って勝敗を競う格技の一種。元来は刀剣による戦闘技を錬磨する剣術であり,室町時代にめざましい発展をとげ,多くの流派を生んだ。

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知恵蔵2015の解説

剣道

1対1で防具をつけ、竹刀を用いて相手の打突部位である「面」「胴」「小手」を打つ、または突くことで勝負する。勝敗は三本勝負を原則とし、試合時間内に有効打突を二本先取した者が勝ち。一方が一本を取ったまま試合が終了した場合にも、勝負は決まる。同点の場合は、延長戦で先に一本を取った者が勝ち。試合場は9mか11mの正方形または長方形で、試合時間は原則5分間。1895年に武術の統括団体として大日本武徳会が設立(戦後解散、1952年に全日本剣道連盟発足)、大正初期には流派によって異なる形を整理した「大日本帝国剣道形(現・日本剣道形)」を制定。この頃から撃剣・剣術という名称に代わって「剣道」が一般化した。

(安藤嘉浩 朝日新聞記者 / 2007年)

出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵2015」
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デジタル大辞泉の解説

けん‐どう〔‐ダウ〕【剣道】

日本の武道の一。籠手(こて)垂(たれ)などの防具を着装し、決められた相手の部位を竹刀で打ったり突いたりして勝敗を争う競技。

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百科事典マイペディアの解説

剣道【けんどう】

古くは剣術,撃剣(げっけん)とも。もと武術の一つとして,刀剣を用いて自己を守り敵を攻撃する技を練磨する道をいった。剣術は室町末期ころから発達して体系化され,源流として陰流神道流中条流念流などが生まれ,以後200余に及ぶ諸派が出た。
→関連項目しない競技日本武道館

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日本文化いろは事典の解説

剣道

日本では、武家社会の時代には侍が街を闊歩していました。その侍の魂である剣術の教えを現在も引き継いでいるのが剣道です。さまざまな流派が剣術の時代か ら存在し、剣道になった現在もその傾向は続いています。剣道は現代の人々に当時の侍を彷彿させる武道として親しまれています。

出典|シナジーマーティング(株)
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世界大百科事典 第2版の解説

けんどう【剣道】

日本に生まれ,日本で独自の発展をしながら受け継がれてきた伝統的な運動文化。技法的な源流は,いうまでもなく刀剣で相手と戦う戦技であるが,戦技としての実用性を離れ,修養,護身,芸能,体育,スポーツなど,広範な目的や形態をもつ文化として発展,普及してきた。〈剣道〉という名称は,近世に特殊な例としてみることができるが,公的にこの名称が用いられるのは近代の学校教育で,1926年改正の〈学校体操教授要目〉が最初である。

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大辞林 第三版の解説

けんどう【剣道】

防具を着用し、互いに竹刀しないで定められた部位を打突して勝負を争う格技。 「 -具」 「 -場」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

剣道
けんどう

今日の剣道は、日本古来の武術の一つとして操刀の技法「太刀打ち(たちうち)」を中心に発展してきた剣術に基づいている。[渡邉一郎・中村民雄]

歴史


流派剣術以前
剣術は、すでに『日本書紀』に「撃刀」(たちかき)として表れるが、奈良時代には撃剣、撃刀と書いて「たちうち」と読ませるようになり、平安時代「太刀打ち」の文字が一般に使われた。やがて武士の興起とともに、鎌倉・南北朝時代には、刀剣製作技術の目覚ましい発達と相まって、いよいよ日本独自の剣術が展開する。さらに室町中期以降、相次ぐ国内の争乱と、これに加えて鉄砲の伝来による戦術の一大転換により、従来の騎馬中心の戦闘から、白兵歩戦が決定的な意味をもつようになると、時代の要求に応じて技法のくふうも一段と精妙を加えることとなった。
 こうして、弓、馬、砲よりやや遅れて、16世紀末から17世紀にかけて、秘剣の妙法を自得した剣術者たちによって、師資相伝の方式を打ち立てた流派が成立してくる。その先駆となったのは、15世紀後半に、下総(しもうさ)国香取(かとり)に出た飯篠長威斎(いいざさちょういさい)の天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう)、伊勢(いせ)国飯南郡射和(いさわ)出身の愛洲移香(あいすいこう)の陰流(かげりゅう)(愛洲陰流)、鎌倉地(寿)福寺の僧慈音の教え=念流を受けたといわれる中条兵庫助(ちゅうじょうひょうごのすけ)の中条流の三者である。
 ついで戦国末期にかけて、飯篠の系統には塚原卜伝(ぼくでん)(新当流(しんとうりゅう))、有馬大和守(ありまやまとのかみ)幹信(有馬流)、松岡兵庫助則方(のりかた)、松本備前守政信、諸岡一羽(もろおかいっぱ)(一羽流)らが、愛洲の流れには上泉(かみいずみ)伊勢守秀綱(信綱ともいう、新陰流)、柳生但馬守宗厳(やぎゅうたじまのかみむねよし)(新陰柳生流)、丸目蔵人佐(くらんどのすけ)(タイ捨流)、疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)(疋田新陰流)らが出た。また中条の分かれには、富田(とだ)一放(一放流)、長谷川宗喜(長谷川流)、富田勢源(富田流)、鐘捲(かねまき)自斎(鐘捲流)、伊藤一刀斎景久(一刀流)などが現れた。このほか斎藤伝鬼房(天道流)、吉岡拳法(けんぽう)(京流)らが自流を編み出すなど、後世に名をうたわれる流祖たちが出現した。この段階における剣法は、一般に兵法とよばれる実戦的な武技で、剣のほか長刀、槍(やり)、棒、捕縄、柔などの諸芸を包含するもので、これを外物(とのもの)といって兼修するのが常であった。[渡邉一郎・中村民雄]
近世剣術の成立
やがて近世初期に至り、禅思想などを導入して、業(技倆(ぎりょう))、理(理論・心法)の深化が図られ、これとともに相伝体系を整備して、剣一本の近世剣術へと発展する。柳生宗矩(むねのり)の『兵法家伝書』、宮本武蔵(むさし)の『五輪書(ごりんのしょ)』などは、この時期の代表的伝書である。一方、平和時代の到来とともに、実戦的で殺伐な戦国剣法は影を潜め、形式に流れて華美となり、遊芸化の傾向をみることとなる。また、幕府が新陰柳生流と小野派一刀流を御流儀とし、薩摩(さつま)藩が東郷重位(じゅうい)の示現流(じげんりゅう)を採用したように、各藩各様の流儀を用いて師家を取り立てたが、各流とも相互の交流を試みることなく、むしろ他流試合を厳禁して封鎖的、排他的であった。
 こうした行き詰まりを打開したのが宝暦(ほうれき)~寛政(かんせい)期(1751~1801)に台頭してくる直心影流(じきしんかげりゅう)、神道無念流、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)などである。これら諸流はいずれも、直心影流の長沼四郎左衛門国郷(くにさと)や中西派一刀流の中西忠蔵子武(たねたけ)によって完成されたという(しなえこて)を自流に採用し、竹刀(しない)打込み稽古(けいこ)を主体とし、いずれも幕末剣術界の有力流派に発展したのである。士風退廃の極にあったといわれる田沼時代は、ややもすると形式主義に流れた従来の型剣法の弊を脱却し、新流勃興(ぼっこう)の素地を醸成していったのである。
 田沼時代に芽を出した新流を大きく伸長発展させたのは、松平定信(さだのぶ)の寛政の改革である。定信は、江戸市中の文武師家に書上(かきあげ)を命じ、内容のいかがわしいもの、技術の未熟なものに指南の禁止を命じたり、諸士の武芸上覧を復活し、下総小金原で将軍御鹿狩(しかがり)を催したりした。こうした定信の緊縮政策は、「文武文武で夜も寝られず」という世評にもかかわらず、いちおうの成果をあげた。しかし、修業者が現実的な利害に直結する免許を競望するに至り、幕府は1802年(享和2)武術稽古場の風紀粛正を求める戒告を発している。また、このころから関東農村内における農民の武芸稽古も顕在化してくる。これに対し幕府は、関東取締出役(とりしまりしゅつやく)を設置した1805年(文化2)農民間の武芸稽古を禁圧する令を出している。[渡邉一郎・中村民雄]
幕末の諸流派
ついで、化政(かせい)・天保(てんぽう)期(1804~44)には、柳剛流(りゅうごうりゅう)、馬庭念流(まにわねんりゅう)、甲源一刀流、天然理心流、北辰(ほくしん)一刀流などの在野的新興流派が、古流の既成地盤に強力な刺激を与えるとともに、積極的に他流試合に出かけて、教線の拡大を試みるようになった。なかでも千葉周作の北辰一刀流は一族子弟・門下に俊秀を得て、目覚ましい発展を示した。一方、寛政の改革以降、藩営の武芸稽古場・演武場を設置するところが増加する。時あたかも外国船の接近が相次ぎ、武芸教育への関心が高まったからである。そして分散孤立的な師家道場を廃止して、藩校の武教場を一本化し、一藩内の家中に他流兼修を命じたり、市中道場の剣士を師範に登用するようになる。江戸在勤中の家士も地方に新流を普及するようになり、天保末年から嘉永(かえい)(1848~54)にかけて、大藩においてもようやく他流試合が解禁となった。
 このころ、九州から東下して江戸に剣名をはせた者に、長竹刀剣法の柳川(やながわ)藩士大石進や、久留米(くるめ)藩士加藤田平八郎がある。天保の改革の立役者水野忠邦(ただくに)は一日大石進を呼んでその剣法を観賞したが、そのとき忠邦に招かれた江戸の剣客は、幕臣では直心影流男谷精一郎(おだにせいいちろう)、心形刀流伊庭軍兵衛(いばぐんべえ)、市中道場主では北辰一刀流千葉周作、神道無念流斎藤弥九郎(やくろう)、鏡新明智流桃井春蔵(もものいしゅんぞう)らであった。千葉の神田お玉が池「玄武館」、斎藤の九段坂上「練兵館」、桃井の築地浅蜊河岸(つきじあさりがし)「士学館」が、江戸の三大道場といわれたのも、このころである。
 1853年(嘉永6)近代的装備をもつ米艦の来航は幕府に一大衝撃を与えたが、国防強化の必要性を痛感した老中阿部正弘(まさひろ)は、男谷らの建議を受けて1855年(安政2)講武所を開設した。その究極の目標は洋式砲術調練にあったが、戦場実用の立場から、剣槍も砲術とともに重視された。このとき剣術師範役には男谷精一郎、教授方に戸田八郎左衛門(田宮流)、本目鑓次郎(直心影流)、今堀千五百蔵(同)、松下誠一郎(心形刀流)、三橋虎蔵(同)、伊庭惣太郎(同)、近藤弥之助(忠也派(ちゅうやは)一刀流)、榊原鍵吉(さかきばらけんきち)(直心影流)、井上八郎(北辰一刀流)、藤田泰一郎(神道無念流)、松平主税助(柳剛流)らが選ばれた。[渡邉一郎・中村民雄]
明治・大正時代
明治維新後、武士階級の崩壊により、武術諸流派はその存在基盤を失って一時に衰退し、1876年(明治9)3月、廃刀令(帯刀禁止令)が公布されると、剣術はまさに廃絶の危機に追い込まれた。この時期に、よく剣術の命脈をつなぎとめたのは、一つは榊原鍵吉らの撃剣興行、一つは民間道場有志らの奮闘、ついで警視庁における剣術再興の動きであった。
 1877年の西南戦争における警視局抜刀隊の活躍によって、剣術が見直され、大警視川路利良(としよし)が剣術再興論を唱えたのをはじめとして、79年第2代大警視大山巌(いわお)は、全国の有名剣士を剣術世話係に任用して、市内各署に配属し、管下の巡査に剣術を課した。ついで各府県もこれに倣って巡査・看守らに剣術を奨励したため、1882年に始まった向ヶ丘弥生社(むこうがおかやよいしゃ)の撃剣大会は全国の関心を集め、警視庁剣術の一時代を画した。ついで、1894年日清(にっしん)戦争が起こると、国民の間に尚武の気風がにわかに高まり、翌95年4月、京都に大日本武徳会が設立され、武術の復興と普及が図られた。同年10月、第1回武徳祭演武大会を開催し、とくに技術精錬なる者に精錬証を授与した。さらに1899年、平安神宮に隣接して中心道場としての武徳殿を建立し、以後毎年5月4日に武徳祭を挙行し、引き続き大演武会を催し、8月には全国の青年を集めて青年演武大会を行うのを恒例とした。
 一方、学校教育に武(剣)術を加えることの請願運動は、明治10年代から始められたが、政府・文部省は撃剣や柔術を教材とすることに強い難色を示し、成長期の児童・生徒の体育運動として強度にすぎ、身体の危険が伴いやすいので、正科教材として採用するのは適当でないが、伝統的な運動として行いやすい利点もあるので、一部課外として実施することは黙認するという、消極的な方針が受け継がれてきた。
 しかし、日露戦争後、剣柔を正科教材に採用せよという声が一段と強まり、1908年3月の第24回帝国議会衆議院において、ついに武術の正科採用建議案が全員一致をもって可決された。ついで1910年5月の全国師範学校長会議において、「体操科の一部として、男生徒に剣道柔道の一または二を必修せしむるを可とす」という答申が提出された。ここで文部省もようやく重い腰をあげ、翌11年7月「中学校令施行規則」を一部改正し、「体操ハ教練及体操ヲ授クヘシ又撃剣及柔術ヲ加フルコトヲ得」とした。これは不十分な正科で、実質的には随意科と同じであった。道場・武道具などの施設・用具をはじめ、指導法や教材研究の準備も不十分であり、また専門教員の不足やその資質の向上など、緊急な問題が山積していたためである。1925年(大正14)3月の第50回帝国議会において、中等学校においては、速やかに「必須科トシテ普及セシムルコト」という建議案が可決されたが、文部省当局は依然として随意科の姿勢を崩さず、翌26年の体操教授要目の改正にも、撃剣の名称を「剣道」に改めるにとどまった。[渡邉一郎・中村民雄]
昭和初期から第二次世界大戦終了まで
大正末期から昭和初頭にかけて、大学・高専における剣道が多彩な活動を展開し、1928年(昭和3)11月、明治神宮体育大会を機に、全日本学生剣道連盟が結成され、全日本大学高専剣道優勝大会を開催した。加盟校も、1940年には結成当初の31校から127校に増え、学生剣道中心の時代を現出した。
 やがて時代は満州事変、日中戦争と、しだいに強まっていく戦時体制への移行を背景としながらも、1929年御大礼記念武道大会、34年皇太子殿下御誕生奉祝武道大会、40年皇紀二六〇〇年奉祝昭和天覧試合と、三度に及ぶ華やかな天覧試合を経て、剣道人口は飛躍的に増加した。この間、学校行政の面では、1931年に中学校令施行規則等が改正され、剣道および柔道は「授クヘシ」と必須(ひっす)科目として実施されることになった。
 ついで1936年6月、第二次改正の体操教授要目で、初めて中等学校の「剣道教授要目」が制定され、各学年ごとの教授指針が明確に示された。青年学校においても正課となり、1939年には尋常小学校5年以上および高等小学校の男子に準正課として課すことが認められ、さらに41年国民学校令の公布とともに、体操科は体錬科と改められ、5年以上の高学年男子に剣道・柔道が必修教材として課せられることになった。
 1941年12月、太平洋戦争に突入して、国内体制はすべて戦争遂行目的に合致するよう改正され、大日本武徳会も、武道綜合(そうごう)団体組織要綱に基づき、42年3月21日、厚生・文部・陸軍・海軍・内務5省の管下に置かれ、加盟団体はあげて国防能力の一翼を担うものとされた。[渡邉一郎・中村民雄]
現代の剣道
終戦直後の1945年(昭和20)11月、文部省(現文部科学省)は体錬科武道を全面的に禁止し、剣道が超国家主義および軍国主義の鼓吹に利用され、軍事訓練の一部として重んぜられたとの理由から、剣道を学校体育として実施することをいっさい禁止した。翌1946年8月、一般社会体育の面においても、武道という名称の使用を禁止し、公私の組織する団体で従来の剣道を指導督励することを禁止した。一方、同年7月、連合軍当局は、先に民間団体として再発足をした大日本武徳会に対し、占領方針中の禁止事項に抵触する疑いありとして、独自の調査を開始した。このため武徳会側は、同年10月31日自主的に解散したが、同11月8日内務省は解散を命令し、いっさいの財産を没収した。
 こうしたきわめて困難な状況下にあって、民間の剣道愛好者は、新しい時代に即した剣道のあり方を模索しつつ練習を続け、スポーツとしての性格を備えた「しない競技」を考案し、1950年2月、東京に全日本撓(しない)競技連盟を結成し、同年10月第1回全日本撓競技大会を名古屋で開催、文部省に学校体育の教材として採用するよう要望した。文部省は、このしない競技の指導内容や、競技方法を検討した結果、その体育的価値を認めて、1952年4月から中学校以上に実施するに至った。
 一方、平和条約の発効を機に、剣道の復活の動きがにわかに活発となり、1952年10月全日本剣道連盟が組織され、過去の剣道の弊害を除去し、本格的なスポーツとして、競技規則、審判規程をつくり、民主的な運営を図った。文部省はその新しい剣道について検討した結果、1953年5月、保健体育審議会の答申を得て、まず社会体育としての剣道の実施を認め、ついで同年7月には、高校・大学以上の学校で、新しい格技スポーツとして体育教材に採用することを認めた。柔道に遅れること3年、実に8年ぶりの禁止解除であった。
 さらに1954年3月、全日本撓競技連盟と全日本剣道連盟は合同して、新しく全日本剣道連盟として出発することとなり、翌55年3月日本体育協会へ加盟し、同年秋の第10回国民体育大会から剣道が正式種目に加えられた。ついで1957年5月、文部省は「学校剣道の実施について」を通牒(つうちょう)し、中学・高校で実施しているしない競技と剣道の内容を整理統合して名称も「学校剣道」とし、体育教材として中学校以上に実施することになった。また、1958年10月1日告示の「中学校学習指導要領」によって、剣道は格技(運動領域6部門の一つ)のなかに含まれ、柔道、剣道、すもうの三者択一のもとに実施することが決まり、中学校では62年度、高校では63年度から、体育の必修教材として実施されることとなった。
 その後、格技という名称は、1987年12月の教育課程審議会の答申に基づいて改訂された中学・高校の学習指導要領(1989年3月)において、武道という名称に改称され、「わが国の文化と伝統を尊重する態度の育成を重視する」教材として位置づけられている。
 こうして体育・スポーツとしての剣道は急速に普及し、剣道人口も著しく増加したが、1980年代後半以降は減少傾向にある。高体連剣道部の調査によれば、高校生の剣道人口は84年をピークに年々減少しており、以後も歯止めがかからない状態にある。また、女子とともに剣道人口を支えてきた幼少年剣道人口も少子化とともに減少しており、こちらも歯止めがかからない状態である。
 一方、剣道の海外普及は昭和30年代からしだいに活発となり、着実にその成果をあげている。1965年、台北で第1回国際社会人剣道大会を開催したのをはじめ、67年には日本武道館で国際親善剣道大会を開催し、70年4月には加盟17団体による国際剣道連盟(IKF)が結成され、第1回世界剣道選手権大会が東京で開催された。以来3年ごとに大会を開催し、その後加盟団体も増え、2000年(平成12)3月の第11回サンタクララ大会には、37か国(地域)が参加。2006年の第13回台湾大会には44か国が参加した。また、第9回京都大会(1997)からは女子の個人・団体戦が国際選抜試合として加わった。[渡邉一郎・中村民雄]

試合・審判規則

現行の剣道試合審判規則は、1995年4月1日に公布され、7月1日から施行されたもので、1975年5月に公表された「剣道の理念」「剣道修錬の心構え」の趣旨を、規則として第1条に「剣の理法を全うしつつ、公明正大に試合をし、適正公平に審判することを目的とする」と、位置づけたものである。
 規則の概要を示せば、1辺9メートルないし11メートルの正方形または長方形の試合場で、剣道具(面、小手、胴、垂れ)を着用して竹刀で打突(だとつ)しあうものである。また、服装は剣道着、袴(はかま)を着用する。試合は5分三本勝負を原則とし、試合時間内に二本先取した者を勝ちとする。ただし、一方が一本取り、そのままで試合時間が終了したときは、この者を勝ちとし、試合時間内に勝敗が決しない場合は延長戦を行い、先に一本取った者を勝ちとする。それでも決まらない場合は、判定または抽選により勝敗を決め、あるいは引き分けとすることもできる。団体試合は勝者数法または勝抜き法とし、その大会で定められた方法により行い勝敗を決する。前者の場合、勝者が同数の場合は、総本数の多い方を勝ちとし、総本数が同数の場合は、代表者戦によって勝敗を決する。
 打突部位は、(1)面部(正面および左右面)、(2)小手部(右小手および左小手)、(3)胴部(右胴および左胴)、(4)突部(突き垂れ)。竹刀の打突部は、物打を中心とした刃部(弦の反対側)と定められた。有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心(打突した後も油断なく、相手の反撃に心を配ること)あるものとされた。ただし、有効打突が両者同時にあった場合(相打ち)、もしくは被打突者の剣先が相手の上体前面に付いていて、その気勢、姿勢が充実していると判断された場合は有効打突としない。
 審判員の構成は、審判長、審判主任(2試合場以上の場合)、審判員からなる。試合場における審判員は、主審1名、副審2名を原則とし、有効打突およびその他の判定については同等の権限を有する。
 有効打突の決定は、2名以上の審判員が有効打突の表示をしたとき、もしくは1名が有効打突の表示をし、他の審判員が棄権の表示をしたときに決定される。[渡邉一郎・中村民雄]

段位・称号制度

段位・称号の授与は、全日本剣道連盟(全剣連)が発足した1953年当初は、段位は五段までで、その上に錬士、教士、範士の称号を置くという一本建ての制度であった。ところが、十段制をいち早く採用した柔道に強く影響され、1957年には称号はそのままとし、段位を十段制とする二本建ての制度に改正された。2000年4月1日施行の現行規則においても、二本建ては踏襲されている。段位は「剣道の技術的力量(精神的要素を含む)」、称号は「これに加える指導力や、識見などを備えた剣道人としての完成度」を示すものとして、審査を経て与えられる。
 段位は、初段から八段までとし、受審の資格は、全剣連加盟団体の登録会員で、所定の修業年限を経過し、かつ年齢、学年の条件にかなっていることが必要である。初段より五段までの審査は、実技、形および学科により加盟団体に委任して行い、六、七段の審査は実技、形、学科とし、別に定める審査員7名中5名以上の合意により合格とする。八段の審査は実技、形および学科とし、実技については第一次、第二次審査を行う。第一次実技審査は審査員7名中5名以上、第二次実技審査は審査員10名中7名以上、形および学科審査は審査員3名中2名以上の合意により合格とする。
 称号は、錬士、教士、範士の三階制で、範士は称号、段位を通じた最高位である。受審の資格は、全剣連加盟団体の登録会員で、所定の段位、称号を受有していることが条件で、かつ加盟団体会長の推薦、さらに範士は全剣連会長の認可が必要である。錬士、教士の審査は加盟団体が行う講習を受けた後、錬士は小論文、教士は筆記試験を行い、審査員7名中5名以上の合意により合格とする。範士の審査は書類審査を行い、審査員10名中8名以上の合意で合格とする。[渡邉一郎・中村民雄]

その後の動き

2008年現在、称号及び段位の審査は以下のように変更されている。六段、七段の実技審査は審査員6名中4名以上の合意、型審査3名中2名以上の合意により合格とする。八段の第一次実技審査は6名中4名以上の合意、第二次実技審査は9名中6名以上の合意、型審査は3名中2名以上の合意により合格とする。錬士、教士の審査は6名中4名以上の合意で合格とする。[編集部]
『堀正平著『大日本剣道史』(1934・剣道書刊行会) ▽庄子宗光著『改定新版・剣道百年』(1976・時事通信社) ▽『全日本剣道連盟三十年史』(1982・同連盟) ▽中村民雄著『剣道事典―技術と文化の歴史―』(1994・島津書房) ▽富永堅吾著『剣道五百年史』(1996・島津書房)』

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世界大百科事典内の剣道の言及

【撃剣興行】より

…しかし,その人気も一時的な好奇心や物珍しさからであり,会の乱立で客足も減り,しだいに衰微した。撃剣興行は,当時絶滅に(ひん)していた剣道の命脈を保ち,広く一般庶民に普及啓蒙して後の発展を可能にしたとする一面と,観客にこびて人気をとるため,奇声を発したり動作をはでにしたりして,態度や技術面でその後の剣道に悪影響を残したとする一面と,その評価には功罪両面があるといえる。当時からいろいろな批判もあったが,日本の武道史上特異な存在形態であり,明治後期武道が復活してくるまでの間のあり方として,歴史的な意味をもっている。…

【籠手(小手)】より

…鎌倉・室町時代に著しく発達し,革を用い,金具も装飾金具を用いたり,漆塗り,錆地(さびじ)など,美術工芸品としても価値あるものとなった。(2)剣道の防具で,下膊(かはく)部から手を覆い,打撃の衝撃から保護する。手の部分は,なめし革を用い,親指と四指の二つに分かれ,腕の部分は,木綿布で綿を包んで刺子縫とし,筒状になっている。…

【竹刀】より

…剣道を行うときに用いる竹製の用具で,刀剣を模したもの。〈ちくとう〉ともいう。…

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