駿河国(静岡県)の城下町。1869年(明治2)賤機(しずはた)山にちなみ静岡と改称した。古代の駿河国府の所在地。鎌倉時代以来東海道の宿駅として発展し,駿府の呼称は室町時代中期から見られる。南北朝以後,今川氏の守護所が置かれ,戦国大名今川氏の覇府として政治・経済・交通の中心地となり,応仁の乱後,戦乱の京都を避けて三条実望,飛鳥井雅綱,三条西実隆らの公卿,連歌師宗長,宗祇らの文人の往来が相次ぎ,西の山口と並ぶ地方文化の中心地となった。《実隆公記》享禄3年(1530)3月3日の条によれば,〈駿河府中二千余〉が焼失したと伝える殷盛の町であった。商業の中心地は今宿,本町で,友野座が形成され,友野氏は駿府商人頭,松木氏は蔵役・酒役を免許されるなど活発な商業活動があった。68年(永禄11)武田信玄の駿府侵入によって町は灰燼に帰した。1607年(慶長12)徳川家康は駿府を退隠の地と定め,駿府城を拡大し,新たな城下町の町割りを始めた。以後駿府は城下町として再び繁栄する。
駿府城下町は城の南側に町割りされ,96町と称された。大手門と四足門を結ぶ東西の線に平行な街町を縦町とし,それと直角に交差する南北の街町を横町として碁盤目状の町割りをなし,それより東西南に延びる3筋の街町から成り立つ。東海道府中宿にあたる町並みは東の横田見付から伝馬町に至り,呉服町,札の辻,七間町を経て新通川越町の西見付まで28町で,伝馬町に本陣,脇本陣,問屋場があった。城の東・西・北の3面は勤番組が居住する武家屋敷が取り囲み,それぞれ一加番,二加番,三加番が置かれた。家康在城時の人口は10万~12万人といわれたが,16年(元和2)家康死後は政治の中心は江戸に移り,城下町の西側を囲んだ家臣団の居住地は広大な明屋敷となって,のちには田畑となった。25年(寛永2)12月,甲斐中納言徳川忠長が駿府入府に際して,米を城下に配った史料によれば,93町,家数2123であり,92年(元禄5)〈駿府町家数並人数覚帳〉によれば,武家屋敷の人口を除く町人人口は1万7058人であった。幕末の〈東海道宿村大概帳〉によれば宿内(安倍川,毛皮両町を除く駿府惣町)人別1万4071人,家数3673戸であった。町政は駿府町奉行の下に年行事が担当。はじめは駿府商人頭友野氏が町年寄として町政にあたったが,明暦(1655-58)以後各町の丁頭が年行事と呼ばれた。年行事は呉服町以下62町がつとめ,2~3町で21組をなし,順次交替して2年半で一巡した。町会所は雷電寺にあった。地子免除の町は72町とも73町ともいわれ,地子あるいは年貢負担の町は24町であった。駿府は大火が多く元禄年間(1688-1704)に定火消6組が置かれた。用水路も整備され,町奉行が管轄した。城下は米穀不足で駿府城の警備につく勤番組に支給される合力米の払下げに負うこと大であり,清水入港の約3万俵の米穀によって不足を解消してきた。産物は紙子,竹細工,蒔絵,盆山石など。足久保茶は著名。安西,茶町には茶商人が多く,江戸へ送った。
1633年(寛永10)徳川忠長の改易後,駿府城代が置かれていたが,1868年徳川宗家を継いだ家達が70万石で入封した。
執筆者:川崎 文昭
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古代の駿河(するが)国安倍(あべ)郡に置かれた駿河国府の所在地。現静岡市。『万葉集』(巻3、雑歌)の春日蔵首老(かすがのくらおびとおゆ)の歌に出る「阿倍(あべ)の市(いち)」のあった所と考えられ、国衙(こくが)のほか、異説はあるが国分寺・国分尼寺址(し)などもこの地に比定されている。土地の呼称としては、『吾妻鏡(あづまかがみ)』建久(けんきゅう)元年(1190)12月24日条に、源頼朝(よりとも)が京都からの帰途「駿河国府」に泊まったという記載が初見とされる。15世紀前後からは「駿河府中」の呼称が文書などに頻出し、さらに室町中期ごろ、上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱(1416)を境に、その略称「駿府」の名が出てくる。以後、両者は併用されつつも、東海道の宿駅は府中と称し、今川、武田、徳川ら各武将がこの地に構えた居館や城郭にかかわっては駿府と称する傾向がみられ、それぞれ定着していったようである。
駿府は安倍川の形成した扇状地の扇央部分に開けた所である。安倍川の洪水を避けるように賤機山(しずはたやま)の端の麓(ふもと)に鎮座する大歳御祖(おおとしみおや)神社・神部(かんべ)神社(式内社)や平安時代駿河総社(そうじゃ)の一つとして勧請(かんじょう)された浅間(せんげん)神社等々の門前として発達した部分、古代駅制により成立した横田駅の部分、および駿河国府をはじめとする地方政庁等の諸機能が総合されて形成された。とくに今川氏が駿河の守護として駿府に入ったとされる1409年(応永16)以降、漸次膨張し、徳川家康の五か国支配時代(1582~90)の拠点となり、また1607年(慶長12)将軍職を秀忠(ひでただ)に譲った家康が莵裘(ときゅう)(隠棲(いんせい))の地を駿府に定めたことから、駿府城ならびに城下町は整備され、駿府のその後の基盤は確立した。近世の駿府は内藤信成(のぶなり)、徳川頼宣(よりのぶ)および徳川忠長(ただなが)の城地となったが、これらの大名が転封あるいは改易されたのちは駿府城代や駿府代官所などが置かれ、地方政庁の町として栄えた。このほか、東海道府中宿の繁栄および安倍川・藁科(わらしな)川に沿って開けた村々での茶生産の発達とかかわる谷口集落的条件も加えて漸次成長を続けていた。江戸開城とともに所領を削られた徳川宗家は家達(いえさと)を当主として駿府に入ったが、1869年(明治2)維新政府に恭順を示すため、地名を静岡と改めた。
[若林淳之]
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…古代には駿河国府が置かれ,国分寺も建立された。鎌倉時代以降,東海道の宿駅,府中宿として発展し,室町時代中ごろから駿府(すんぷ)の名も用いられるようになった。南北朝時代には今川氏の居館地となって城下町が整備され,一時武田氏の支配下に置かれたが,1607年(慶長12)徳川家康が隠居城として駿府城を築き,16年(元和2)まで大御所政治が行われ,江戸と並ぶ日本政治の中心地となった。…
…徳川・武田両氏の抗争は遠江を中心に展開するが,82年に武田氏が滅亡し,ついで信長が本能寺で討たれた後,家康は三河,遠江,駿河,甲斐,南信濃の5ヵ国を領有した。86年には居城を浜松から駿府に移し,89年から翌年にかけて五ヵ国総検地と七ヵ条定書の交付を行い,領国内の農民支配体制,軍事体制の強化・整備をはかった。しかし90年に後北条氏が滅亡し,家康は豊臣秀吉の命で関東へ転封した。…
※「駿府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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