(1)令制(りょうせい)太政官(だいじょうかん)の官職で、実質上の長官。右大臣とともに衆務を統理した。三公の一つ。定員は1名で、二位相当官。職田(しきでん)30町、食封(じきふ)2000戸、資人(しじん)200人が給された。その初見は『日本書紀』によれば645年(大化1)に任ぜられた阿倍内麻呂(あべのうちまろ)であり、671年(天智天皇10)には太政大臣など三大臣がそろって任命されたが、制度的に確立したのは701年(大宝1)の大宝令(たいほうりょう)によってであろう。官名は、唐の尚書省の左僕射(さぼくや)を倣って、それまでの大臣を左右に分けたことに由来するといわれるが、さだかではない。758~764年(天平宝字2~8)の間は大傅(たいふ)と称された。平安時代にも形式化した太政大臣に比して朝廷政務の責任者としての地位を保持し一上(いちのかみ)とよばれた。その後、武家政権下では名誉的存在であったが、1868年(明治1)に太政官制の廃止とともに廃された。
(2)明治初期の官職。1869年(明治2)7月の官制改革(二官六省)により再置され、71年8月三院八省制のもとでは正院(せいいん)を構成したが、85年に内閣制度が実施されて廃止された。
[佐藤宗諄]
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1太政官の長官の一つ。定員1人。国政の全般を指揮し,弾正台(だんじょうだい)の糾正に誤りがあれば糾弾することを職掌とした。唐の尚書省の左僕射(さぼくや)を模した官とされ,左府とも称する。上席の太政大臣が職掌をもたない則闕(そっけつ)の官だったため,事実上の首席であった。官位相当は親王二品もしくは諸王・諸臣正従二位で右大臣と同じであるが,右大臣より上席に位置する。藤原仲麻呂政権下の一時期に大傅(たいふ)と改称したが,仲麻呂の失脚した764年(天平宝字8)に旧に復した。
21869年(明治2)7月,職員令により設置された太政官制下の最高官。天皇輔佐・大政統理・官事総判を官掌した。島津久光・有栖川宮熾仁(たるひと)親王が任じられ,85年廃止。
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