慈眼寺(読み)じげんじ

精選版 日本国語大辞典 「慈眼寺」の意味・読み・例文・類語

じげん‐じ【慈眼寺】

大阪府大東市野崎にある曹洞宗の寺。山号は福聚山。行基の創建と伝えられる。本尊は十一面観音。近世、大坂商人の信仰が厚く、春秋二回の法会は野崎詣(もうで)として知られた。野崎観音

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日本歴史地名大系 「慈眼寺」の解説

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]一宮町末木

一宮町役場の南側、勝沼かつぬまバイパスに沿う寺。金剛山実相院慈眼寺と号し、真言宗智山派。本尊は千手観音菩薩。真言七檀林の一つ。草創の経緯は不詳だが、「寺記」によれば文治年間(一一八五―九〇)宥日の中興開山と伝える。

「高白斎記」天文二一年(一五五二)八月一五日条に「府中ノ屋敷ノ鍬立始、並慈眼寺ノ西の造作」とみえる。武田信玄が五〇〇貫の寺領を寄進、永禄年間(一五五八―七〇)には一〇間四面の薬師堂を建立して武運長久を祈ったと伝える(寺記)。同一一年三月の越後進攻に際しては信濃国長沼ながぬま(現長野市)で、当寺および法善ほうぜん(現若草町)薬王やくおう(現三珠町)など甲斐国内の一一ヵ寺に対し戦勝祈願を依頼している(三月二日「武田信玄廻文写」慈眼寺文書)

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]大東市野崎二丁目

飯盛いいもり山の中腹、河内平野を一望にできる地に南面して本堂が建つ。福聚山と号し曹洞宗。本尊は行基手彫と伝える十一面野崎観音。もと法相宗あるいは真言宗だったと伝える。由来は宝永五年(一七〇八)鋳造の当寺鐘銘に詳しい。平安時代、一条天皇の頃(九八六―一〇一一)摂津江口えぐち(現東淀川区)の長者(江口の君)が、長の患いに苦しんで大和の長谷観音に病気平癒を願ったところ、河内の福聚山は長谷と同じ霊場である、汝の家にも近いからそこに参詣して祈るようにとの夢告を受けた。早速慈眼寺に参り七昼夜籠って祈ると、たちまち難病が治り、長者は報恩のため堂を建立した。次いで弘長元年(一二六一)に僧実慶が入住し、寺の縁起を書き、次いで永仁二年(一二九四)には僧入蓮が秦氏と協力し、九重の石塔を建てた(これは今も山中に残る)

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]今庄町小倉谷

田倉たくら川の中流域、小倉谷おぐらたに集落の東方山麓にある。普門山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。開創は嘉慶元年(一三八七)で、天真自性を開山とする。能登総持そうじ寺末。「帰鴈記」は次のように記す。

<資料は省略されています>

天真の弟子九人のうち四人がそれぞれ機堂派・快翁派・英仲派・希明派と称して、全国に法系を伸ばした。この四派は輪番で交互に慈眼寺の住持を勤め、同様に本山総持寺にものぼった。盛時には寺内に月叟げつそう寺・黙味もくみ庵・金剛こんごう寺・菩提ぼだい庵・福田ふくでん庵・自得じとく庵などの塔頭一二、賢孝けんこう庵・木曾こそ庵などの尼庵四があり、越前国の内外に末派寺院一千二〇〇余院を有する大寺であった。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]河北町谷地

谷地やちにあり、旧松橋まつはし村の東端、旧大町おおまち村との境界に近い。簾珠山と号し、曹洞宗。本尊聖観音。寺伝によると、中条氏二代駿河守長国が父秀長(法号慈眼寺殿鑑翁俊徳大居士)を弔うため、永享年中(一四二九―四一)越前国洞源どうげん(現福井県小浜市)二世簡仲尚遠を勧請して開山したという。簡仲尚遠は宝徳三年(一四五一)没。当寺には中条家に関する文書が所蔵される。応永三年(一三九六)八月九日の藤原家継充行状にみられる「上田鍋」の地は、下工藤小路しもくどうこうじ村の枝郷である弥勒寺みろくじ下の古沢ふるさ川沿いにあった。同じく応永一三年正月一三日の藤原家継安堵状にある「小堤郷」は田井だい村南西部、「少見郷」は田井村と道海どうかいの中間で、最上川に沿う地であった。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]小千谷市寺町

旧市街地のほぼ中央にある。真言宗智山派、船岡山と号する。本尊は泰澄作と伝える聖観音と弘法大師作と伝える木羽観音。もと五智院末。古くは池源ちげん寺と称した。寺伝によると、朱鳥元年(六八六)没の薩明が土川つちかわの地蔵堂にとどまり池源寺を造立したとある。ほかに貞観二年(八六〇)真雅の開基とするものと、天武元年(六七二)草創説がある。池源寺はのちに上弥彦かみやひこ神社(現魚沼神社)の別当寺となり、上弥彦神社とともに農耕用水の守護として信仰があった。寛永年間(一六二四―四四)に上弥彦社の祭礼を土川村にまかせて寺号を慈眼寺と改めたとするので、この頃阿弥陀堂を残して現在地に移ったとみられる。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]北方町子

曾木そき川東岸の丘陵上の下曾木にある。弘誓山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。「宮崎県史蹟調査」によれば、天文元年(一五三二)の創建で、開基は甲斐周防守重吉、開山は伝応宗達、中興開山は台雲だいうん(現延岡市)五世霊峰。「日向地誌」は貞享元年(一六八四)の創建で、開山は霊峰と記す。幕末の勤皇僧胤康が住持をしていた寺として知られる。胤康は篠崎郷右衛門の長男として武蔵国豊島としま赤塚あかつか(現東京都板橋区)に生れた。六歳の時に仏門に入り同村の松月しようげつ院の大隣天休に師事した。一二歳の時に天休とともに北方村曾木に住し、当寺へ入った。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]三木市久留美

祝融山と号し、曹洞宗。本尊は千手観音。大化四年(六四八)法道開基と伝える。暦応二年(一三三九)赤松円心が再興し、大徹を招いて開山としたという(美嚢郡誌)。大徹の高弟竺仙得仙は康暦二年(一三八〇)、畠山氏の保護を得て摂津吹田に護国寺を、竺仙の法弟天巌宗越は摂津池田に大広だいこう寺を、同じく禅室宗安は加東かとう東条とうじよう(現東条町)に真光寺(現廃寺)を開くなど、大徹派は湯山ゆのやま越で西へ教線を伸ばしている。もしこの動きのなかで当寺が再興されたのだとすると、開山は竺仙で、大徹を勧請開山として別所氏の先祖が開いたと考えることができる(兵庫県史)

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]大宮市水判土 堀之内

普光山浄蓮じようれん院と号し、天台宗。本尊は大日如来。開山年次は明らかではないが、慈覚大師の開山と伝える。古くは蓮華寺と号したという(風土記稿)。現浦和市氷川女体ひかわによたい神社蔵の大般若経識語に「水判土慈眼房」とみえ、武蔵における小田原北条氏と太田氏の抗争の最中、永禄五年(一五六二)一月二六日北条軍の放火により焼失したと注記がある。天正一五年(一五八七)一二月二七日、太田氏房から道也(太田氏資)の証文に任せ祈念所として諸役免除を安堵された(「太田氏房印判状」慈眼寺文書)。同一八年五月には小田原攻めの豊臣方から、当寺と末門に三ヵ条の禁制が出されている(「某禁制写」同文書)

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]宮古市山口

山口やまぐち地区の南部橋場はしばにある。如意山と号し曹洞宗。本尊は釈迦如来。「岩手県下閉伊郡志」によれば元亀年中(一五七〇―七三)胆沢郡永徳えいとく(現金ヶ崎町)九世青文中の開創と伝える。江戸時代には千徳せんとく善勝ぜんしよう寺末で、報恩ほうおん(現盛岡市)の支配下にあった(邦内郷村志)。享保(一七一六―三六)の頃に庫裏を、文化五年(一八〇八)に本堂を再建。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]春日井市下市場町

下市場しもいちばの中ほど内津うつつ川の北にある。青柳山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観世音菩薩。寺伝によると、創建は大永六年(一五二六)と伝えられ、開祖は養拙自牧。二代万室長吉が大草おおくさ(現小牧市)から来て、文化元年(一八〇四)法地となった(過去帳)。江戸時代は大草村の福厳ふくごん寺末で、「寛文覚書」に「寺内三畝六歩 備前検除」とある。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]稲沢市子生和町

大江おおえ川の東にあり、無量山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊阿弥陀如来。境内六六〇坪。永徳元年(一三八一)円光大照(滅宗宗興)の創建で、寛文一一年(一六七一)村の中央(現在観音寺がある所)から現在地へ移った。元禄四年(一六九一)慈眼庵を寺号に改めた(徇行記)。当寺の北に八幡宮があったが、宝暦五年(一七五五)境内に移し、その地一反四畝二〇歩は前々より除地で当寺の控地となった(天保村絵図、徇行記)

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]上京区七番町

山門は出水でみず通に南面する。福聚山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音坐像。天正一六年(一五八八)鷹司信房の北方(岳星院)が父佐々陸奥守成政の菩提を弔うため、大雲永瑞を開山として西陣石屋辻子にしじんいしやずし(現上京区)に建立した(雍州府志)。のち寺町丸太てらまちまるた(現同区)に移り、寛文三年(一六六三)現在地に再建された(拾遺都名所図会)。大雲永瑞は織田信長の父信秀の伯父で、天文九年(一五四〇)信秀建立の尾張万松ばんしよう(現愛知県名古屋市中央区)の開山だが、すでに永禄五年(一五六二)死亡しているので、永瑞の名を借りた開山と思われる。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]南牧村千原 小千原

南牧川の左岸にある。天台宗、西光山普光院と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によると、建久六年(一一九五)伊豆国久須美くすみ(現静岡県伊東市)より工藤祐経の母慈眼尼が来村し、北部の藤塚ふじつかに一寺を建立したのに始まり、のち川の暴水により流失し、天正年間(一五七三―九二)現在地に再建したという。寛永一四年(一六三七)工藤栄秀が堂宇を改修し中興開山となる。慶安二年(一六四九)朱印地一二石を賜る。享保―文化期(一七一六―一八一八)に火災にあい諸堂は焼失したが、それぞれ再建する。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]高崎市下滝町

井野いの川下流左岸際にある。高野山真言宗、華敷山補陀落院と号し、本尊は観音菩薩。聖武天皇の頃、東大寺良弁の開基と伝え、「寺沿革」には文和年間(一三五二―五六)に筑紫の乗弘大徳が諸国巡行中この地に至り、中興開山となったと記される。歴代住職墓地には「当寺開山法印乗弘」と記された明徳四年(一三九三)八月九日銘の五輪塔がある。徳川家光よりの寺領三〇石の朱印状があり、寛政二年(一七九〇)寺社奉行所へ宛てた絵図面(寺蔵)などによると院号・坊号がつく塔頭一〇のほか末寺は八八ヵ寺を数えた。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]天白区天白町平針 大根ヶ越

黒石くろいし山林の麓にあり、秋葉山と号し、曹洞宗。本尊観世音菩薩像。寺伝によれば、大同四年(八〇九)遠江国三尺坊尊が京都からの帰途真筆を残したとあり、永禄三年(一五六〇)信長が桶狭間おけはざま合戦の勝利祈願を行い三尺坊尊像を奉納したという。「徇行記」「尾張志」ともに「観音堂」とのみ記す。「徇行記」は曹洞宗の寺院秀伝寺について詳述し、慶長一七年(一六一二)家康が平針ひらばり村菩提寺について問うたところ「昔ヨリ秀伝寺ト申寺并二塔司有之シカ仏法庵今ノ秋葉堂是也、一ツハ慈眼庵今ノ観音堂是也」との庄屋の答えを記している。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]小田原市城山二丁目

谷津やつ集落の西北、入谷津いりやつにある。福聚山無量寿院と号し、黄檗宗。本尊は阿弥陀三尊。大久保氏内庵の一つ。「風土記稿」によれば、元禄一六年(一七〇三)の小田原大地震による小田原府内の死者追福のため、府川ふかわ村の廃寺西光さいこう寺の引寺号を許され、慈眼寺と改めて現在地に建立したという。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]中里村貝野 小沢

宮中みやなか堀之内ほりのうちの集落背後の山裾の小沢おざわにある。曹洞宗、福聚山と号し、本尊聖観音。もと智泉ちせん(現十日町市)末。慶長一六年(一六一一)雲高玄瑞の創建と伝える。現在の堂宇は寛延元年(一七四八)の再建で、同年の棟札によると、仏殿が古くなり朽壊の状態であったため、釣翁栄舟が改造を志した。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]古川町袈裟丸

袈裟丸けさまる集落の北部山麓の高台にあり、福聚山と号し、曹洞宗。本尊馬頭観音。もと真言宗宮谷きゆうこく寺の塔頭であったが衰微し、元和三年(一六一七)高山素玄そげん寺六世竹翁融存が中興、曹洞宗としたという。秘仏馬頭観音は飛騨七観音の第六番霊場として信仰を集めている。

慈眼寺
じげんじ

[現在地名]新居浜市西の土居町二丁目

金子かねこ山の東麓にある。山号は正法山。曹洞宗。本尊聖観世音菩薩。

元和四年(一六一八)金子城主歴代の菩提を弔うために、居館跡に建立された。境内上手に金子備後守元宅の供養塔(鎌倉期宝篋印塔の一部)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「慈眼寺」の解説

慈眼(じげん)寺〔大阪府〕

大阪府大東市にある寺院。曹洞宗。山号は福聚山。天平勝宝年間(749~757)の創建とされる。本尊は十一面観世音菩薩。通称、野崎観音。元禄期に流行した「野崎参り」で知られる。

慈眼寺〔山梨県〕

山梨県笛吹市にある真言宗の寺院。江戸前期に建てられた茅葺きの本堂、庫裏、鐘楼門は国の重要文化財に指定されている。

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事典 日本の地域遺産 「慈眼寺」の解説

慈眼寺

(滋賀県守山市吉身1-7-30)
近江水の宝」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「慈眼寺」の意味・わかりやすい解説

慈眼寺
じげんじ

野崎観音

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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