普済寺(読み)ふさいじ

精選版 日本国語大辞典 「普済寺」の意味・読み・例文・類語

ふさい‐じ【普済寺】

東京都立川市柴崎町にある臨済宗建長寺派の寺。山号は玄武山。文和四年(一三五五)領主立川宗恒の創建。開山は物外可什(もつがいかじゅう)南北朝時代、経典の開版を行なう。延文六年(一三六一)銘の六面石幢は国宝。

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デジタル大辞泉 「普済寺」の意味・読み・例文・類語

ふさい‐じ【普済寺】

東京都立川市にある臨済宗建長寺派の寺。山号は、玄武山。開創は正平8=文和2年(1353)、開山は物外可什もつがいかじゅう。正平16=延文6年(1361)銘の石幢せきどうは国宝。

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日本歴史地名大系 「普済寺」の解説

普済寺
ふさいじ

[現在地名]園部町若森

若森わかもり集落の西、小高い丘の上にある。山号大慈山、曹洞宗、本尊聖観音。創建年代は不詳であるが、一説に貞和二年(一三四六)足利貞氏(尊氏の父)の女が、父の菩提を弔うため当寺に入寺、夢窓疎石中興開山とし尊氏の尽力で中興したという。また延文二年(一三五七)の創建とも伝える。その後荒廃したが、江戸時代になって亀山藩主の保護を受けて中興され、寛永一一年(一六三四)新藩主菅沼定芳によって曹洞宗に改めたという。

普済寺
ふさいじ

[現在地名]立川市柴崎町四丁目

多摩川北岸の河岸段丘崖縁上、周囲よりやや小高い地に立地する臨済宗建長寺派寺院。玄武山と号し、本尊は観音菩薩。南は多摩川沿いを通る新奥多摩街道を見下ろし、境内直下の崖下を残堀ざんぼり川が東流する自然の要害地であった。中巌円月の語録「東海一集」によれば、物外が請われて文和二年(一三五三)に鎌倉万寿まんじゆ寺の住持となる前に「玄武山」を開創していたとあり、玄武山は当寺のこととされる。開基は立河氏と伝えるが、不詳。木造物外像(国指定重要文化財であったが、平成七年焼失)の胎内銘によると、この像は応安三年(一三七〇)一一月三日に物外の法嗣である啓範・性了・啓端らが造立したもので、寺蔵の「古老伝説記 古過去帳」などは物外を当寺開祖としている。境内にある六面石幢(国宝)は高さ一六六センチ・幅四二センチの板石六枚を六角柱に組立てたもので、金剛力士像および四天王像が線刻され、延文六年(一三六一)七月六日の年紀と「施財性了立 道円刊」の刻銘がある。性了は物外像の造立者の一人であった。

開創後ほどなく当寺において普済寺版と称される経典の刊行が始まる。現存の華厳経巻一(訪書余録)の刊記によると、貞治二年(一三六三)八月六日に願主比丘光信・祖栄によって始められた。

普済寺
ふさいじ

[現在地名]浜松市広沢一丁目

広沢山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。肥後国飽田あきた河尻大慈かわしりだいじ(現熊本市)末で、末寺一八を数えたという(遠江国風土記伝)勧請開山は順徳天皇の皇子という寒厳義尹で、正長元年(一四二八)華蔵義曇寺島てらじま郷に本能山随縁ずいえん寺を建立したのに始まるといわれる。その後吉良氏によって随縁山普済寺が建立され、水難のため永享四年(一四三二)当地に移ったという。当時龍光院・珠呑斎・福寿庵・心月院の四坊を数えたという(遠江国風土記伝)。嘉吉二年(一四四二)一月一九日、義曇は「普済丈室」で相伝血脈図を龍沢永源に授けている(「易図相伝血脈図」万松寺蔵)。義曇は嘉吉元年に閑栖所として砂山すなやま新豊しんぽ院を造営し、康正元年(一四五五)に没した(日本洞上聯灯録)

普済寺
ふさいじ

[現在地名]長岡市栖吉町 出来坊

栖吉すよし集落の北にあり、境内に栖吉城の館が置かれていた。曹洞宗、本尊は釈迦・文殊・普賢像。伝えによると、もとは大行だいぎよう寺と号し、栖吉の字三貫梨さんがんなしにあり、当初は天台宗といい、また空海の開基で真言宗ともいうが、大行寺の歴史は明らかでない。当寺は南北朝・室町時代には臨済宗の寺として栄え、越後守護職上杉氏の祈願所ともなった。その後、三貫梨の城主金原大膳が当寺で剃髪得度し、長翁秀大と号し、曹洞宗に改め、中興の開基となった。天文五年(一五三六)出来坊でくのぼうの現在地に移転。

普済寺
ふさいじ

[現在地名]岩国市錦見一丁目

岩国山の南麓にあり、曹洞宗。岩国山と号し、本尊釈迦如来。

中世期にあった無量寿むりようじゆ寺の跡地を吉川家の家臣森脇飛騨守が拝領、慶長六年(一六〇一)に小庵を建立。元和年間(一六一五―二四)に寺号を申請したと伝える。なお「玖珂郡志」は別伝も伝え、「広家(吉川)公上関御越、御逗留ノ内、於彼地洲鶴ト云フ僧御相対被成、御帰依、岩国無量寿寺ヲ御取立、普済寺ト御改メ御待ノ処、遷化ニ付、昌栄ト云フ僧ニ住職被仰付候、後、洞泉十一世洲勧請、開山トス」と記す。古くは十一面観音を本尊としたが、この像について同書は「御当家由宇正覚寺ニ被御座候中、雲州ヨリ老翁御持仏ノ観音荷ヒ来リ、吉川様エ届申由高声ニ呼廻リ、正覚寺ノ縁間ニ置由、此仏、岩国ヘ御移ノ節、芳珪様ヨリ洞泉寺本尊エ御寄附ノ処、小キ故、仏壇ニ不相応故、洲代ニ当寺エ安置也、此時、当寺本尊ハ江臨寺エ備申候、往古、当寺ハ長江寺、其後無量寿寺、川崎ノ長江寺ト唱ヘシ由」と記す。

普済寺
ふさいじ

[現在地名]箕輪町大字東箕輪 南小河内

南小河内みなみおごうち村の東、山麓台地上に建つ。臨済宗、法華山と号し、京都妙心寺末山。本尊千手観世音菩薩。延享元年(一七四四)成立の「伊那郡神社仏閣記」によると、

<資料は省略されています>

とある。

また、元禄一二年(一六九九)より領主となった太田隠岐守資良は堂宇を修営し、同家の蔵牌所となし、その位牌が今もある。

普済寺
ふさいじ

[現在地名]館林市羽附町

県立つつじが岡公園の南、字上志柄かみしからにある。竜洞山と号し曹洞宗。本尊は薬師如来。寺伝によると大永三年(一五二三)長尾政長の開基、開山は大雲伊俊。当時羽継はねつぐ郷と称していた地の東方町谷に創建されたのが初めという。同五年にはじよう沼畔の篠崎ささがざきに、さらに天文年間(一五三二―五五)現在地に移ったという。

普済寺
ふさいじ

[現在地名]喜連川町金枝

金枝かなえだの主要地方道烏山―矢板線沿い東にある。三光山清光院と号し、真言宗智山派、本尊大日如来。もとさわ(現矢板市)観音寺末。永禄二年(一五五九)の創建で、開山は宥哲と伝える。大檀那は土豪金枝氏で、那須氏に属して各地に転戦する金枝郷士の祈願所・菩提所として字内越うちこし(現寺地裏山の高台)に堂宇を建立したのに始まるという。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「普済寺」の意味・わかりやすい解説

普済寺
ふさいじ

東京都立川(たちかわ)市柴崎(しばざき)町にある臨済(りんざい)宗建長寺派の寺。玄武山(げんぶさん)と号する。1353年(正平8・文和2)立川一帯の領主立川宮内少輔(くないしょうゆう)宗恒(むねつね)が鎌倉建長寺から物外可什(もつがいかじゅう)を招いて開山として建立。立川氏の庇護(ひご)のもとに栄え、1363年(正平18・貞治2)ごろより約40年にわたり普済寺版大乗経典を刊行した。その後、高幡(たかはた)城主平重能(しげたか)、北条氏の外護(げご)があり、1691年(元禄4)までに方丈、仏殿、山門、庫裡(くり)、鐘楼、塔頭(たっちゅう)が復興された。寺宝には、1361年(正平16・康安1)物外の弟子性了(しょうりょう)が建立した六面石幢(せきどう)(国宝)や板碑がある。1995年(平成7)火災で本殿などを消失、国指定重要文化財であった、1370年(建徳1・応安3)啓端(けいたん)・性了などが造立した開山物外和尚坐像(おしょうざぞう)は翌年指定を解除された。

[菅沼 晃]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「普済寺」の意味・わかりやすい解説

普済寺
ふさいじ

東京都立川市にある臨済宗建長寺派の寺。文和4 (1355) 年,武蔵七党の1つ西党から出た立川宮内少輔宗恒を開基,建長寺 36世物外可什 (もつがいかじゅう) を開山として創建。立川一族滅亡後,その館跡に移転された。 14世紀後半には約 40年の歳月をかけて『五部大乗経』 200巻がこの寺で出版された。延文6 (1361) 年の銘のある六面石幢 (周囲六面に仁王と四天王が配されている) が国宝に指定されているほか,開山座像,文永 12 (1275) 年から応永 25 (1418) 年にかけて制作された板碑 63枚など,貴重な文化財を所有している。

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事典・日本の観光資源 「普済寺」の解説

普済寺

(東京都立川市)
新東京百景」指定の観光名所。

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