埼玉・山梨・長野の3県境を山頂とする甲武信ケ岳を源流に、埼玉県、東京都を流れ東京湾に注ぐ全長173キロの1級河川。東京都北区の岩淵水門から河口までの22キロは、昭和初期までの大規模工事で人工的に開削された。もともとは現在の隅田川の場所を流れていたが、氾濫を繰り返したため、「荒川放水路」として整備。この放水路が現在は荒川と呼ばれる。
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県西部の
荒川の名称は、正安三年(一三〇一)に集成された「宴曲抄」の善光寺修行に「たぎりておつる浪の荒河行過て、下にながるゝ見馴川」と歌われているのが早い例である。この道行では鎌倉街道上道で荒川を渡河しているので、現在の寄居町
川筋が現在のように定まったのは江戸時代の初めで、中世までは中・下流域で多くの派川を生じ、各所で曲流を伴って流下していたものと思われる。寛永六年(一六二九)関東郡代伊奈忠治により大里郡
久下村地内での荒川口締切を荒川の瀬替え、荒川の西遷などとよんでいるが、この瀬替えは同時代の史料では確認できず、詳細は不明である。
埼玉・山梨・長野三県にまたがる標高二四七五メートルの
江戸時代以降の河道改修により南関東の諸河川は、それ以前と様相を一変している。荒川についても例外ではなく、江戸時代前期に付替えが行われるまでは、埼玉県熊谷市域より下流では、現在の
文永七年(一二七〇)八月二五日色部行忍(公長)が
塩谷町北部山中から流出する東荒川・西荒川の二川が同町
「新撰陸奥国誌」によれば、
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東京都北東部にある区。1932年(昭和7)北豊島(きたとしま)郡の南千住(みなみせんじゅ)、三河島(みかわしま)、尾久(おぐ)、日暮里(にっぽり)の4町が合併して成立。地名由来の荒川は、放水路が正式に荒川本流となり、旧荒川下流の隅田(すみだ)川が足立(あだち)区との境を流れる。南西端の日暮里の一部の山手(やまのて)台地を除けば、大部分が荒川のつくった沖積低地である。区の南部にJR常磐(じょうばん)線・山手線が、中央に京成電鉄本線と、東京地下鉄千代田線が通り、明治通りがほぼ東西方向に横断する。そのほか東京地下鉄日比谷(ひびや)線や都電荒川線、つくばエクスプレス、新交通システム日暮里・舎人ライナー(にっぽりとねりらいなー)、国道4号も通じる。
江戸時代、市民の行楽地であった日暮里を除いては、小塚原(こづかっぱら)の刑場で知られるように、寂しい農村地帯であった。明治になり、近代工業の導入に伴い、荒川の水運と安い土地を条件に工業地区として発展を遂げるようになった。1879年(明治12)官営千住製絨所(せいじゅうしょ)(現在は荒川総合スポーツセンター)、1888年王子製紙、1893年東京瓦斯(ガス)、ついで毛織、紡績などの諸工場が操業した。その後、食品、家具、ゴム、金属などの中小零細工業や卸売業が集中するようになり、住宅、商業、工業の混在する地域となった。しかし1970年ごろから技術革新や環境問題などによる産業構造の変化で工場数が減少、商圏の広域化などにより小売店も減少し、それに伴い1980年ごろから人口が減っていたが、1998年(平成10)以降は回復傾向にある。日暮里には青雲寺(せいうんじ)(花見寺)、本行寺(ほんぎょうじ)(月見寺)、浄光寺(じょうこうじ)(雪見寺)など江戸時代の行楽地が残る。小塚原の霊を慰めた回向院(えこういん)には観臓(かんぞう)記念碑があり、円通寺にはもと上野寛永寺にあった上野黒門が残る。隅田川沿いには、1922年(大正11)開設のあらかわ遊園(23区内唯一の区立遊園地)がある。面積10.16平方キロメートル、人口21万7475(2020)。
[沢田 清]
『『新修荒川区史』上下(1955・荒川区役所)』▽『『荒川区史』(1989・荒川区)』
埼玉県を貫流して東京湾に注ぐ川。一級河川。関東山地、奥秩父(おくちちぶ)主峰甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)(2475メートル)に源を発し、奥秩父全域の水を集めて、秩父盆地、長瀞(ながとろ)を経て、寄居(よりい)町で関東平野に出る。熊谷(くまがや)市久下(くげ)で流路を南東に変え、さいたま、川越(かわごえ)両市の間で入間川(いるまがわ)をあわせ、戸田(とだ)市付近で東に転じて埼玉県と東京都との境をなす。東京都北区の岩淵(いわぶち)水門で支流の隅田川(すみだがわ)と本流の荒川に分かれて東京湾に注ぐ。延長173キロメートル、流域面積2940平方キロメートルの関東第二の大河川である。
江戸時代以前は、熊谷付近から、さらに東へ向かい、現在の元荒川(もとあらかわ)筋を流れて利根(とね)川に合流していた。また一部は綾瀬(あやせ)川筋にも流れていた。1629年(寛永6)当時の関東郡代伊奈(いな)半十郎忠治が、現在の熊谷市久下で元荒川を締め切り、当時の和田吉野川筋に流入して入間川に合流させ、現在の流路をほぼつくりあげた。その後、荒川の水運は江戸川と同様に隆盛を極め、とくに支流の新河岸川(しんがしがわ)は、川越と江戸を結ぶ重要な水路であった。1910年(明治43)の大洪水を契機に、岩淵水門で本流を荒川放水路として分流、曲流をなくして直線流にして、排水を速め、市ノ川(市野川)や、入間川の合流点を下流へ移して、滑らかな合流を図るなど大改修がなされた。第二次世界大戦後は、二瀬(ふたせ)ダム、玉淀(たまよど)ダムなどを中心とした荒川総合開発事業が進められて、産業や生活用水など貴重な水資源として活用されている。
[菊池万雄]
埼玉県西部、秩父郡(ちちぶぐん)にあった旧村名(荒川村(むら))。2005年(平成17)4月秩父市に合併、現在は秩父市の中央部を占める。旧村名は荒川が流れることによる。同川は旧村域の北部を流れ、河岸段丘が発達するが、中・南部は山地が広がる。荒川沿いには南岸に秩父鉄道が通り、終点三峰口(みつみねぐち)駅がある。北岸を国道140号が走る。養蚕が盛んであったが、昭和40年代から衰退し、その後はソバ、野菜の栽培が行われ、ブドウ、クリなどの観光農園が多い。観光地に日野、柴原(しばはら)、白久(しろく)の各温泉のほか、浦山渓谷、浦山口キャンプ場などがあり、白久の串人形(くしにんぎょう)は県の無形民俗文化財。清雲寺のしだれ桜は樹齢600年といわれ、県の天然記念物。東部には浦山ダムがあり、浦山ダム防災資料館も設置されている。
[中山正民]
『『荒川村誌』全5巻(1977~1998・荒川村)』
山形県、新潟県を流れる川。一級河川。源を山形県の朝日岳に発し、小国盆地(おぐにぼんち)(山形県)、関川盆地(せきかわぼんち)(新潟県)の水を集めて、塩谷浜(しおやはま)(新潟県村上市(むらかみし)塩谷)で日本海に注ぐ。延長73キロメートル、流域面積1150平方キロメートル。山形・新潟県境山地付近には玉川(たまがわ)、大石川、女(おんな)川などの支流が多く、局地豪雨による氾濫(はんらん)が頻発し、1967年(昭和42)の大水害では、沿岸盆地、平野部に大被害を与えた。一方、盆地や平野部の灌漑(かんがい)用水源としての働きも大きく、神納(かんのう)平野では2000ヘクタールの水田を潤し荒川米の銘柄産地をなす。また、県境の古生層山地をうがつ小国―下関(しもせき)間の峡谷は荒川峡とよばれ、ダム、発電所、温泉群が並ぶ。国道113号の沿線は、春の新緑、秋の紅葉期に多くの観光客でにぎわう。
[山崎久雄]
新潟県北部、岩船郡(いわふねぐん)にあった旧町名(荒川町(まち))。現在は村上市(むらかみし)の南部を占める一地域。1954年(昭和29)保内(ほない)、金屋(かなや)の両村が合併して町制施行。2008年(平成20)村上市に合併。国道7号と山形県小国(おぐに)盆地に通ずる国道113号(旧、小国街道)の分岐点。また坂町駅はJR羽越本線から分かれる米坂線(よねさかせん)の起点駅で、機関庫があり、乗換駅としてにぎわう。旧町域の北端を荒川が流れ、荒川用水堰(ぜき)の取入れ口で、河川は砂利、生コン材料の産地。付近は荒川米、チューリップの産地でもある。
[山崎久雄]
埼玉県西部の甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)(2475m)に源を発し,東京湾に注ぐ大河川。幹川流路延長約169km,全流域面積2940km2。荒川は上流で中津川を合わせた後,数段の河岸段丘が発達する秩父盆地に入り,皆野町で赤平川を合流する。皆野より寄居までは結晶片岩に掘り込まれた狭い谷底を流れ,長瀞の景勝地をつくる。寄居から熊谷までが荒川の中流で,そこに寄居町を扇頂とする荒川扇状地を展開し,扇状地上には幾条もの古い流路跡が見いだされる。熊谷市久下(くげ)のしめ切りから下流の元荒川は1629年(寛永6)徳川幕府の手で南方へ流路が変更されるまでの本流であった。荒川は熊谷市の東端から下流となり,広いはんらん平原に大小の自然堤防を伴いながら,南東に方向をとる。川越市の東端で,荒川最大の支流入間川を合流するとともに,低湿な三角州平野に著しい蛇行流路をしるし,東京湾に注ぐ。
文字どおりの〈荒れ川〉で,洪水は主として台風性降雨による場合が多く,利根川の洪水とともに埼玉・東京の低地帯に壊滅的な打撃を与えてきた。近世の水害で特に著名なものは寛保2年江戸洪水(1742)で,死者3900余人と伝えられている。秩父郡長瀞町野上下郷には,荒川本流の水位が60尺(約18m)上昇したことを物語る史跡〈寛保洪水位磨崖標〉が残っている。1910年の大洪水後,荒川下流部では大改修が行われた。曲流の直線化,26ヵ所の横堤,荒川放水路の開削などである。24年荒川放水路の通水後はこれが本流となり,本流の最下流にあたっていた隅田川は一分流にかわった。上流山地には61年完成の二瀬ダム(秩父湖)や85年完成の有間ダムなどの多目的ダムが造られて,洪水調節に成功した。そのほか,工事中のダムには,上流部に滝沢ダム,浦山ダム,合角ダムがある。荒川の水は大里用水などの農業用水としてばかりでなく,工業・都市用水としても重要である。利根川の水の一部は,武蔵水路を通じて荒川へ導かれている。荒川下流部の河川敷(高水敷)利用は,多摩川とともにきわめて盛んで,田畑のほかゴルフ場,各種運動場,レクリエーション施設などとしても役立っている。そのために建設省の手で積極的に河川環境整備が進められている。東京都に属する下流部は,1950年代半ば以降,地盤沈下が著しかったが,76年以降は年間5cm以上沈下する地域が見られなくなった。
執筆者:籠瀬 良明
新潟県北西部の川。山形県南西部の朝日山地大朝日岳に発し,小国盆地を経て新潟県境付近で飯豊山地からの玉川を合わせて西流し,県境で荒川峡谷をつくり,関川盆地で大石川,鍬江沢川,女川を合わせ村上市と胎内市の境で日本海に注ぐ。幹川流路延長72.5km,全流域面積1151.4km2。この谷は米沢街道(国道113号線)として利用され,1936年国鉄(現在JR)米坂線が全通した。67年の羽越水害で流域は大災害を受けたが,復旧工事で堤防,道路,水田は整備され,大石川に治水・発電の多目的ダムが建設された。関川盆地における北岸の鷹ノ巣,高瀬,湯沢の各温泉,南岸の雲母(きら)温泉は荒川温泉郷を形成する。谷口にあたる村上市の旧荒川町花立には荒川用水頭首工があり,荒川米生産の用水を確保し,近くに荒川漁協のサケ孵化(ふか)場がある。
執筆者:磯部 利貞
新潟県南西部の川。焼山に源を発し北流して上越市の直江津で日本海に注ぐ高田平野最大の川。幹川流路延長60.7km,全流域面積1143.4km2。おもな支流は東岸に野尻湖から流出する池尻川,飯田川,保倉川,西岸に矢代川,青田川がある。上江,中江,下江,稲荷中江はこの川から取水し高田平野の穀倉地域形成の中核をなす。この谷を国道18号線,信越本線が通じる。高田市街地の稲田橋より上流を関川といい,上流の笹ヶ峰ダムは灌漑の安定に役だっている。また稲田橋下流東岸から取水し工業用水として直江津臨海工業地域に給水する。水系にある鳥坂(とさか)はじめ12の水力発電所は最大出力7万6512kW,頸南の工場および直江津臨海工業地域に給電される。重要港湾の直江津港は荒川河口東岸の砂丘地に掘込み式に建設された。
執筆者:磯部 利貞
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…南端にある五島列島最古の寺といわれる大宝寺のほか,遣唐使やキリシタンにまつわる史跡も多い。玉之浦湾北東岸の荒川温泉(食塩泉,70~80℃)は五島列島唯一の温泉地である。【赤池 享一】。…
…人口44万8854(1995)。荒川をはさんで東京都に接する。荒川北岸の沖積低地と大宮台地南東部の安行(あんぎよう)台地にまたがる。…
…荒川下流の分流。東京都北区志茂の岩淵水門から下流を指し,下町低地を緩流して東京湾に注ぐ。…
…6~7世紀になると,武蔵もヤマト王権の支配下に置かれるようになり,広大な地域が前記の3国に分割された。无邪志国は北部の荒川流域とみられ,その中心は埼玉古墳,およびその周辺の大古墳をつくった武蔵国造に求められる。この一族はのちに出雲国造の同族となるが,この同族に胸刺国造がいた。…
…合流点までの流路延長は約60km,流域面積は216km2。江戸時代初期まで荒川の本流であった。1629年(寛永6)関東郡代伊奈忠治は荒川を久下でせき止め,それまで入間(いるま)川の支流であった和田吉野川につないで荒川の河道を入間川に移し,これを荒川本流とした。…
※「荒川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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