日本歴史地名大系 「久下村」の解説 久下村くげむら 埼玉県:熊谷市久下村[現在地名]熊谷市久下、北足立郡吹上(ふきあげ)町原(ばらはら)大里郡忍(おし)領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地東端に位置し、北は元荒川を境に佐谷田(さやだ)村、埼玉郡太井(おおい)村、南は江川(えがわ)村・下久下村および荒川を境に津田(つだ)村(現大里村)。村内を通る中山道沿いに町並が形成されており(分間延絵図)、村内で行田道が分岐する。中世は久下郷に含まれていたとみられる。付近の荒川は古来しばしば乱流を繰返してきたが、寛永六年(一六二九)関東郡代伊奈忠治が久下地先で荒川を締切り、新しい流路を南の和田(わだ)・吉野(よしの)川へ瀬替えし、現在の荒川が定まったといわれる(「風土記稿」など)。そのため旧流路は元荒川となり、佐谷田村八町の雷電(はつちようのらいでん)社の湧泉がその水源となった。 久下村くげむら 埼玉県:加須市久下村[現在地名]加須市本町(ほんちよう)・南町(みなみちよう)・東栄(とうえい)一―二丁目・久下加須村の東にあり、北は会(あい)の川を境とする。羽生(はにゆう)領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)七月水野清六郎(忠保)は、徳川氏から当村で五二八石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿によると田高二二〇石・畑高三三八石余、旗本水野領。以降幕末まで高の変化はなく、国立史料館本元禄郷帳では旗本水野二家の相給で、「風土記稿」、幕末の改革組合取調書ともに同じ二家の相給。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by