荒川(読み)アラカワ

デジタル大辞泉 「荒川」の意味・読み・例文・類語

あら‐かわ【荒川】[地名]

関東平野を流れる川。秩父ちちぶ山地の甲武信こぶしに源を発し、埼玉県川越市辺りで入間いるまと合流、東京都北区岩淵で荒川放水路隅田川に分かれて東京湾に注ぐ。長さ173キロ。
山形県の朝日岳に源を発し、小国盆地、新潟県北部を流れ、日本海に注ぐ川。長さ73キロ。
東京都の区名。隅田川西岸にあり、水運を利用した工業地帯として発展。人口20.5万(2010)。

あらかわ【荒川】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「荒川」姓の人物
荒川修作あらかわしゅうさく
荒川豊蔵あらかわとよぞう

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精選版 日本国語大辞典 「荒川」の意味・読み・例文・類語

あら‐かわ‥かは【荒川】

  1. [ 一 ] 埼玉県・東京都を貫流する川。関東山地の主峰甲武信ケ岳(こぶしがだけ)を源とし、秩父盆地を通って、長瀞(ながとろ)の峡谷美をつくり、川越付近で入間川を合わせて東京湾に注ぐ。旧下流を隅田川と呼ぶ。全長一六九キロメートル。
  2. [ 二 ] 山形県西部から新潟県北部を流れる川。朝日山地に源を発し、小国盆地を貫流して峡谷美をつくり、日本海に注ぐ。全長八〇キロメートル。
  3. [ 三 ] 東京都二三区の一つ。昭和七年(一九三二)南千住、三河島、尾久(おぐ)、日暮里(にっぽり)が合併して区制。荒川の水運を利用して、明治時代以降工業地帯となる。小塚原刑場跡、回向院(えこういん)などがある。

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日本歴史地名大系 「荒川」の解説

荒川
あらかわ

県西部の甲武信こぶし岳の北東面に端を発し、秩父盆地の諸川を集め、寄居よりい町付近から扇状地上を東流、熊谷市付近からほぼ南南東に県内を縦断し、戸田市・川口市付近で東京都との境を東に流れ、東京都内を通過して東京湾に注ぐ一級河川。幹川の流路延長は一六九キロで全国第一五位の長さをもち、流域面積は二九四〇平方キロ、このうち埼玉県分は二五〇〇平方キロを占める。県内の支流のおもなものは、奥秩父の中津なかつ川のほか秩父盆地内で合せる浦山うらやま川・横瀬よこぜ川・赤平あかびら川があり、大里郡大里村地先で和田吉野わだよしの川、比企郡吉見よしみ町地先で市野いちの川が合流する。その後最大の支流である入間いるま川を川越市・大宮市境で合せ、浦和市でかも川、川口市でしば川が合流する。県域を出ると東京都北区の岩淵いわぶち水門で二流(荒川=旧荒川放水路と隅田川)に分れる(荒川放水路の竣工は昭和五年)

〔名称〕

荒川の名称は、正安三年(一三〇一)に集成された「宴曲抄」の善光寺修行に「たぎりておつる浪の荒河行過て、下にながるゝ見馴川」と歌われているのが早い例である。この道行では鎌倉街道上道で荒川を渡河しているので、現在の寄居町赤浜あかはま付近での名称であったとみられる。他の河川でも同様であるが、名称が上流から下流まで統一されて呼称されるのは後世のことであり、江戸時代初期の改修により現在の河道に定まってからも、中山道の渡河点のある現戸田市付近を戸田川あるいは入間川とよんでいる。したがって江戸時代においても一般には荒川という名称に統一されてはいなかったようである。下流部の江戸では千住せんじゆ川・浅草あさくさ川・隅田すみだ川・大川などとよばれていた。

〔流路の付替え〕

川筋が現在のように定まったのは江戸時代の初めで、中世までは中・下流域で多くの派川を生じ、各所で曲流を伴って流下していたものと思われる。寛永六年(一六二九)関東郡代伊奈忠治により大里郡久下くげ(現熊谷市)地内で荒川の流れが堰止められ、和田・吉野川―入間川筋が幹川となり、現在の流路が確定したというのが通説となっている。それまでは元荒川の名称が残されているように、幹川は足立・埼玉両郡の郡界を流れていたといわれる。そして足立郡五町台ごちようだい(現桶川市)地先では派川として綾瀬川が郡界を流下しているので、古くは綾瀬川筋が幹川で、現在の東京都との境付近で当時の利根川に合していたとみられる。

久下村地内での荒川口締切を荒川の瀬替え、荒川の西遷などとよんでいるが、この瀬替えは同時代の史料では確認できず、詳細は不明である。


荒川
あらかわ

埼玉・山梨・長野三県にまたがる標高二四七五メートルの甲武信こぶし岳を源流に、奥秩父の山々を浸食し、秩父盆地を流れ、多くの支流を合せながら埼玉県寄居よりい町付近で関東平野に流出する。一級河川。荒れ川の異名を欲しいままにした「荒川」は武蔵野台地と大宮台地の間を曲流しながら流れ、東京大都市地域の下町を抜けて、東京湾に注いでいる。幹川流路延長一七三キロ、流域面積二九四〇平方キロ、支流総数七七を有する関東屈指の大河である。昭和四〇年(一九六五)の河川法の改正で、行政取扱上では、北区岩渕いわぶち水門以下の荒川放水路を荒川の本流とし、隅田川と区別している。

〔中世〕

江戸時代以降の河道改修により南関東の諸河川は、それ以前と様相を一変している。荒川についても例外ではなく、江戸時代前期に付替えが行われるまでは、埼玉県熊谷市域より下流では、現在の元荒もとあら川・綾瀬あやせ川の河道が本流であった。また現在、都域を流れる荒川の行政上の本流となっている荒川放水路は、近代以降に開削された河川である。こうした混乱を避けて、以下の記述では中世の文献にみえる荒川を、その呼称を主として事例を追うこととする。鎌倉時代末期に成立した「宴曲抄」の善光寺修行に、鎌倉を発ち鎌倉街道上道を伝って信濃善光寺に向かう途中、奈良梨ならなし(現埼玉県小川町)から児玉こだま(現同県児玉町)に至る道行きで「荒河」が歌込まれている。中世の荒川は、諸勢力の攻防において戦略上重要視されていたことが史料に散見する。永享の乱で滅んだ鎌倉公方足利持氏の奉行人一色伊予守は、永享一二年(一四四〇)三月、持氏の遺児春王丸・安王丸が下総結城ゆうき(現茨城県結城市)で蜂起すると、同年七月四日、荒河を渡河して村岡むらおか河原(現熊谷市)まで軍勢を進めたが、上杉性順・長尾景仲らに敗れた(鎌倉大草紙)。長尾景春討伐のため武相の軍勢を率いた太田道灌は、文明一〇年(一四七八)七月上旬、河越城を発ち井草いぐさ(現埼玉県川島町)青鳥あおとり(現同県東松山市)を経由し同一七日、荒川を越えて鉢形はちがた(現同県寄居町)成田なりた(現熊谷市)の間に陣を布き鉢形城を陥落させた(「太田道灌書状写」松平文庫所蔵文書)


荒川
あらかわ

秩父ちちぶ山地の主峰金峰きんぷ(二五九九メートル)朝日あさひ(二五七九メートル)から東方に続く国師こくしヶ岳(二五九一・二メートル)を源流部とする。源流部に御堂みどう川・御堂みどうミコノ沢・さくら沢などの支沢を集めて南西に流下し、甲府市黒平くろべら町上黒平で精進しようじ川を合せてから野猿やえん谷とよぶ深い峡谷を南へ流れ、中津森なかつもり山南麓で板敷いたじき川と合流し、能泉のうせん湖に入る。同湖と荒川ダムの下流にある東京電力御岳みたけ発電所付近で御岳川を合せて南西流し、猪狩いかり町の下流部で落差約二五メートルの仙娥せんが滝となって落下。滝から下流が御岳昇仙みたけしようせん峡の渓谷で、天神森の長潭てんじんもりのながとろ橋に至る約四・一キロが景勝地。御岳昇仙峡以北源流部までの流域は秩父多摩ちちぶたま国立公園となっている。竹日向たけひなた町付近からは甲府市と敷島しきしま町との境を小さく蛇行しながら流れる。長潭橋から下流のさくら橋、荒川取水口の甲府市水道局平瀬ひらせ浄水場を経て敷島町牛句うしくにある山梨県魚苗センターの上流で亀沢かめざわ川と合流する。金石かないし橋付近より流れを南東に変え、かた山の西麓を回った所で甲府盆地に向かって流出。山岳地帯を出た流れは牛句を扇頂とする荒川扇状地となって南方に広がり、敷島町から甲府市西部地域を占める。千松せんまつ橋付近からは甲府市街西部を南東へ流下し、国道五二号の荒川橋上流部で北東からあい川、下流部で北西から川が入り三川合流点となる。飯豊いいとよ橋と千秋せんしゆう橋の間で屈曲して南に流れ、市南端の大津おおつ町で笛吹川に合流する。流路延長三四キロ、流域面積一八二・三平方キロ、一級河川。


荒川
あらかわ

朝日あさひ山地の大朝日おおあさひ(山形県西村山郡朝日町)西方に発して南流し、山形県西置賜にしおきたま小国おぐに町西方でよこ川・たま川を合せて向きを西に変え、岩船郡南方を流れて塩谷しおや浜で日本海に注ぐ。一級河川。幹川流路延長七二・五キロ、全流域面積一一五一・四平方キロ。県内では大石おおいし川・鍬江沢くわえざわ川・おんな川など、河口近くでほり川・乙大日きのとだいにち(旧胎内川)などの河川が合流する。

文永七年(一二七〇)八月二五日色部行忍(公長)小泉こいずみ牛屋うしや(現神林村)を東西に二分して、子の長茂と氏長に譲った際の境は「荒河流」であった(同譲状案写「古案記録草案」所収文書)。弘安一〇年(一二八七)荒河あらかわ保地頭河村道阿から子の余一に「荒河保引網壱(網)」が譲られており(同年一二月一一日「関東御教書」河村氏文書)、鎌倉末から南北朝期の譲状にも「海引網壱細、河瀬伍箇所」(元亨元年八月七日「関東下知状案」同文書)、「かわのせ一所うなきのせ(同三年八月七日「河村秀久譲状案」同文書)がみえることから、荒河保内の荒川の漁業が重要な権益をもたらすものであったことをうかがわせる。


荒川
あらかわ

塩谷町北部山中から流出する東荒川・西荒川の二川が同町下寺島の落合しもてらしまのおちあいで合流、これより下流が荒川と称される。東荒川は高原山中くろ沢・尚仁沢しようじんざわ川を集め、猿伝さるつたえの渓谷を通ってほぼ南流して西荒川と合流。西荒川は高原山麓立室入たつむろいりから発して大滝となり、西荒川ダムによって東古屋湖となり、下って東荒川と合流する。玉生たまにゆう平地の扇状地をつくり、同町大久保おおくぼ地内では鬼怒川と並行する。


荒川
あらかわ

八甲田はつこうだ山系くしヶ峯直下に源を発し、田茂萢たもやち沢・大柳辺おおやなべ沢・合子沢ごうしざわ川・横内よこうち川などを合して北流し、松森まつもり福田ふくだの西で駒込こまごめ川と合流してつつみ川となる。長さ三四・三キロ。

「新撰陸奥国誌」によれば、野沢のざわ村の東を流れ「幅十間、水平常深約一尺五寸、左右あり」、高田たかだ村の東、荒川村の南を流れ、「幅十間」、浜田はまだ村の東では「幅十二間、水深約四尺」とある。

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百科事典マイペディア 「荒川」の意味・わかりやすい解説

荒川【あらかわ】

関東山地甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)に発し,関東平野を南東流して東京湾に注ぐ川。長さ173km,流域面積2940km2。三峰口(みつみねぐち)付近まで峡谷をなし,秩父盆地,長瀞(ながとろ)を経て寄居町から平野へ出る。たびたび洪水を起こし,流路変更などの改修工事が行われたが,荒川放水路完成後大洪水はなくなった。分流は隅田川と呼ばれる。
→関連項目上尾[市]朝霞[市]伊奈忠次岡部[町]川口[市]川越[市]川島[町]行田[市]熊谷[市]雲取山江南[町]鴻巣[市]埼玉[県]桜[区]田島ヶ原秩父盆地戸田[市]長瀞[町]西[区]日光御成道花園[町]吹上[町]富士見[市]皆野[町]横瀬[町]和光[市]蕨[市]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「荒川」の意味・わかりやすい解説

荒川(区)
あらかわ

東京都北東部にある区。1932年(昭和7)北豊島(きたとしま)郡の南千住(みなみせんじゅ)、三河島(みかわしま)、尾久(おぐ)、日暮里(にっぽり)の4町が合併して成立。地名由来の荒川は、放水路が正式に荒川本流となり、旧荒川下流の隅田(すみだ)川が足立(あだち)区との境を流れる。南西端の日暮里の一部の山手(やまのて)台地を除けば、大部分が荒川のつくった沖積低地である。区の南部にJR常磐(じょうばん)線・山手線が、中央に京成電鉄本線と、東京地下鉄千代田線が通り、明治通りがほぼ東西方向に横断する。そのほか東京地下鉄日比谷(ひびや)線や都電荒川線、つくばエクスプレス、新交通システム日暮里・舎人ライナー(にっぽりとねりらいなー)、国道4号も通じる。

 江戸時代、市民の行楽地であった日暮里を除いては、小塚原(こづかっぱら)の刑場で知られるように、寂しい農村地帯であった。明治になり、近代工業の導入に伴い、荒川の水運と安い土地を条件に工業地区として発展を遂げるようになった。1879年(明治12)官営千住製絨所(せいじゅうしょ)(現在は荒川総合スポーツセンター)、1888年王子製紙、1893年東京瓦斯(ガス)、ついで毛織、紡績などの諸工場が操業した。その後、食品、家具、ゴム、金属などの中小零細工業や卸売業が集中するようになり、住宅、商業、工業の混在する地域となった。しかし1970年ごろから技術革新や環境問題などによる産業構造の変化で工場数が減少、商圏の広域化などにより小売店も減少し、それに伴い1980年ごろから人口が減っていたが、1998年(平成10)以降は回復傾向にある。日暮里には青雲寺(せいうんじ)(花見寺)、本行寺(ほんぎょうじ)(月見寺)、浄光寺(じょうこうじ)(雪見寺)など江戸時代の行楽地が残る。小塚原の霊を慰めた回向院(えこういん)には観臓(かんぞう)記念碑があり、円通寺にはもと上野寛永寺にあった上野黒門が残る。隅田川沿いには、1922年(大正11)開設のあらかわ遊園(23区内唯一の区立遊園地)がある。面積10.16平方キロメートル、人口21万7475(2020)。

[沢田 清]

『『新修荒川区史』上下(1955・荒川区役所)』『『荒川区史』(1989・荒川区)』



荒川(川、埼玉県、東京都)
あらかわ

埼玉県を貫流して東京湾に注ぐ川。一級河川。関東山地、奥秩父(おくちちぶ)主峰甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)(2475メートル)に源を発し、奥秩父全域の水を集めて、秩父盆地、長瀞(ながとろ)を経て、寄居(よりい)町で関東平野に出る。熊谷(くまがや)市久下(くげ)で流路を南東に変え、さいたま、川越(かわごえ)両市の間で入間川(いるまがわ)をあわせ、戸田(とだ)市付近で東に転じて埼玉県と東京都との境をなす。東京都北区の岩淵(いわぶち)水門で支流の隅田川(すみだがわ)と本流の荒川に分かれて東京湾に注ぐ。延長173キロメートル、流域面積2940平方キロメートルの関東第二の大河川である。

 江戸時代以前は、熊谷付近から、さらに東へ向かい、現在の元荒川(もとあらかわ)筋を流れて利根(とね)川に合流していた。また一部は綾瀬(あやせ)川筋にも流れていた。1629年(寛永6)当時の関東郡代伊奈(いな)半十郎忠治が、現在の熊谷市久下で元荒川を締め切り、当時の和田吉野川筋に流入して入間川に合流させ、現在の流路をほぼつくりあげた。その後、荒川の水運は江戸川と同様に隆盛を極め、とくに支流の新河岸川(しんがしがわ)は、川越と江戸を結ぶ重要な水路であった。1910年(明治43)の大洪水を契機に、岩淵水門で本流を荒川放水路として分流、曲流をなくして直線流にして、排水を速め、市ノ川(市野川)や、入間川の合流点を下流へ移して、滑らかな合流を図るなど大改修がなされた。第二次世界大戦後は、二瀬(ふたせ)ダム、玉淀(たまよど)ダムなどを中心とした荒川総合開発事業が進められて、産業や生活用水など貴重な水資源として活用されている。

[菊池万雄]


荒川(埼玉県、旧村名)
あらかわ

埼玉県西部、秩父郡(ちちぶぐん)にあった旧村名(荒川村(むら))。2005年(平成17)4月秩父市に合併、現在は秩父市の中央部を占める。旧村名は荒川が流れることによる。同川は旧村域の北部を流れ、河岸段丘が発達するが、中・南部は山地が広がる。荒川沿いには南岸に秩父鉄道が通り、終点三峰口(みつみねぐち)駅がある。北岸を国道140号が走る。養蚕が盛んであったが、昭和40年代から衰退し、その後はソバ、野菜の栽培が行われ、ブドウ、クリなどの観光農園が多い。観光地に日野、柴原(しばはら)、白久(しろく)の各温泉のほか、浦山渓谷、浦山口キャンプ場などがあり、白久の串人形(くしにんぎょう)は県の無形民俗文化財。清雲寺のしだれ桜は樹齢600年といわれ、県の天然記念物。東部には浦山ダムがあり、浦山ダム防災資料館も設置されている。

[中山正民]

『『荒川村誌』全5巻(1977~1998・荒川村)』


荒川(川、山形県、新潟県)
あらかわ

山形県、新潟県を流れる川。一級河川。源を山形県の朝日岳に発し、小国盆地(おぐにぼんち)(山形県)、関川盆地(せきかわぼんち)(新潟県)の水を集めて、塩谷浜(しおやはま)(新潟県村上市(むらかみし)塩谷)で日本海に注ぐ。延長73キロメートル、流域面積1150平方キロメートル。山形・新潟県境山地付近には玉川(たまがわ)、大石川、女(おんな)川などの支流が多く、局地豪雨による氾濫(はんらん)が頻発し、1967年(昭和42)の大水害では、沿岸盆地、平野部に大被害を与えた。一方、盆地や平野部の灌漑(かんがい)用水源としての働きも大きく、神納(かんのう)平野では2000ヘクタールの水田を潤し荒川米の銘柄産地をなす。また、県境の古生層山地をうがつ小国―下関(しもせき)間の峡谷は荒川峡とよばれ、ダム、発電所、温泉群が並ぶ。国道113号の沿線は、春の新緑、秋の紅葉期に多くの観光客でにぎわう。

[山崎久雄]


荒川(新潟県、旧町名)
あらかわ

新潟県北部、岩船郡(いわふねぐん)にあった旧町名(荒川町(まち))。現在は村上市(むらかみし)の南部を占める一地域。1954年(昭和29)保内(ほない)、金屋(かなや)の両村が合併して町制施行。2008年(平成20)村上市に合併。国道7号と山形県小国(おぐに)盆地に通ずる国道113号(旧、小国街道)の分岐点。また坂町駅はJR羽越本線から分かれる米坂線(よねさかせん)の起点駅で、機関庫があり、乗換駅としてにぎわう。旧町域の北端を荒川が流れ、荒川用水堰(ぜき)の取入れ口で、河川は砂利、生コン材料の産地。付近は荒川米、チューリップの産地でもある。

[山崎久雄]

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改訂新版 世界大百科事典 「荒川」の意味・わかりやすい解説

荒川 (あらかわ)

埼玉県西部の甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)(2475m)に源を発し,東京湾に注ぐ大河川。幹川流路延長約169km,全流域面積2940km2。荒川は上流で中津川を合わせた後,数段の河岸段丘が発達する秩父盆地に入り,皆野町で赤平川を合流する。皆野より寄居までは結晶片岩に掘り込まれた狭い谷底を流れ,長瀞の景勝地をつくる。寄居から熊谷までが荒川の中流で,そこに寄居町を扇頂とする荒川扇状地を展開し,扇状地上には幾条もの古い流路跡が見いだされる。熊谷市久下(くげ)のしめ切りから下流の元荒川は1629年(寛永6)徳川幕府の手で南方へ流路が変更されるまでの本流であった。荒川は熊谷市の東端から下流となり,広いはんらん平原に大小の自然堤防を伴いながら,南東に方向をとる。川越市の東端で,荒川最大の支流入間川を合流するとともに,低湿な三角州平野に著しい蛇行流路をしるし,東京湾に注ぐ。

 文字どおりの〈荒れ川〉で,洪水は主として台風性降雨による場合が多く,利根川の洪水とともに埼玉・東京の低地帯に壊滅的な打撃を与えてきた。近世の水害で特に著名なものは寛保2年江戸洪水(1742)で,死者3900余人と伝えられている。秩父郡長瀞町野上下郷には,荒川本流の水位が60尺(約18m)上昇したことを物語る史跡〈寛保洪水位磨崖標〉が残っている。1910年の大洪水後,荒川下流部では大改修が行われた。曲流の直線化,26ヵ所の横堤,荒川放水路の開削などである。24年荒川放水路の通水後はこれが本流となり,本流の最下流にあたっていた隅田川は一分流にかわった。上流山地には61年完成の二瀬ダム(秩父湖)や85年完成の有間ダムなどの多目的ダムが造られて,洪水調節に成功した。そのほか,工事中のダムには,上流部に滝沢ダム,浦山ダム,合角ダムがある。荒川の水は大里用水などの農業用水としてばかりでなく,工業・都市用水としても重要である。利根川の水の一部は,武蔵水路を通じて荒川へ導かれている。荒川下流部の河川敷(高水敷)利用は,多摩川とともにきわめて盛んで,田畑のほかゴルフ場,各種運動場,レクリエーション施設などとしても役立っている。そのために建設省の手で積極的に河川環境整備が進められている。東京都に属する下流部は,1950年代半ば以降,地盤沈下が著しかったが,76年以降は年間5cm以上沈下する地域が見られなくなった。
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荒川 (あらかわ)

新潟県北西部の川。山形県南西部の朝日山地大朝日岳に発し,小国盆地を経て新潟県境付近で飯豊山地からの玉川を合わせて西流し,県境で荒川峡谷をつくり,関川盆地で大石川,鍬江沢川,女川を合わせ村上市と胎内市の境で日本海に注ぐ。幹川流路延長72.5km,全流域面積1151.4km2。この谷は米沢街道(国道113号線)として利用され,1936年国鉄(現在JR)米坂線が全通した。67年の羽越水害で流域は大災害を受けたが,復旧工事で堤防,道路,水田は整備され,大石川に治水・発電の多目的ダムが建設された。関川盆地における北岸の鷹ノ巣高瀬湯沢の各温泉,南岸の雲母(きら)温泉は荒川温泉郷を形成する。谷口にあたる村上市の旧荒川町花立には荒川用水頭首工があり,荒川米生産の用水を確保し,近くに荒川漁協のサケ孵化(ふか)場がある。
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荒川 (あらかわ)

新潟県南西部の川。焼山に源を発し北流して上越市の直江津で日本海に注ぐ高田平野最大の川。幹川流路延長60.7km,全流域面積1143.4km2。おもな支流は東岸に野尻湖から流出する池尻川,飯田川,保倉川,西岸に矢代川,青田川がある。上江,中江,下江,稲荷中江はこの川から取水し高田平野の穀倉地域形成の中核をなす。この谷を国道18号線,信越本線が通じる。高田市街地の稲田橋より上流を関川といい,上流の笹ヶ峰ダムは灌漑の安定に役だっている。また稲田橋下流東岸から取水し工業用水として直江津臨海工業地域に給水する。水系にある鳥坂(とさか)はじめ12の水力発電所は最大出力7万6512kW,頸南の工場および直江津臨海工業地域に給電される。重要港湾の直江津港は荒川河口東岸の砂丘地に掘込み式に建設された。
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荒川(新潟,旧町) (あらかわ)


荒川(埼玉,旧村) (あらかわ)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荒川」の意味・わかりやすい解説

荒川
あらかわ

埼玉県南西部,秩父盆地の南西端にある秩父市中部の旧村域。 1943年中川村,白川村の2村が合体し荒川村が成立。 2005年秩父市,吉田町,大滝村と合体して秩父市となった。大部分は秩父山地で,かつては林業,養蚕が盛んであったが,主産業は観光に移行している。北部を東流する荒川流域に平坦地がある。若御子断層洞,サクラで有名な清雲寺,日野温泉,柴原温泉,白久温泉といった温泉地やキャンプ場がある。三峰口は秩父鉄道の終点で,奥秩父への玄関口となっている。東部は武甲県立自然公園に属する。

荒川
あらかわ

新潟県,山形県境の大朝日岳(→朝日岳)に発し,山形県の小国盆地,新潟県関川村の小盆地を経て西流し,胎内市で日本海に注ぐ川。全長 73km。1967年の羽越水害で流域は大災害を受けたが,復旧事業も完了し整備された。流域には,荒川峡と,鷹ノ巣温泉湯沢温泉高瀬温泉雲母温泉(きらおんせん)などからなる荒川峡温泉郷(えちごせきかわ温泉郷),往時の豪農の典型的民家で国指定重要文化財の渡辺家住宅がある。流域の一部は磐梯朝日国立公園に属する。なお新潟県南西部の高田平野を北流する旧称荒川は,1969年に関川と改称した。

荒川
あらかわ

新潟県北部,村上市南西部の旧町域。荒川河口左岸に位置する。1954年保内村と金屋村が合体して町制。2008年村上市,山北町,神林村,朝日村の 4市町村と合体して村上市となった。大部分は中世前期からの古い開発地で,荒河保と呼ばれた。荒川の沖積地を利用した米作が中心で,早場米の産地。畜産も盛ん。付近の砂丘ではクロッカス,チューリップなどの球根や花卉が栽培される。中心集落の坂町は,1936年米坂線が開通してから,羽越本線との分岐点として交通上の要地となり急速に発展した。

荒川
あらかわ

秩父山地,甲武信ヶ岳 (2475m) に源を発し,埼玉県を貫流して東京湾に注ぐ川。全長 173km。南千住の鐘ケ淵から下流を隅田川という。水源地帯から秩父盆地までは山間部に渓谷をつくり,寄居から関東平野を流れる。江戸時代初期までは熊谷付近から元荒川筋を流れ,利根川に合流。寛永6 (1629) 年伊奈半十郎忠治が入間川に合流させ,以後はほぼ現在の流路。その後もたびたび洪水があり,1930年に荒川放水路を完成。戸田市から下流では工場が立並び,水質汚濁が問題となった。上流では水力発電が行われ,上流に二瀬ダム (秩父湖) ,中流に玉淀ダム (玉淀湖) があり,水量を調節している。

荒川
あらかわ

山梨県北部を流れる笛吹川の支流。全長 37km。秩父山地の国師ヶ岳,金峰 (きんぷ) 山に源を発して南流。甲府盆地に出て中央部を縦断し,笛吹川に合流する。上・中流部は断層に沿い,花崗岩の巨岩や渓谷などが多い。野猿谷,板敷渓谷,御岳昇仙峡 (みたけしょうせんきょう) などは特に景勝の地で,秩父多摩甲斐国立公園の一部。甲府市の上水道源,周辺農村の灌漑用水として利用される。

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日本の企業がわかる事典2014-2015 「荒川」の解説

荒川

正式社名「荒川株式会社」。英文社名「ARAKAWA CO., LTD.」。卸売業。明治19年(1886)「荒川益次郎商店」創業。昭和6年(1931)株式会社化。同19年(1944)現在の社名に変更。本社は京都市下京区室町通綾小路角。衣料品製造・卸会社。和装品・洋装品の企画・販売を行う。主な自社ブランドは「さんび」「Amour」。全国百貨店・専門店で販売。

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事典・日本の観光資源 「荒川」の解説

荒川

(山梨県甲府市)
ふるさとの水辺百選」指定の観光名所。

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デジタル大辞泉プラス 「荒川」の解説

荒川

山形県西部から新潟県北部を流れる川。環境省が2008年に選定した「平成の名水百選」のひとつ。

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世界大百科事典(旧版)内の荒川の言及

【川口[市]】より

…人口44万8854(1995)。荒川をはさんで東京都に接する。荒川北岸の沖積低地と大宮台地南東部の安行(あんぎよう)台地にまたがる。…

【隅田川】より

荒川下流の分流。東京都北区志茂の岩淵水門から下流を指し,下町低地を緩流して東京湾に注ぐ。…

【武蔵国】より

…6~7世紀になると,武蔵もヤマト王権の支配下に置かれるようになり,広大な地域が前記の3国に分割された。无邪志国は北部の荒川流域とみられ,その中心は埼玉古墳,およびその周辺の大古墳をつくった武蔵国造に求められる。この一族はのちに出雲国造の同族となるが,この同族に胸刺国造がいた。…

【元荒川】より

…合流点までの流路延長は約60km,流域面積は216km2。江戸時代初期まで荒川の本流であった。1629年(寛永6)関東郡代伊奈忠治は荒川を久下でせき止め,それまで入間(いるま)川の支流であった和田吉野川につないで荒川の河道を入間川に移し,これを荒川本流とした。…

※「荒川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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