和宮降嫁(読み)かずのみやこうか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「和宮降嫁」の意味・わかりやすい解説

和宮降嫁
かずのみやこうか

1862年(文久2)2月に実現した、孝明(こうめい)天皇妹和宮親子(ちかこ)内親王と14代将軍徳川家茂(いえもち)との結婚問題。1858年(安政5)6月の、日米修好通商条約調印と、紀伊家の徳川慶福(よしとみ)(のちの家茂)の将軍継嗣(けいし)決定などにより生じた朝幕関係の悪化を修復するため、大老井伊直弼(いいなおすけ)の側近長野義言(よしとき)(主膳(しゅぜん))らが、「公武合体」を目ざして、和宮の江戸降嫁を画策し始めた。幕府からの公式な申し入れは、井伊直弼暗殺(桜田門外の変)後の60年(万延1)4月、京都所司代酒井忠義(ただよし)によって、関白九条尚忠(ひさただ)に対して行われた。孝明天皇は、和宮がすでに6歳のときに有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約をしていることなどから反対したが、再三の要請を受け、いったん許可して取り消すなどの曲折を経たものの、その年末に降嫁決定となった。翌61年10月、和宮は京都をたち、江戸入り、62年2月11日、将軍家茂との婚儀が行われた。その実現に尽力した老中安藤信正(のぶまさ)は、水戸浪士宇都宮志士らによって同年1月15日坂下門外に襲撃され、負傷して、まもなく辞職した。将軍家茂は、4年半後の66年(慶応2)7月、長州再征の途次、大坂城で病死、その12月には孝明天皇も急死、幕府も崩壊に向かい、「公武合体」のための降嫁は一時的な政略に終わった。和宮降嫁は、当初から、幕府の中枢部から朝廷への働きかけによるものであったため、天皇を動かして攘夷(じょうい)の実現を迫る各地の激派の志士には、幕府の延命策と受け取られ、彼らの激しい反発を受け続けた。その後、文久(ぶんきゅう)三年八月十八日の政変を経て、公武合体構想は、朝廷とも結びながら幕政改革を計ろうとした雄藩連合の参預会議によって動き出すが、63~64年(文久3~元治1)の一時的のものに終わった。

[河内八郎]

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