久保田(読み)クボタ

デジタル大辞泉 「久保田」の意味・読み・例文・類語

くぼた【久保田】

姓氏の一。
[補説]「久保田」姓の人物
久保田米僊くぼたべいせん
久保田万太郎くぼたまんたろう

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精選版 日本国語大辞典 「久保田」の意味・読み・例文・類語

くぼた【久保田・窪田】

  1. 姓氏の一つ。

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改訂新版 世界大百科事典 「久保田」の意味・わかりやすい解説

久保田 (くぼた)

出羽国秋田郡の佐竹氏秋田藩)の城下町。現在の秋田市。1602年(慶長7)佐竹氏は常陸から秋田の地に転封を命ぜられ,入国当初はこの地の前領主秋田氏の居城であった湊城(土崎)に入ったが,翌年神明山に新たに築城を命じ,翌04年移転し,この新城を久保田城と称した。城は天守閣がなく,石垣もなく,土塁だけのつくりであった。築城と前後して町割りも開始され,城の西側をほぼ南北に流れる旭川の東側を内町(うちまち)(侍町)とし,城の周囲には一門や大身の屋敷が設定され,次に上士,中士から足軽町と設定されていった。外町(とまち)(町人町)は旭川の西側につくられた。町割りの年代は明らかでないが,内町と平行して,まず大町各丁や通町といった後の町の中核となる部分がつくられ,その西側に南北に寺町が設けられた。

 町並みの間口は1軒当り前4間で,奥行きは大町が25間,他町は20間で割り付けられたようである。道幅は最初どのくらいかはっきりしないが,74年(延宝2)に火災の経験から外町は幅5間,小路は3間と定めている。町人は常陸から移ってきた者のほか,領主の命により土崎湊から強制的に移された者もあった。外町は町奉行支配下におかれ,その下に各町に庄屋,丁代(ちようだい)がおかれ実務を担当した。久保田の外町は幕末にいたるまで一貫して領内市場の中心として重要な役割を果たした。そのため領主のきびしい統制下におかれたが,反面外町商人の交易における特権的地位を保障することともなった。近世中期以降,領内市場が整備され,在町や農村市場は発展するにつれて特権を保持する城下商人としばしば利害の対立紛争をひきおこしたが,領主はつねに城下商人に有利な決定を行った。久保田町人は領内では最も富裕な層が多かったために,しばしば御用金の上納を命じられたりもした。町方の通常の地代負担はなく,津軽藩主の通行,役人の往来などの夫伝馬役は,茶町,大町の6町で負担し,その他の費用・人足などは惣町の負担が原則であった。外町の戸数は1788年(天明8)2294軒,長屋・借屋928軒で,人口は凶作などの変動を除けば1万2000人前後とみられる。内町の詳細は不明である。寺は1663年(寛文3)43ヵ寺であった。

 1871年(明治4)城下の称を久保田町から秋田町と改めた。当時の全人口3万7900人。72年秋田県は城の本丸を一時庁舎として開庁した。80年本丸が全焼した。78年郡制実施により南秋田郡に属し,郡役所が西根小屋町におかれた。89年市町村制の実施により秋田市となった。
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久保田(佐賀) (くぼた)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「久保田」の意味・わかりやすい解説

久保田(佐賀県)
くぼた

佐賀県中南部、佐賀郡にあった旧町名(久保田町(ちょう))。現在は佐賀市の南西部を占める地域。有明(ありあけ)海奥部に臨み、嘉瀬(かせ)川が地域の東端を流れる。旧久保田町は1967年(昭和42)町制施行。2007年(平成19)川副(かわそえ)、東与賀(ひがしよか)の2町とともに佐賀市に編入。北端のJR久保田駅は長崎本線と唐津線(からつせん)の分岐点で、小城(おぎ)市三日月(みかづき)町域にまたがる。国道は207号と444号が北と南を走る。久保田の名称は戦国時代にみえる窪田(くぼた)などの地名に由来。山のない低地で、米作やノリ養殖などが行われる。近年はイチゴやトマトなどの施設園芸も盛ん。地域のほぼ南半は中世以降の干拓地。北部の八筋堀(やすじぼり)などの堀割は、かつては半切(はんぎり)(浅いたらい状の桶(おけ))に乗ってのヒシの実とり、堀干しフナとりなど、秋の代表的風物詩を繰り広げたが、いまや圃場(ほじょう)整備事業で姿を一変した。近世、久保田邑(ゆう)は佐賀藩鍋島(なべしま)家の親類村田家の知行(ちぎょう)地で、その邑学思斉(しせい)館の思斉の名は今日も小・中学校名として残る。久保田駅近くには藁(わら)加工に出発した板紙工場がある。伝統芸能の面浮立(めんぶりゅう)を伝承

[川崎 茂]

『『久保田町史』(1971・久保田町)』『『久保田町史』上・下巻(2002・久保田町)』


久保田(秋田市)
くぼた

秋田市千秋(せんしゅう)公園一帯を称し、1604年(慶長9)佐竹氏が久保田城を築いた地。佐竹領は地名により久保田藩(秋田藩)といった。千秋公園内の佐竹史料館で藩政時代の資料などを展示している。

[編集部]


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百科事典マイペディア 「久保田」の意味・わかりやすい解説

久保田【くぼた】

出羽国秋田郡に所在した秋田藩佐竹氏の城下町。現在の秋田市。1602年秋田に移封となった佐竹氏は,翌年窪田(久保田)郷の神明山の地を選び築城,久保田城と称した。築城とともに町割りも開始され,城の西側を南流する堀川(現旭川)の東側を内(うち)町(侍町)とし,西側には町人町の外(と)町が造られた。町割りは内町に並行して,まず大町各丁や通町など後に町の中核となる部分が形成され,その西側に寺町が設置された。外町は町奉行の支配下に置かれ,領内市場の中心であった。1788年の外町の戸数2294,長屋・借屋928。寺院は1663年には43ヵ寺があった。1871年秋田町と改称。
→関連項目土崎

久保田[町]【くぼた】

佐賀県中部,佐賀郡の旧町。佐賀平野にあり米作が盛んで,有明海沿岸ではノリを養殖。長崎本線久保田駅から唐津線が分岐する。2007年10月佐賀郡川副町,東与賀町と佐賀市へ編入。14.39km2。8214人(2005)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「久保田」の意味・わかりやすい解説

久保田
くぼた

佐賀県東部,佐賀市南部の旧町域。嘉瀬川の河口右岸に位置し,有明海に臨む。 1967年町制。 2007年佐賀市に編入。大部分が中世以降の干拓地で,久富と三丁井樋 (さんちょういび) の線が,ほぼ 16世紀頃の海岸線と推測される。米作,ノリ養殖が行なわれるほか,製紙,清酒醸造の工場がある。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「久保田」の解説

くぼた【久保田】

新潟の日本酒。酒名は、創業時の屋号にちなみ命名。純米大吟醸酒「萬寿」、山廃仕込みの純米大吟醸酒「碧寿」、大吟醸生酒「翠寿」、特別純米酒「紅寿」、特別本醸造酒「千寿」、本醸造酒「百寿」がある。原料米は五百万石。仕込み水は蔵近くの朝日神社境内の湧水「宝水」。蔵元の「朝日酒造」は天保元年(1830)創業。所在地は長岡市朝日。

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デジタル大辞泉プラス 「久保田」の解説

久保田

新潟県、朝日酒造株式会社の製造する日本酒。純米大吟醸酒山廃仕込み「碧寿」、純米大吟醸酒「萬寿」、大吟醸生酒「翠寿」、特別純米酒「紅寿」、特別本醸造酒「百寿」などがある。

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