久我長通(読み)こが・ながみち

朝日日本歴史人物事典 「久我長通」の解説

久我長通

没年文和2/正平8.8.27(1353.9.25)
生年弘安3(1280)
鎌倉末・南北朝期の公卿。父は太政大臣通雄,母は源仲基の娘。後中院と称される。永仁5(1297)年従三位に叙せられ,以降参議,権中納言,権大納言と進んだが,正和2(1313)年辞官。のち権大納言に復し,元徳2(1330)年内大臣となるが間もなく辞す。同年右大臣兼東宮傅となるがこれも辞す。その後,暦応3/興国1(1340)年太政大臣となり奨学院別当氏長者を兼ねた。翌年これも辞した。光厳上皇の院政下では,院の評定衆のひとりとして姿をみせており,北朝の有力公卿として中枢を担った人物であった。

(小森正明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「久我長通」の解説

久我長通 こが-ながみち

1280-1353 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
弘安(こうあん)3年生まれ。久我通雄(みちお)の子。内大臣,右大臣をへて,暦応(りゃくおう)3=興国元年(1340)北朝の太政大臣となり,翌年奨学院別当,氏長者をかねた。従一位。文和(ぶんな)2=正平(しょうへい)8年8月27日死去。74歳。号は後中院。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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