九鬼嘉隆(読み)クキヨシタカ

デジタル大辞泉 「九鬼嘉隆」の意味・読み・例文・類語

くき‐よしたか【九鬼嘉隆】

[1542~1600]安土桃山時代の武将。紀伊の人。初め伊勢北畠氏の臣。のち、熊野水軍の長として、織田信長石山本願寺攻めで活躍。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗れて自刃。

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精選版 日本国語大辞典 「九鬼嘉隆」の意味・読み・例文・類語

くき‐よしたか【九鬼嘉隆】

  1. 安土桃山時代の武将。鳥羽城主。定隆の子。大隅守と称する。織田信長、のち豊臣秀吉に仕え、文祿・慶長の役に水軍の将として活躍。志摩・伊勢に三万五千石を領する。関が原の戦いでは豊臣方に属して敗れ、紀伊で自刃。天文一一~慶長五年(一五四二‐一六〇〇

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朝日日本歴史人物事典 「九鬼嘉隆」の解説

九鬼嘉隆

没年:慶長5.10.12(1600.11.17)
生年:天文11(1542)
戦国・安土桃山時代の武将。志摩田城城主九鬼定隆の子で,甥澄隆のあとをうけて九鬼氏家督を継いだ。はじめ,右馬允を称し,伊勢国司北畠氏の配下にあったが,織田信長の力が伊勢におよんできたころから信長に従い,志摩水軍を率いて,信長の伊勢長島一向一揆攻めに戦功をあげている。以後,織田水軍の中心となって活躍するが,大坂の石山本願寺包囲戦では,本願寺を支援する毛利水軍と戦っては常に敗れ,ついに天正6(1578)年,信長から鉄張り軍艦の建造を命ぜられて伊勢大湊で6艘完成させ,摂津木津川河口の戦で毛利水軍を撃破することに成功した。この戦いによって,本願寺に兵糧が運びこまれなくなり,信長勝利の大きな要因となった。その後,鳥羽に城を築いて移り,伊勢・志摩のうちで3万5000石を与えられた。信長死後は豊臣秀吉に従い,天正13,4年ごろには従五位下・大隅守に叙任され,同15年の九州攻め,同18年の小田原攻めでは,ともに水軍の将として戦功をあげている。文禄の役では,朝鮮に渡る豊臣軍の兵員輸送とその警固に功があった。しかし李舜臣の水軍と戦い,敗れている。慶長2(1597)年,家督を子守隆に譲って隠居したが,同5年の関ケ原の戦では西軍石田三成方につき,東軍に属して会津攻めに従軍し留守となった子守隆の居城鳥羽城を攻め,これを奪いとっている。西軍の敗北が決定的な状況で,嘉隆は志摩の答志島内の和具に潜伏した。守隆が己れの戦功に代えて父嘉隆の助命を家康に請い許されたが,その報が届く直前に自刃。

(小和田哲男)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「九鬼嘉隆」の意味・わかりやすい解説

九鬼嘉隆
くきよしたか
(1542―1600)

安土(あづち)桃山時代の武将。右馬允(うまのじょう)、のち大隅守(おおすみのかみ)。志摩国(三重県)田代(たしろ)城主宮内大輔(くないだいぶ)定隆(さだたか)の次男として志摩に生まれる。志摩七島の首領で、初め伊勢(いせ)国司北畠(きたばたけ)氏に属する。1569年(永禄12)織田信長に仕え、74年(天正2)7月伊勢長島の一向宗徒(いっこうしゅうと)攻撃のとき、大安宅船(おおあたけぶね)(50梃櫓(ちょうろ)の大型船)10余艘(そう)で攻め、78年摂津石山本願寺攻めにも50余艘の水軍を率いて活躍、のち鳥羽(とば)に築城。伊勢・志摩両国のうち3万5000石を領知。信長死後、豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、87年の九州征伐、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)両役には水軍の将として功績をたてた。97年(慶長2)所領3万石を子守隆(もりたか)に譲り、自らは5000石を隠棲(いんせい)料としたが、関ヶ原の戦いには西軍に属し、父子敵味方に分かれて戦った。敗北後は鳥羽湾の答志(とうし)島に隠れたが、守隆の家老の勧めで、慶長5年10月12日洞仙庵(とうせんあん)で自刃、鳥羽の常安(じょうあん)寺に葬られた。守隆による南勢五郡にかえての助命嘆願がいれられ、赦免状が鳥羽へ届く以前のことであったという。なお鳥羽市答志町和具(わぐ)には首塚がある。

[原田好雄]

『中岡志州編『鳥羽志摩新誌』(1970・中岡書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「九鬼嘉隆」の意味・わかりやすい解説

九鬼嘉隆 (くきよしたか)
生没年:1542-1600(天文11-慶長5)

安土桃山時代の武将。右馬允,大隅守と称す。志摩国田木城主宮内大輔定隆の次男。志摩波切を根拠として付近の土豪を制圧し,勢力を伸ばした。初めは伊勢国司北畠氏に属したが,永禄末年より織田信長に従い,1569年信長の北伊勢攻略の際の功により志摩一国を与えられたという。その後は,長島の一向一揆攻撃,石山本願寺攻撃等に配下の海賊衆を率いて参加,海路をふさぐなどして活躍した。信長の死後は豊臣秀吉の下で,文禄・慶長の役等に水軍の将として功をあらわした。鳥羽城に拠り,3万5000石を領して,織豊政権の水軍組織の中心的存在であった。97年,家を子守隆に譲り,みずからは隠居料5000石を受けて致仕。関ヶ原の戦には,守隆は東軍,嘉隆は紀伊新宮城主堀内氏善とともに西軍につき,父子相戦ったが,西軍の敗戦により,守隆の徳川家康への助命嘆願が許されたにもかかわらず,自殺した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「九鬼嘉隆」の意味・わかりやすい解説

九鬼嘉隆
くきよしたか

[生]天文11(1542).志摩
[没]慶長5(1600).10.12. 紀伊
安土桃山時代の武将。定隆の次男。甥澄隆の死後,家を継いだ。右馬允,大隅守。代々志摩国内田城に住し,初めは北畠氏に仕えたが,永禄 12 (1569) 年,織田信長が北畠具教を攻めるや,信長に款を通じ,以来信長の麾下となり,水軍を率いてこれに従った。天正2 (74) 年伊勢長島の一向一揆,同5年紀伊雑賀の一向一揆を海上から攻撃し,また翌6年の石山本願寺との合戦に際しては,本願寺側の援軍である毛利の水軍と対戦してこれを打ち破った。信長の死後,豊臣秀吉に仕え,四国,九州の両役 (→四国征伐 , 九州征伐 ) ,文禄・慶長の役に際しても水軍の将として軍功があり,鳥羽城主となり,3万 5000石を領した。秀吉の死後,徳川家康と和せず,関ヶ原の戦いには,その子守隆が東軍に属したが,嘉隆は西軍に属して敗れた。戦後家康に許されたが,紀伊で自殺した。 (→九鬼氏 )

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百科事典マイペディア 「九鬼嘉隆」の意味・わかりやすい解説

九鬼嘉隆【くきよしたか】

安土桃山時代の武将。志摩(しま)の人。初め伊勢(いせ)国司北畠氏に属し,次いで織田信長に従い,熊野海賊を率いて石山本願寺攻撃などに活躍。信長の死後,豊臣秀吉の水軍の将として文禄・慶長の役などに出陣。鳥羽城主として志摩・伊勢に3万5000石を領す。関ヶ原の戦で西軍に属し,戦後自刃(じじん)。→鳥羽藩
→関連項目水軍

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「九鬼嘉隆」の解説

九鬼嘉隆 くき-よしたか

1542-1600 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)11年生まれ。九鬼守隆(もりたか)の父。志摩(三重県)鳥羽藩主九鬼家の祖。織田信長,豊臣秀吉につかえる。志摩水軍をひきいて長島の一向一揆(いっき)攻撃,朝鮮出兵などに功をたて,伊勢(いせ)・志摩に3万5000石を領する。関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ,子の守隆が助命を嘆願していれられたが,慶長5年10月12日知らせの到着前に自害。59歳。

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世界大百科事典(旧版)内の九鬼嘉隆の言及

【水軍】より

…旧来の海賊衆が,みずから戦国大名に上昇する場合もある。熊野水軍(海賊)に出自をもつ九鬼嘉隆は,織田信長の北伊勢攻撃の際に船将として参加し,志摩一国を与えられて鳥羽に居城した。同じく熊野海賊出身の堀内氏善(紀伊新宮)や杉若氏宗(紀伊田辺)も大名化している。…

【答志島】より

…古墳が多く,島で最大の岩屋ヶ原古墳は標高約130mの山頂にある。中世に九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆自害の地で,首塚と胴塚がある。【藤本 利治】。…

【鳥羽藩】より

…志摩国(三重県)に置かれた藩。伊勢国司北畠氏に属した九鬼嘉隆が土豪を制圧し,1580年(天正8)鳥羽に入って築城,城は大手を海に開き,〈鳥羽の浮城〉といわれた。〈水軍の将〉として織田信長,豊臣秀吉に仕えて3万5000石の大名となり,守隆のとき5万5000石,久隆のとき3万6000石になって移封。…

※「九鬼嘉隆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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