(小和田哲男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
安土(あづち)桃山時代の武将。右馬允(うまのじょう)、のち大隅守(おおすみのかみ)。志摩国(三重県)田代(たしろ)城主宮内大輔(くないだいぶ)定隆(さだたか)の次男として志摩に生まれる。志摩七島の首領で、初め伊勢(いせ)国司北畠(きたばたけ)氏に属する。1569年(永禄12)織田信長に仕え、74年(天正2)7月伊勢長島の一向宗徒(いっこうしゅうと)攻撃のとき、大安宅船(おおあたけぶね)(50梃櫓(ちょうろ)の大型船)10余艘(そう)で攻め、78年摂津石山本願寺攻めにも50余艘の水軍を率いて活躍、のち鳥羽(とば)に築城。伊勢・志摩両国のうち3万5000石を領知。信長死後、豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、87年の九州征伐、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)両役には水軍の将として功績をたてた。97年(慶長2)所領3万石を子守隆(もりたか)に譲り、自らは5000石を隠棲(いんせい)料としたが、関ヶ原の戦いには西軍に属し、父子敵味方に分かれて戦った。敗北後は鳥羽湾の答志(とうし)島に隠れたが、守隆の家老の勧めで、慶長5年10月12日洞仙庵(とうせんあん)で自刃、鳥羽の常安(じょうあん)寺に葬られた。守隆による南勢五郡にかえての助命嘆願がいれられ、赦免状が鳥羽へ届く以前のことであったという。なお鳥羽市答志町和具(わぐ)には首塚がある。
[原田好雄]
『中岡志州編『鳥羽志摩新誌』(1970・中岡書店)』
安土桃山時代の武将。右馬允,大隅守と称す。志摩国田木城主宮内大輔定隆の次男。志摩波切を根拠として付近の土豪を制圧し,勢力を伸ばした。初めは伊勢国司北畠氏に属したが,永禄末年より織田信長に従い,1569年信長の北伊勢攻略の際の功により志摩一国を与えられたという。その後は,長島の一向一揆攻撃,石山本願寺攻撃等に配下の海賊衆を率いて参加,海路をふさぐなどして活躍した。信長の死後は豊臣秀吉の下で,文禄・慶長の役等に水軍の将として功をあらわした。鳥羽城に拠り,3万5000石を領して,織豊政権の水軍組織の中心的存在であった。97年,家を子守隆に譲り,みずからは隠居料5000石を受けて致仕。関ヶ原の戦には,守隆は東軍,嘉隆は紀伊新宮城主堀内氏善とともに西軍につき,父子相戦ったが,西軍の敗戦により,守隆の徳川家康への助命嘆願が許されたにもかかわらず,自殺した。
執筆者:加藤 真理子
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…旧来の海賊衆が,みずから戦国大名に上昇する場合もある。熊野水軍(海賊)に出自をもつ九鬼嘉隆は,織田信長の北伊勢攻撃の際に船将として参加し,志摩一国を与えられて鳥羽に居城した。同じく熊野海賊出身の堀内氏善(紀伊新宮)や杉若氏宗(紀伊田辺)も大名化している。…
…古墳が多く,島で最大の岩屋ヶ原古墳は標高約130mの山頂にある。中世に九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆自害の地で,首塚と胴塚がある。【藤本 利治】。…
…志摩国(三重県)に置かれた藩。伊勢国司北畠氏に属した九鬼嘉隆が土豪を制圧し,1580年(天正8)鳥羽に入って築城,城は大手を海に開き,〈鳥羽の浮城〉といわれた。〈水軍の将〉として織田信長,豊臣秀吉に仕えて3万5000石の大名となり,守隆のとき5万5000石,久隆のとき3万6000石になって移封。…
※「九鬼嘉隆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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