暦応(読み)リャクオウ

デジタル大辞泉 「暦応」の意味・読み・例文・類語

りゃくおう【暦応】

南北朝時代北朝光明天皇の時の年号。1338年8月28日~1342年4月27日。れきおう。

れきおう【暦応】

りゃくおう(暦応)

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精選版 日本国語大辞典 「暦応」の意味・読み・例文・類語

りゃくおう【暦応】

  1. 南北朝時代、北朝の光明天皇の代の年号。建武五年(一三三八)八月二八日に改元、暦応五年(一三四二)四月二七日に至って次の康永となる。元年足利尊氏征夷大将軍となる。出典は「帝王世記」の「又有草夾階而生、〈略〉王者、以是占暦、応和而生」。

れきおう【暦応】

  1. りゃくおう(暦応)

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日本の元号がわかる事典 「暦応」の解説

りゃくおう【暦応】

日本の元号(年号)。室町時代(南北朝時代)の1338年から1342年まで、光明(こうみょう)天皇の代の北朝が使用した元号。前元号は建武(けんむ)。次元号は康永(こうえい)。1338年(建武5)8月28日改元。光明天皇の即位にともない行われた(代始改元)。『帝王代記(ていおうだいき)』を出典とする命名。暦応年間の南朝の天皇は後醍醐(ごだいご)天皇、後村上(ごむらかみ)天皇。南朝では、延元(えんげん)(1336~1340年)、興国(こうこく)(1440~1346年)の元号を使用していた。室町幕府の将軍は足利尊氏(たかうじ)(初代)。1338年(延元3/暦応1)8月、南朝の重臣北畠親房(ちかふさ)らは、後醍醐(ごだいご)天皇の皇子の義良(のりよし)親王(後の後村上天皇)と宗良(むねよし)親王を奉じて、伊勢国大湊から海路東国に向けて出帆したが、途中で難破して親房は常陸(ひたち)国に、宗良は遠江(とおとうみ)国に漂着し、義良は吉野に戻った。親房は常陸国で幕府・北朝勢力と戦いつつ、『神皇正統(じんのうしょうとう)記』を執筆した。同じ頃、九州には皇子の懐良(かねよし)親王が派遣されている。後醍醐が皇子を日本各地に派遣したのは、南朝勢力を糾合して各地に反攻拠点を作るためだった。しかし、後醍醐はその最中の1339年(延元4/暦応2)に崩御し、後村上天皇が皇位を継承した。◇「れきおう」とも読む。

れきおう【暦応】

⇒暦応(りゃくおう)

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