九鬼守隆(読み)くき もりたか

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「九鬼守隆」の解説

九鬼守隆 くき-もりたか

1573-1632 織豊-江戸時代前期の武将,大名
天正(てんしょう)元年生まれ。九鬼嘉隆(よしたか)の子。志摩(三重県)鳥羽藩主九鬼家2代。慶長2年父の跡をつぐ。関ケ原戦いで東軍に属し,西軍についた父とたたかい,領国を安堵(あんど)される。九鬼水軍をひきいて大坂冬の陣に功をたて,駿府(すんぷ)城・江戸城築城の際は木石の運搬にあたった。寛永9年9月15日死去。60歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の九鬼守隆の言及

【九鬼氏】より

…近世大名。元来は紀伊熊野地方の豪族。その祖は熊野別当長快とも,藤原隆信とも言う。紀伊九木浦を本拠とし,南北朝期には志摩国にもその勢力を及ぼし,戦国期,嘉隆は初め北畠氏,後に織田信長,豊臣秀吉に属して水軍の将として活躍,志摩国一円を支配した。子守隆は関ヶ原の戦で東軍につき加増,鳥羽に5万5000石を安堵された。子孫は摂津三田3万6000石と丹波綾部2万石に分かれ,幕末に至る。維新後ともに子爵。【加藤 真理子】…

【九鬼嘉隆】より

…安土桃山時代の武将。右馬允,大隅守と称す。志摩国田木城主宮内大輔定隆の次男。志摩波切を根拠として付近の土豪を制圧し,勢力を伸ばした。初めは伊勢国司北畠氏に属したが,永禄末年より織田信長に従い,1569年信長の北伊勢攻略の際の功により志摩一国を与えられたという。その後は,長島の一向一揆攻撃,石山本願寺攻撃等に配下の海賊衆を率いて参加,海路をふさぐなどして活躍した。信長の死後は豊臣秀吉の下で,文禄・慶長の役等に水軍の将として功をあらわした。…

※「九鬼守隆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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