日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポーランド史」の意味・わかりやすい解説
ポーランド史
ぽーらんどし
ポーランド人は、チェコ人やスロバキア人と並んで西スラブ系の一民族である。ポーランドに定住した西スラブ人は、当初は複数の部族に分かれていたが、やがてポラニェ人のピアスト家が中心となって統一国家を形成した。
[小山 哲]
ピアスト朝
歴史的に存在が確認される最初の君主ミェシコ1世(在位960ころ~992)は、966年に西方のキリスト教を受け入れた(ポーランドの洗礼)。ついでボレスワフ1世フロブリ(勇敢王、在位992~1025)は1000年にグニェズノ大司教座を設置し、神聖ローマ皇帝より王冠を授与された。しかし、ボレスワフ3世クシボスティBolesław Ⅲ、Krzywousty(口曲王(くちまがりおう)、在位1102~1138)の死後、ピアスト朝国家は複数の侯領に分裂した。12世紀末からドイツ人の東方植民が始まり、1226年にはマゾフシェ侯コンラートKonrad Ⅰ Mazowieski(1187?―1247)がドイツ騎士団を招致した。騎士団はプロイセン地方に勢力を伸ばし、ポーランドはバルト海への出口を失った。13世紀なかばには東からモンゴル軍が侵入し、リーグニッツの戦い(レグニーツァの戦い)(ワールシュタットの戦いともいう)でポーランド軍は敗北した(1241)。ようやく14世紀前半にウワディスワフ1世ウォキェテク(短躯王(たんくおう)、在位1306~33)が王国の統一を回復し、続くカジミェシュ3世ビエルキ(大王、在位1333~70)は国土を東南方に拡大した。しかし、カジミェシュ3世には後継者がなく、ピアスト朝は断絶した。
[小山 哲]
ヤギェウォ朝
カジミェシュ3世の死後、アンジュー家出身のハンガリー王ラヨシュがポーランド王位についた(ルドビク1世、在位1370~1382)が、この国王にも男子がなく、末娘のヤドビガが王位を継承した(在位1384~1399)。1386年にヤドビガはリトアニア大公ヨガイラと結婚し、ヤギェウォ朝が始まった(ウワディスワフ2世ヤギェウォWładysław Ⅱ、Jagiełło、在位1386~1434)。異教徒であったヨガイラは、結婚に先だってカトリックに改宗した(リトアニアの洗礼)。1410年、ポーランドとリトアニアの連合軍はタンネンベルクの戦い(グルンバルトの戦い)でドイツ騎士団を破り、さらに十三年戦争(1454~1466)の結果、ポーランドはプロイセンの騎士団領の西半分を併合してバルト海への出口を回復した。残された東プロイセンの騎士団国家は16世紀に宗教改革が波及するとルター派を受け入れて世俗のプロイセン公国となり、ポーランド国王に臣従した(1525)。ポーランド・リトアニア国家はバルト海から黒海北方に広がる大国となり、バルト海貿易による西欧への穀物輸出によって活況を呈した。16世紀にはクラクフを中心にルネサンス文化が開花し、天文学者コペルニクス(ミコワイ・コペルニク)や詩人ヤン・コハノフスキが活躍した。
[小山 哲]
貴族共和制の盛衰
1572年にヤギェウォ朝が断絶すると、貴族身分(シュラフタ)の成員各人が国王選挙権を行使する本格的な選挙王制の時代が幕を開けた。シュラフタは人口の約8%を占め、身分制議会の代表権を独占して貴族共和制を確立した。1573年の最初の国王選挙で当選したヘンリク・バレジィ(在位1573~1575)との統治契約(ヘンリク諸条項)は、定期的な議会の招集やシュラフタの抵抗権を規定し、その後の貴族共和制の基本法となった。第3回国王選挙で王位についたジグムント3世バーザ(在位1587~1632)はイエズス会士を重用して反宗教改革を推し進めた。1596年には東方正教会の典礼を維持しながらローマ教皇の権威を認める合同教会が創設されたが、正教徒の多くはこれを認めず、ウクライナを中心に宗教的対立が強まった。また、ポーランド王権はリューリク朝断絶(1598)後のロシアの混乱に乗じてモスクワに遠征した(1604~1613、1617~1619)。国政の重心が東方に移動するのに伴って、国王宮廷は16世紀末から17世紀初頭にかけてクラクフからワルシャワに移動した。しかし、為政者の関心が東方に向かう間に1618年にブランデンブルク選帝公がプロイセン公位を継承してブランデンブルク=プロイセンの同君連合を形成し、北方ではスウェーデンがリボニアを占領した。また、ウクライナでは大領主に抑圧された正教徒農民とコサックの間にポーランドの支配への反発が強まった。
1648年、ボフダン・フメリニツキーの率いるウクライナ・コサックが決起し、正教徒農民も加わって反乱はウクライナ全域に広がった。1654年、フメリニツキーはロシアのウクライナ併合に同意し、ロシア軍が東から侵入した。翌1655年にはスウェーデン軍が北から攻め込んだ。スウェーデンとは1660年のオリバ条約によって、ロシアとは1667年のアンドルシュフ条約によって講和が成立したが、この戦乱によって国土は荒廃し、人口の3割が失われた。また、ポーランドはプロイセン公国に対する宗主権を放棄し(1657)、キエフを含むウクライナ東部はロシア領となった(1667)。その後、ヤン3世ソビェスキ(在位1674~1696)が1683年にウィーンを包囲したトルコ軍を撃退するなど軍事的な成功を収めたが、国内では大貴族(マグナート)の寡頭支配が強まった。大貴族はリベルム・ベト(1人でも拒否権を行使する議員がいると決議が無効になる制度)を派閥争いの手段として乱用し、議会政治の麻痺(まひ)を引き起こした。1697年からザクセン選帝侯が2代にわたってポーランド王位につくと(アウグスト2世、在位1697~1733、アウグスト3世、在位1733~1763)、大貴族の派閥抗争と列強の内政干渉が結び付いてポーランドの主権は危機に陥った。大北方戦争(1700~1721)の際には国内がロシア派とスウェーデン派に分裂し、アウグスト2世没後の国王選挙に際しても国内の対立からフランス対ロシア・オーストリア間の国際紛争に発展した(ポーランド継承戦争、1733~1735)。
ようやく1740年代から啓蒙思想の影響を受けて改革が説かれ始め、国王スタニスワフ・アウグスト(在位1764~1795)は国制改革に着手した。しかし、プロイセンとロシアは内政に介入し、改革の阻止を図った。ロシアの内政干渉に反発したシュラフタは1768年にバルで連盟を結成して戦ったが敗北し、1772年、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって第一次ポーランド分割が行われた。危機感を強めた改革派は、国民教育委員会を設置して教育改革を推進し、1788年に開幕した四年議会で国制改革の集大成となる「五月三日憲法」を制定した(1791)。しかし、翌1792年にロシアは守旧派と結んでポーランドに侵攻し、改革派の指導者たちは亡命した。1793年にはロシアとプロイセンによって二度目の分割が行われ、これに対してポーランド側は1794年、タデウシュ・コシチューシコを中心に武装蜂起(ほうき)を起こしたが鎮圧され、1795年、ロシア、オーストリア、プロイセンの3国による第三次分割の結果、ポーランドは地図の上から姿を消した。
[小山 哲]
「国家なき民族」の時代
敗北した蜂起軍の一部はフランスに逃れてポーランド軍団を結成し、ナポレオンの指揮下に入ってイタリアで戦った(このとき作曲された「イタリアのポーランド軍団の歌」が今日のポーランド国歌「ドンブロフスキのマズレク」の原曲である)。大陸制覇を目ざすナポレオンはプロイセンとロシアを破り、1807年のティルジット条約によりワルシャワ公国が成立した。しかし、ナポレオンのモスクワ遠征が失敗に終わるとワルシャワ公国も運命をともにし、1815年、ウィーン会議において4回目の分割が決定された。
ウィーン会議後、ロシア領ポーランド王国(会議王国)では一定の自治が認められていたが、1830年11月に武装蜂起(十一月蜂起)が起こると、自治は大幅に制限された。蜂起の参加者約8000名はフランスをはじめとする西欧諸国に亡命した(大亡命)。1846年にはオーストリア領ガリツィアで蜂起が勃発(ぼっぱつ)したが、オーストリア当局は農民を扇動して地主中心の蜂起勢力を襲撃させたため、蜂起は失敗に終わった。1848~1849年の「諸民族の春」の時期には、プロイセン領とオーストリア領で独立運動が起こった。ロシア領でも、クリミア戦争(1853~1856)によるロシア帝国の動揺をきっかけにふたたび独立運動が活発化し、1863年1月に蜂起が勃発した(一月蜂起)。蜂起鎮圧後、ロシア政府は蜂起参加者約4万人をシベリアに流刑にするなど弾圧政策を強化する一方、1864年3月に農奴解放令をポーランド王国領にも適用し、独立運動の大義名分を奪った。
一月蜂起後のロシア領では会議王国が廃止され、ロシア化が進められた。カトリック教会も規制を受け、合同教会は廃止されて正教会への移行を強制された。プロイセン領でもドイツ帝国成立(1870)後の文化闘争によってカトリックのポーランド系住民への圧力が強まり、学校教育のドイツ化が行われた。また、一月蜂起の敗北後、いずれの分割領においても武装蜂起主義への反動が生じた。とくにワルシャワを中心に漸進的な社会改良を重視する「ポジティビスト」が活躍したが、工業化の進展に伴って社会問題が深刻さを増すと彼らの主張の有効性は疑問視されるようになり、1880年代には新たな運動として社会主義運動と民族主義運動が登場した。1882年には最初の社会主義政党「プロレタリアート」が結成され、民族主義運動の組織としては1887年にロシア領内で「ポーランド青年同盟」(ゼット)が、スイスで「ポーランド連盟」が結成された。1890年代に入ると社会主義勢力は分裂し、ロシア領では「ポーランド社会党」(1892年結成)がユーゼフ・ピウスツキを中心に独立回復を目標に掲げたのに対し、ローザ・ルクセンブルクらは1893年に「ポーランド王国社会民主党」を組織し、プロレタリアート国際主義の立場から民族独立の優先に反対した。オーストリア領では1892年にイグナツィ・ダシンスキを指導者とする「ポーランド社会民主党」が結成された。他方、民族主義陣営は1893年に「国民連盟」を結成し、さらに1897年にはロマン・ドモフスキを中心に「国民民主党」を創設した。日露戦争(1904~1905)はポーランド独立運動にも影響を与え、1904年にはピウスツキ、ドモフスキがそれぞれ日本を訪れ、前者は対露戦での協力を、後者はそのような協力の危険性を訴えた。また、1905年に勃発した第一次ロシア革命はロシア領ポーランドにも広がり、ワルシャワやウッチ(ウージ)で大規模なデモやストライキが起こった。しかし、独立が現実のものとなるには、第一次世界大戦を待たねばならなかった。
19世紀に国家が存在しない間、ポーランド民族の存続を支えていたのは言語(ポーランド語)、宗教(カトリック教会)、芸術、たとえばミツキェビッチの詩、シェンキェビッチの小説、ショパンの音楽、ヤン・マテイコJan Matejko(1938―1993)の絵画など、広い意味での「文化」であった。分割三国は、度重なる弾圧にもかかわらず、ついにこの「文化」を滅ぼすことはできなかった。また、政治的弾圧や経済的貧困のために多くのポーランド人が西欧諸国やアメリカに移住し、その規模は1870~1914年に合計360万人に達した。このため、ポーランド文化は現在のポーランド国境のなかだけにとどまらない広がりをもつものとなった。
[小山 哲]
独立の回復と第二共和制
第一次世界大戦が勃発すると、分割列強はポーランド人を動員するために将来の自治や独立を約束する姿勢をとり始めた。1916年にはドイツ、オーストリア両皇帝がポーランド王国の創設を宣言し、翌1917年1月には臨時国家会議が召集されてピウスツキも加わったが、ドイツ皇帝への忠誠誓約を拒否したため逮捕され、臨時国家会議は解散されて10月に摂政会議が樹立された。一方、協商国の支援のもとにドモフスキは1917年8月にスイスでポーランド国民委員会を樹立し、翌1918年1月にはアメリカ大統領ウィルソンが「十四か条」のなかでポーランドの再建を提唱した。1917年の十月革命で成立したソビエト政府は1918年3月のブレスト・リトフスク条約によって同盟国側と単独講和を結び、8月には分割条約の破棄を声明した。1918年秋に同盟国側が降伏すると、オーストリア領ではダシンスキを首班とするポーランド共和国臨時人民政府が樹立され、ドイツ領では摂政会議がピウスツキを軍最高司令官・国家主席に任命した。こうして分割3列強が革命と敗戦によって崩壊した結果、ポーランドは独立を回復した。
ポーランド共和国(第二共和制)は、独立後しばらく国境の画定をめぐって不安定な状態が続いた。1919年6月のベルサイユ条約はグダニスク(グダンスク)を自由都市とし、旧ドイツ領以外の地域については保障を与えなかった。ピウスツキは東方での領土拡張を図り、1920年4月にポーランド・ソビエト戦争が始まった。1921年3月のリガ条約によって両国は講和したが、ポーランドはリトアニア共和国のビルノ地方を武力占領し、1922年2月に併合した。西方では1920年7月にマズーリ、バルミアの住民投票が行われ、ドイツへの帰属が決定した。高地シロンスク(シュレージエン)は、三度の蜂起を経て、1921年11月に一部分がポーランド領となった。また、チェシン地方は大半がチェコスロバキアの領土となった。国際連盟は1923年3月にポーランドの国境線を承認したが、大戦間期を通じてポーランドは周辺諸国との間に国境問題を抱え、また、ウクライナ人、ベラルーシ人、ユダヤ人、ドイツ人、リトアニア人など少数民族が人口の3割を超えたために国家統合は困難であった。憲法は1921年3月にようやく制定されたが、大統領権限は弱く、議会では小党が分立し、政党政治は不安定であった。経済面でも分割と大戦の負の遺産を克服することは容易ではなく、国民はインフレーションと失業に悩まされた。このように新生ポーランドの出発は不安を抱えたものであったが、独立の回復は文化面での活性化をもたらし、作家・画家スタニスワフ・イグナツィ・ビトキェビッチ(ビトカツィ)、作曲家カロル・シマノフスキーらが活躍した。
1926年5月、ピウスツキはクーデターによって実権を握り、憲法を修正して大統領権限を強化し、専門官僚や軍部の側近を動かして権威主義的体制をつくりあげた。1928年には「政府翼賛無党派ブロック」を組織し、与党「サナツィア(浄化)」陣営を形成した。1929年に大恐慌が起こるとポーランド経済は大きな打撃を受けた。政治面でも、1930年にピウスツキが野党指導者を逮捕・監禁したうえで総選挙を行ったため、議会政治は危機に瀕した。1934年には権威主義的体制に見合った新憲法が制定されたが、翌1935年にピウスツキは死去した。権威の中心を失って政局は混乱し、極右勢力や反ユダヤ主義が台頭する一方、労働者、農民のストが頻発した。外交面では1934年にポーランドはナチス・ドイツと不可侵条約を結び、1938年にはミュンヘン危機に乗じてチェコスロバキアからチェシン地方を奪った。このドイツ寄りの外交政策は1939年8月の独ソ不可侵条約によって破綻(はたん)し、第二共和制は崩壊を迎えた。
[小山 哲]
第二次世界大戦
独ソ不可侵条約には東欧の勢力圏分割に関する秘密議定書が付されていた。1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵入し、翌2日、英仏がドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦が始まった。ドイツとの取り決めに従ってソ連軍も東から侵攻し、28日にはリッベントロップ=モロトフ線が引かれてポーランドは独ソ間で二分された。ソ連領では約150万人のポーランド系住民がシベリアや中央アジアに流刑になり、捕虜となったポーランド軍将校のうち約4400名が1940年春にスモレンスク西方のカティンの森で虐殺された。ドイツ領ではポーランド人やユダヤ人は劣等民族とみなされ、非人道的な政策がとられた。とくにユダヤ系市民は徹底した絶滅政策の対象となり、ゲットーに隔離され、オシフィエンチム(アウシュウィッツ)をはじめとする絶滅収容所に送られた。ユダヤ人の犠牲者はポーランド出身者だけでも約270万人に上った。1943年春、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人は武装蜂起を起こしたが、徹底的に弾圧された。
第二次世界大戦勃発後、政府はパリ、のちにはロンドンに亡命し、国外から軍事抵抗組織「国内軍」を指揮した。1941年6月に独ソ戦が始まると旧ポーランド領全体がドイツの占領下に入った。7月にはソ連・ポーランド協定が結ばれたが、1943年4月にドイツがカティンの森の虐殺の発見を報じると、亡命政府とソ連との外交関係は断絶した。ソ連は1944年7月にモスクワで共産党員を中心とするポーランド国民解放委員会を発足させた。他方、国内軍は8月にワルシャワ蜂起を起こしたが死者20万人を出して降伏した。結局、ワルシャワの解放は翌1945年1月にソ連軍によって行われ、国民解放委員会が臨時政府として首都に入った。第二次世界大戦中のポーランドの損失は死者603万人(全人口の22%)、総資産の38%に及び、首都ワルシャワの破壊率は80%に達した。
[小山 哲]
社会主義時代
第二次世界大戦はポーランドの領土の変更をもたらした。東方では1943年のテヘラン会談で定められたカーゾン線が、西方では1945年のポツダム会談によるオーデル‐ナイセ・ライン(オドラ=西ヌィサ線)が国境となった。その結果、国土は全体として西方に移動し、面積は2割弱縮小した。旧ポーランド領東部のウクライナ人とベラルーシ人はソ連領に移り、旧ドイツ領のドイツ系住民は強制追放された。その結果、戦後のポーランドは少数民族の比率が2%まで下がり、民族的同質性の高い国家となった。
共産党系の国民解放委員会による臨時政府は、1945年6月、亡命政府の政治家を加えて挙国一致臨時政府となった。1947年1月、農民党を唯一の野党とする総選挙が実施され、当局の露骨な選挙干渉の結果、与党「民主主義ブロック」が圧勝した。翌2月、ボレスワフ・ビエルートが大統領に就任し、10月に農民党党首スタニスワフ・ミコワイチクは亡命した。1948年12月には社共合同(実質的には社会党の解体)が行われて統一労働者党が成立し、事実上、共産党による一党独裁体制が確立した。
統一労働者党内部では、1948年にブワディスワフ・ゴムウカ(ゴムルカ)が民族主義的偏向を理由に党書記長を解任され、スターリン主義化が進んだ。1952年7月にはスターリン憲法を模した新憲法が公布され、国名がポーランド人民共和国となった。しかし、1953年にスターリンが死去し、1956年2月にソ連共産党第20回大会でスターリン批判が行われると、ポーランド国内でもスターリン主義への反動が生じた。6月にはポズナニで労働者の暴動が起こり(ポズナニ事件)、10月にはゴムウカが党第一書記に復帰した。体制はいったんは安定したが、1968年3月、ワルシャワ大学の学生デモをきっかけに政府は取締りを強化し、とくにユダヤ系市民が職を奪われ、国外に追放された(三月事件)。ゴムウカは1968年のソ連によるチェコスロバキアへの軍事介入を支持し、社会主義諸国の制限主権論(いわゆるブレジネフ・ドクトリン)を承認した。1970年には西ドイツとの国交が正常化されたが、経済は停滞気味であった。
1970年12月、食料品の値上げに抗議する労働者のストライキが暴動化し、ゴムウカは辞任して後任にはエドバルト・ギエレクが指名された(十二月事件)。ギエレクは外資導入による経済成長政策を採用したが、対外債務が累積し、1970年代後半に矛盾が表面化した。1976年6月、食料品値上げに労働者は各地でストを起こして抗議し、政府は値上げを撤回した(六月事件)。このころから反体制的な市民運動が活発化し、1976年9月には労働者擁護委員会(KOR)が結成された。1978年にクラクフ大司教カロル・ウォイティワがヨハネ・パウロ2世としてローマ教皇に選出されたことは、国民の宗教意識の新たな覚醒(かくせい)をもたらし、以後の反体制運動の展開にも大きな影響を及ぼした。
1980年7月、食肉の値上げをきっかけに抗議ストが始まり、8月にはグダニスク(グダンスク)で「工場間ストライキ委員会」が結成され、レーニン造船所の電気工レフ・ワレサ(ワウェンサ)が議長に選ばれた。ストは全国に拡大し、譲歩を迫られた政府は労働者側とグダンスク協定を結び、新しい自主管理労組の設立を認めた。9月には独立自主管理労組「連帯」が発足し、ワレサが議長に就任した。ギエレクは辞任し、スタニスワフ・カニア(カーニャ)が後任に選ばれたが、国内の混乱は深刻化し、1981年10月にカニアは辞任し、ボイチェフ・ヤルゼルスキが党第一書記となった。12月、ヤルゼルスキは戒厳令を布告して「連帯」指導部を拘束し、翌年10月に「連帯」は非合法化された。1983年に戒厳令は解除され、ヤルゼルスキは経済改革を唱えたが、膨大な累積債務と国民の不信のために十分な成果はあがらなかった。1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、1988年3月にブレジネフ・ドクトリンの見直しを声明した。この年の春から夏にかけてふたたび労働者のストが頻発し、8月、政府は円卓会議構想を発表、翌1989年2月に政府と反対派は円卓を囲んで交渉に入った。「連帯」は合法化され、6月の部分的な自由選挙で圧勝した。7月に大統領に就任したヤルゼルスキは「連帯」顧問を務めていたタデウシュ・マゾビエツキTadeusz Mazowiecki(1927―2013)を首相に任命し、戦後初の非共産勢力主導の内閣が誕生した。国名は「ポーランド共和国」に改められ、社会主義体制は成立後40年余で終焉(しゅうえん)を迎えた。
[小山 哲]
第三共和制
ヤルゼルスキ大統領は就任後1年で辞任し、1990年の選挙でワレサが新大統領に選ばれた。経済面では、マゾビエツキ内閣の蔵相レシェク・バルツェロビッチLeszek Balcerowicz(1947― )が1990年1月より自由経済への転換を一挙に進めたため、インフレは収束したが失業者は増大し、1993年9月の選挙では「連帯」系諸党が惨敗して旧共産党系の民主左翼同盟(SLD)とポーランド農民党(PSL)の連立内閣が組織された。1995年の大統領選挙でワレサは敗北し、民主左翼同盟のアレクサンデル・クワシニエフスキが大統領に就任した(2000年の大統領選挙でも再選を果たした)。1996年5月、国民投票により第三共和制憲法が承認された。1997年の選挙では旧共産党系が敗れ、ふたたび「連帯」系の連帯選挙行動(AWS)と自由同盟(UW)が連立内閣を構成したが、2000年自由同盟が経済改革をめぐる対立により連立内閣から離脱、連帯選挙行動は少数与党となった。2001年の選挙では、景気低迷などに対して国民が反発し連帯選挙行動は惨敗、旧共産党系の民主左翼同盟が勝利し、民主左翼同盟とポーランド農民党の連立内閣が発足した。しかし2003年3月、ポーランド農民党が農産物価格の政府保証、高速道路料金制度などで民主左翼同盟と対立し連立離脱したため、民主左翼同盟の単独内閣となった。緊縮財政、高い失業率、イラク派兵問題などに対する国民の不満もあり、2005年の選挙では「連帯」系の法と正義(PiS(ピス))が勝利し、同年12月には法と正義のレフ・カチンスキが大統領に就任した。国際社会のなかでは1997年に北大西洋条約機構(NATO)がポーランド、チェコ、ハンガリーの東欧3か国を新規加盟対象国とすることに合意。ポーランドはチェコ、ハンガリーとともに1999年3月に正式加盟した。またEU(ヨーロッパ連合)とは1998年3月より加盟交渉を行い、2004年5月にチェコ、スロバキア、ハンガリーなど9か国とともにEUに正式加盟した。
[小山 哲]
『矢田俊隆編「東欧史」新版(『世界各国史 13』1977・山川出版社)』▽『山本俊郎・井内敏夫著『ポーランド民族の歴史』(1980・三省堂)』▽『P・F・シュガー、I・J・レデラー著、東欧史研究会訳『東欧のナショナリズム 歴史と現在』(1981・刀水書房)』▽『ステファン・キェニェービチ編、加藤一夫・水島孝生訳『ポーランド史』全2冊(1986・恒文社)』▽『木戸蓊・伊東孝之編『東欧現代史』(1987・有斐閣)』▽『伊東孝之著『ポーランド現代史』(1988・山川出版社)』▽『ジョゼフ・ロスチャイルド著、大津留厚監訳『大戦間期の東欧 民族国家の幻影』(1994・刀水書房)』▽『百瀬宏他著『国際情勢ベーシックシリーズ5 東欧』(1995・自由国民社)』▽『中山昭吉著『近代ヨーロッパと東欧――ポーランド啓蒙の国際関係史的研究』(1995・ミネルヴァ書房)』▽『阪東宏著『ポーランド人と日露戦争』(1995・青木書店)』▽『水谷驍著『ポーランド「連帯」消えた革命』(1995・柘植書房)』▽『阪東宏編著『ポーランド史論集』(1996・三省堂)』▽『伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』新版(1998・山川出版社)』▽『伊藤定良著『ドイツの長い十九世紀――ドイツ人・ポーランド人・ユダヤ人』(2002・青木書店)』▽『白木太一著『近世ポーランド「共和国」の再建――四年議会と五月三日憲法への道』(2005・彩流社)』▽『三浦元博・山崎博康著『東欧革命 権力の内側で何が起きたか』(岩波新書)』▽『アンブロワーズ・ジョベール著、山本俊朗訳『ポーランド史』(白水社・文庫クセジュ)』