安土(あづち)桃山~江戸初期の武将。久保田(秋田)藩主。義重(よししげ)の長子。元亀(げんき)元年7月16日常陸(ひたち)国太田城(茨城県常陸太田市)に生まれる。幼名は徳寿丸(とくじゅまる)、字(あざな)は次郎と称す。北条氏政(うじまさ)や伊達政宗(だてまさむね)と戦い、常陸の南方(みなみかた)三十三館(国人領主33氏)を謀殺し、江戸重通(しげみち)から水戸城を奪って居城とし、54万石余の大名となった。しかし、石田三成(みつなり)派であった義宣は、関ヶ原の戦いで徳川家康からそのあいまいな態度を憎まれて、1602年(慶長7)に出羽(でわ)20万石に転封させられた。久保田城を居城とし、土豪勢力を排除して藩体制を確立した。石田三成がかつて福島正則(まさのり)らに殺害されようとしたとき救助するなど律義な性格であった。寛永(かんえい)10年正月25日死去。
[福島正義]
(金森正也)
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1570~1633.1.25
織豊期~江戸初期の大名。父は義重。右京大夫。左中将。1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めに参陣,以後豊臣権力を背景に常陸一国の平定に成功し,94年(文禄3)下野・常陸両国で54万5000石余を領する。関ケ原の戦後の1602年(慶長7)常陸国を没収され,出羽国秋田20万5000石余に減封された。以後,秋田藩政の基礎確立に尽力。
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…維新当時の正式名は久保田藩であるが,1871年(明治4)1月秋田藩と改称し,一般に秋田藩と呼ぶことが多い。佐竹義宣は関ヶ原の戦後の1602年(慶長7)常陸54万石から秋田20万石(領地高は1664年確定)に移封を命じられる。出羽国秋田,檜山(ひやま)(1664以降山本),豊島(としま)(同河辺),山本(同仙北(せんぼく)),平鹿,雄勝の6郡と下野国河内,都賀郡のうち11ヵ村を領有。…
…常陸出身の中・近世の武家。清和源氏(図)。新羅三郎義光が兄義家に協力するため常陸介として下向し,子義業が久慈郡佐竹郷を領有,孫昌義が母方について土着し,奥七郡を支配して佐竹冠者とよばれるようになった。昌義の子と思われる義宗は下総国相馬御厨の預職に任命されている。源頼朝挙兵に当たっては,秀義が平氏に荷担して頼朝包囲に加わったが,1180年(治承4)逆に頼朝によって金砂山に攻められ,奥州に敗走,父祖の地を失った。…
…最初は各地の出城の周辺部に置かれ,城を預かる武将の管理にゆだねられ,戦争の際の兵粮米(ひようろうまい)のために備蓄されていたが,のちに大名領国の内部にも設けられるようになった。1595年佐竹義宣に与えられた知行目録によれば,領国54万5000余石のうち,太閤蔵入地の1万石と,検地奉行である石田三成,増田長盛の知行地各3000石が含まれている。これは大名にとって政治的中枢部や特産物地帯を押さえられる結果となり,豊臣政権へのいっそうの従属を余儀なくされた。…
…またこの当時すでに中央の統一権力となった織田信長,豊臣秀吉や,甲斐の武田氏,越後の上杉氏らとも結んで勢力拡大を図る。89年(天正17)父義重のあとを継いだ佐竹義宣(よしのぶ)は翌年8月,後北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げた豊臣秀吉から常陸一国および下野の一部の直接・間接の支配を承認された。一方南部の小田氏,大掾氏,中央部の江戸氏らは後北条氏と親しく,秀吉への服属が遅れた。…
※「佐竹義宣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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