精選版 日本国語大辞典 「駿府」の意味・読み・例文・類語
すんぷ【駿府】
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古代の駿河(するが)国安倍(あべ)郡に置かれた駿河国府の所在地。現静岡市。『万葉集』(巻3、雑歌)の春日蔵首老(かすがのくらおびとおゆ)の歌に出る「阿倍(あべ)の市(いち)」のあった所と考えられ、国衙(こくが)のほか、異説はあるが国分寺・国分尼寺址(し)などもこの地に比定されている。土地の呼称としては、『吾妻鏡(あづまかがみ)』建久(けんきゅう)元年(1190)12月24日条に、源頼朝(よりとも)が京都からの帰途「駿河国府」に泊まったという記載が初見とされる。15世紀前後からは「駿河府中」の呼称が文書などに頻出し、さらに室町中期ごろ、上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱(1416)を境に、その略称「駿府」の名が出てくる。以後、両者は併用されつつも、東海道の宿駅は府中と称し、今川、武田、徳川ら各武将がこの地に構えた居館や城郭にかかわっては駿府と称する傾向がみられ、それぞれ定着していったようである。
駿府は安倍川の形成した扇状地の扇央部分に開けた所である。安倍川の洪水を避けるように賤機山(しずはたやま)の端の麓(ふもと)に鎮座する大歳御祖(おおとしみおや)神社・神部(かんべ)神社(式内社)や平安時代駿河総社(そうじゃ)の一つとして勧請(かんじょう)された浅間(せんげん)神社等々の門前として発達した部分、古代駅制により成立した横田駅の部分、および駿河国府をはじめとする地方政庁等の諸機能が総合されて形成された。とくに今川氏が駿河の守護として駿府に入ったとされる1409年(応永16)以降、漸次膨張し、徳川家康の五か国支配時代(1582~90)の拠点となり、また1607年(慶長12)将軍職を秀忠(ひでただ)に譲った家康が莵裘(ときゅう)(隠棲(いんせい))の地を駿府に定めたことから、駿府城ならびに城下町は整備され、駿府のその後の基盤は確立した。近世の駿府は内藤信成(のぶなり)、徳川頼宣(よりのぶ)および徳川忠長(ただなが)の城地となったが、これらの大名が転封あるいは改易されたのちは駿府城代や駿府代官所などが置かれ、地方政庁の町として栄えた。このほか、東海道府中宿の繁栄および安倍川・藁科(わらしな)川に沿って開けた村々での茶生産の発達とかかわる谷口集落的条件も加えて漸次成長を続けていた。江戸開城とともに所領を削られた徳川宗家は家達(いえさと)を当主として駿府に入ったが、1869年(明治2)維新政府に恭順を示すため、地名を静岡と改めた。
[若林淳之]
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…古代には駿河国府が置かれ,国分寺も建立された。鎌倉時代以降,東海道の宿駅,府中宿として発展し,室町時代中ごろから駿府(すんぷ)の名も用いられるようになった。南北朝時代には今川氏の居館地となって城下町が整備され,一時武田氏の支配下に置かれたが,1607年(慶長12)徳川家康が隠居城として駿府城を築き,16年(元和2)まで大御所政治が行われ,江戸と並ぶ日本政治の中心地となった。…
…徳川・武田両氏の抗争は遠江を中心に展開するが,82年に武田氏が滅亡し,ついで信長が本能寺で討たれた後,家康は三河,遠江,駿河,甲斐,南信濃の5ヵ国を領有した。86年には居城を浜松から駿府に移し,89年から翌年にかけて五ヵ国総検地と七ヵ条定書の交付を行い,領国内の農民支配体制,軍事体制の強化・整備をはかった。しかし90年に後北条氏が滅亡し,家康は豊臣秀吉の命で関東へ転封した。…
※「駿府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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