京都市中きっての大川。源は
「日本紀略」弘仁五年(八一四)六月一九日条は「鴨川」と書き、同書天長六年(八二九)一二月二四日条及び「山城国風土記」逸文は「賀茂川」と記す。また東河(「三代実録」貞観二年九月一五日条ほか)とも記した。現在は高野川との合流点までを賀茂川、それより以南を鴨川と書くのが通例である。
鴨川の水量は平常は少ないが、時に大量の降雨があり、しばしば大洪水を引起こした。「平家物語」巻一(願立)の記す白河院の言葉、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」は有名だが、諸書にも洪水の記録が記される。例えば「貞信公記」天慶元年(九三八)六月二〇日条に「鴨河水入京中、多損人屋舎雑物、西堀川以西如此、不能往還」とあり、「日本紀略」永祚元年(九八九)八月一三日条には暴風雨の記事を記した後「又鴨河堤所々流損」と伝えている。このため天長元年(八二四)朝廷では
防鴨河使による水防対策は徹底したもののようで、「三代実録」貞観一三年(八七一)閏八月一四日条に、
とあり、堤防周辺では公田を除く水陸田の耕営を禁止している。
荒川の支流の一。桶川市鴨川付近の谷頭を水源とし、上尾市・大宮市の西部を南流、大宮市
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
千葉県南部,外房にある市。2005年2月旧鴨川市と天津小湊(あまつこみなと)町が合体して成立した。人口3万5766(2010)。
鴨川市東部の旧町。旧安房郡所属。1955年天津町と小湊町が合体。人口7672(2000)。太平洋に面し,海岸まで房総丘陵がせまって平地が少ない。日蓮の出生地として知られる小湊は,1276年(建治2)に誕生寺が建立されて,その門前町として発展した。現在は旅館や民宿が多く,南房総の中心的観光地の一つになっている。鯛ノ浦と呼ばれる小湊湾には特別天然記念物の〈鯛の浦のタイ生息地〉があり,観光船が運航されている。天津は近世初期に紀州の漁民が開発したと伝える漁師町で,江戸時代は東廻海運の避難港であり,1929年の房総東線(現,JR外房線)の開通までは周辺地域の米,炭などの移出港でもあった。沿岸漁業の不振から60年代に入って漁業従事者は大幅に減少し,工業開発が進められた千葉・市原地区への出稼ぎや土木作業への転業が行われた。現在は養殖漁業に力が注がれ,干物やワカメなどの水産加工は観光みやげとなっている。町北部の清澄山には常緑広葉樹の原生林が残されており,山頂には日蓮が得度した清澄寺がある。1960年代から人口減少が続き,過疎地域に指定されている。
執筆者:千葉 立也
鴨川市中西部の旧市。1971年鴨川,長狭(ながさ),江見の3町が合体,市制。人口2万9981(2000)。鎌倉時代に伊勢外宮領の東条御厨(みくりや)に属した地域で,戦国時代に里見氏が開き江戸時代に幕府の馬牧となった嶺岡牧の中心地でもあった。また江戸初期から漁業が盛んで今も県下有数の漁港である。内陸の長狭地区は加茂川中流の米作・酪農地帯である。鴨川地区は商業・観光の中心地で,市街は浜堤の上にあり,南に漁村の磯村やサバ,ブリ,イワシの水揚げが多い漁港がある。北は東条海岸の松林であったが,現在は水族館の鴨川シーワールドや多くの観光ホテルが林立する。中央部は外房に広がる商圏をもつ商店街と南房総最大の旅館街で,鴨川駅はJR内房線と外房線の接続点であり,駅前は外房観光のバスセンターとなっている。海岸は無霜地帯で草花の露地栽培や温室による高級花の栽培が増加し,太海(ふとみ)にフラワーセンターもある。沿岸は嶺岡山地の末端が島々となって鴨川松島の別名があり,源頼朝の伝説を伝える仁右衛門島に続く。
執筆者:菊地 利夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
千葉県南部、外房(そとぼう)海岸にある市。1971年(昭和46)鴨川町、江見(えみ)町、長狭(ながさ)町が合併して市制施行。2005年(平成17)、安房(あわ)郡天津小湊町(あまつこみなとまち)を合併。房総丘陵を南北に分ける地溝帯に沿って加茂(かも)川が東に流れ、長狭平野を形成する。海岸沿いにJR内房線(うちぼうせん)、外房線と国道128号が走り、西部を国道410号が縦断する。1929年(昭和4)国鉄房総線(現、JR外房線)が開通して南房総環状線が完成、内房・外房両線の終点となって発達の基礎が築かれた。古くアサを産するので長麻とよばれ、のち長狭郡となったが、源頼朝(よりとも)の家臣東条氏が金山(かなやま)城を築き、1445年(文安2)里見氏(さとみうじ)に攻められるまでこの地を支配した。江戸初期里見氏転封後は幕府の直轄地となり(のち一部は武蔵岩槻藩領などとなった)、海岸の前原では紀州漁民が「まかせ網」というイワシ網を伝えたために漁業が発達した。1868年(明治1)遠江(とおとうみ)(静岡県)横須賀(よこすか)の西尾氏が市域に入部して花房藩(はなぶさはん)3万5000石を領したが1871年には廃された。海岸には鴨川漁港をはじめ五つの漁港があり、イワシ、サバの沖合漁業が活発である。沿岸の畑地では冬季の温暖な気候を利用して、大正中期から露地の切り花栽培が導入され、江見を中心にユリ、バラ、ストックなどの花畑が一面に広がっている。平野部では米作やビニルハウスによる促成野菜栽培が行われるほか、嶺岡(みねおか)山地には嶺岡牧場があって酪農が盛んである。太海(ふとみ)フラワーセンターの近くに県指定名勝仁右衛門(にえもん)島があり、平野仁右衛門が源頼朝を救出した礼に島と漁業権を与えられたとの伝説がある。海岸は全域が南房総国定公園に属し、鴨川松島の景勝地や海水浴場が各地にあり、海洋レジャーセンターの鴨川シーワールドもある。加茂川上流北風原(ならいはら)の羯鼓(かっこ)舞は春日(かすが)神社の雨乞(あまご)い行事で、吉保八幡(きっぽうはちまん)の流鏑馬(やぶさめ)とともに県指定無形民俗文化財である。面積191.14平方キロメートル、人口3万2116(2020)。
[山村順次]
『『鴨川沿革史』上中下(1961~1964・鴨川市)』
京都市北西部、丹波(たんば)高地の桟敷(さじき)ヶ岳(896メートル)に源を発し、南流して淀(よど)川に注ぐ川。北区上賀茂(かみかも)付近で京都盆地に流れ出て、流路を南南東に転じ、出町(でまち)で高野(たかの)川と合流し、市街東部を北から南に貫流して、伏見(ふしみ)区横大路付近で桂(かつら)川と合して淀川に注ぐ。延長約35キロメートル。出町以北の上流部を賀茂川、出町以南を鴨川とよぶ。鴨川はもとは上賀茂付近から南流し、現在の堀川筋(すじ)が旧流路であったが、平安京遷都(794)の際、都の東辺に流路を変更したという。そのためしばしば氾濫(はんらん)して被害を与え、824年(天長1)に防鴨河使(ぼうかし)が置かれた。その後、豊臣(とよとみ)秀吉が新堤を造築し、出水もようやく減じたが、1935年(昭和10)の集中豪雨により橋梁(きょうりょう)の大半が流失するなどの大被害が生じ、1936年から護岸の大改修事業が行われた。平時は水量が少ないので、1614年(慶長19)には角倉了以(すみのくらりょうい)によって高瀬(たかせ)川、1894年(明治27)には琵琶湖疎水(びわこそすい)が鴨川と並行して開削され、米、薪炭(しんたん)などの輸送に用いられた。鴨川の河原は古来しばしば合戦場となり、平安時代以降近世初頭にかけて五条、六条、七条の河原では罪人などの処刑が行われた。近世初頭からは能、芝居興行の場となり、三条、四条の河原には芝居小屋や見せ物小屋が並んだ。
鴨川の水は友禅染めの水洗いに適しており、かつては友禅流しが行なわれた。三条大橋から五条大橋にかけての河岸には旅館、料亭などが集まり、夏には河原に川床(かわどこ)が設けられ、夕涼み客でにぎわう。
[織田武雄]
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