日本歴史地名大系 「亀島村」の解説
亀島村
かめしまむら
慶長検地郷村帳によると村高一一九・〇四石、それが延宝九年(一六八一)の延高によって二四四石余となった(天和元年宮津領村高帳)。免はたとえば寛文一一年(一六七一)元高のままの時代に九ツ八分で取米一一六石余、宝永七年(一七一〇)延高以降の時代では平均五ツ三分一厘三毛で取米一三〇石余であった。このほか寛文度は肴運上三一〇匁四分、鰤運上六二一本分二貫八五六匁六分、宝永度は肴運上は前に同じであるが鰤運上は七六五本分三貫五二三匁六分がかかった(丹後伊禰浦漁業史)。
近世初めには漁場は伊根湾内であったが、漸次湾外に広がり、鰤・鮪漁そのほか鰹刺網・柔魚締網などが盛んであった。初め肴運上銀三一〇匁四分、鰤運上は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報