久下郷(読み)くげごう

日本歴史地名大系 「久下郷」の解説

久下郷
くげごう

現久下付近に比定され、荒川左岸に位置する。「和名抄」にみえる大里郡郡家ぐうけ郷を継承したとみられ、私市党久下氏の名字の地であった。私市党系図(諸家系図纂)によると、武蔵権守私市家盛の弟為家が久下太郎を称している。久下郷は熊谷郷に隣接しているため境相論が起き、建久三年(一一九二)一一月二五日源頼朝の面前久下直光と熊谷直実の対決が行われたが、直光は直実の伯母の夫で、久下氏は熊谷氏と姻戚関係にあった(「吾妻鏡」同日条)。現栃木県宇都宮市の芳宮山清巌せいがん寺の縁起には、下野宇都宮城主宇都宮頼綱が上洛の途次に「武州久下野か原」で熊谷蓮生(直実)に邂逅したと記される。

久下郷
くげごう

あいの川右岸の自然堤防上に比定される。天正八年(一五八〇)と推定される三月二一日付の足利義氏印判状写(喜連川家文書案)にみえ、義氏は久下郷など五郷から人足を毎年五〇人ずつ二〇日の日数で徴発することと、下総国古河へ四月二日ないしは三日に参集させるよう、栗橋くりはし(現茨城県五霞村)の城主北条氏照に命じている。久下郷は栗橋領に組込まれており、同一五年氏照によって実施された検地では、年貢高九三貫五二〇文のうち給田、代官(金子左京亮)給増給など六六貫五二〇文、栗橋蔵入二七貫文であった。栗橋蔵入分は御領所開分二一貫八八文のほか、給田の検地増分五貫九一二文が含まれていた。これは久下郷内に与えられていた小山衆八人分の給田四八貫文の増分で、国法により蔵入とされた(丁亥一一月二日および天正一五年一一月三日「北条氏照印判状」広瀬文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報