平田村
ひらたむら
[現在地名]宿毛市平田町戸内・平田町中山・平田町黒川
平田川流域およびその支流の上流域を村域とし、戸内・中山・黒川の三地区に大別され、北部の戸内・中山を宿毛街道が通る。「土佐州郡志」は「去
宿毛東
二里許、村中有
東西往返之大路
、東西一里許南北三十町許、戸凡三百五十余、戸内・黒川・岡松・寺尾・寺山・下加勢・串岡・久礼之川、八処総曰
戸内村
」と記す。八所のうち岡松・寺尾・寺山・久礼ノ川は現在も通称として残る。
古代には枚田郷の中心であったと考えられており、戸内には式内社高知坐神社が鎮座、同社境内からは弥生土器・打製石斧が出土し、平田川を隔てた丘陵先端部には前方後円墳曾我山古墳があった。近くから近年二基の円墳(高岡山古墳群)も発見されている。東寺尾遺跡は古墳時代の土師器や須恵器を出土し、寺山の延光寺には延喜一一年(九一一)の銘のある梵鐘が伝存し、鎌倉時代のこの地の豪族平田太郎俊遠や室町時代の一条房家の墓と伝えるものもある。
応徳二年(一〇八五)一一月一二日付の福良専当外二名連署堺定書(安芸文書)に「平田くしは、あへかゑりおちかはい(下略)」とみえ、「あへかゑり」は「鮎返り」で、足川の上流の滝の所、「おちかはい」は「おにがはい」のホノギが久礼ノ川にあるので同所かと推測されている(宿毛市史)。
平田村
ひらたむら
[現在地名]伊根町字平田
伊根湾のいちばん奥まった所に位置する古い漁村である。伊禰浦三ヵ村の一。宮津藩領。
慶長検地郷村帳によると、高七九・六五石であったのが延宝九年(一六八一)の延高によって一五八石余となった(天和元年宮津領村高帳)。ほぼ一〇割の伸びである。慶長七年(一六〇二)の丹州与佐郡伊禰庄平田村御検地帳(「丹後伊禰浦漁業史」所引)によれば、当村分と思われる名請人数五二人、ほかに屋敷持の分に名を記さず単に「後家」として出るもの四、「あき人」一、計五軒がある。それらを含めて屋敷持は三五軒、そのうち田畑の名請人にあがらず屋敷持のみにあがるものに、「ろう人某・定使・てら・ほうす・はちひらき・あきんど・とね某」および先の後家四、あき人一を含め合計一六軒がある。屋敷持三五軒のうちの後家四軒が海難と結びつくものかどうかは実証できない。刀禰は屋敷持のなかに三軒あるが幾家族になるかは、親子屋敷を別にもつ場合があるから、この検地帳だけでは確認できない。
平田村は亀島村とともに伊禰浦における古い漁村で、早くから鰤漁業が開け、鰤刺網・鮪台網・鰹刺網・柔魚締網・越中網・延縄・海豚猟などが行われた。
平田村
ひらたむら
[現在地名]大山田村平田
鳳凰寺村・中村などの西に位置する。服部川は当村のほぼ中央部を西流する。全村ほとんど耕地で南部の一部に山地がある。飛地は鳳凰寺村の東に西教山(六八二・二メートル)、鳳凰寺村の東北方に鳥坂谷という山地と、その西の陣原と、富岡村地内に数ヵ所を有する。これらの飛地はいつ頃から平田村有になったか分明でないが、江戸時代しばしば山論の対象になった。中野川は南東方の喰代村(現上野市)より流れ、当村の平地の南部を流れるが、中野川と服部川に挟まれた地域が中島小場である。集落は中島と服部川の北に形成されている。
古墳群は当村の南山麓の野台に一―三号墳、同じく南丘陵の向山に一―五号墳、中野川の南の下中島に一―三号墳の、いずれも円墳があり、横穴式石室の確認できるものもある。
平田村
ひらたむら
[現在地名]北房町上水田
中津井村および下呰部村の東にあり、備中川とその支流中津井川の合流点一帯に広がる。落合往来が通る。当地小殿には英賀郡衙跡と推定される遺跡があり、また郡神社が鎮座することから、英賀郡の政治的中心であったと考えられている。
寛永備中国絵図にみえる水田村に含まれたと思われ、同村の高二千六九二石余。正保郷帳では水田村の高二千七四二石余、枝村として下水田・井殿・菅野・境の四村を記す。水田は古代英賀郡水田郷(和名抄)の遺称とされ、現御津郡加茂川町にある鴨神社の神領があった(「加茂庄惣社縁起」菱川文書)。
平田村
へいたむら
[現在地名]釜石市平田
閉伊郡沿岸部の最南に位置し、東に細長く尾崎半島が突き出し、釜石湾を抱く。西は甲子村、北は釜石村、南は板木山(四三六メートル)・篠倉山(五六九・九メートル)の山嶺を境に仙台藩領気仙郡唐丹村。藩領境の村で、境目番所が置かれた。正保国絵図に桐ヶ浦仙台領境とあり、元禄一四年(一七〇一)の境目絵図(宮城県立図書館蔵)には「鷲巣崎 嶺通領境」と記す。釜石村から南進してきた浜街道が唐丹村に向かう。永正五年(一五〇八)の糠部郡九箇部他馬焼印図(古今要覧稿)に「へいた」とある。正保国絵図に村名がみえるが、「無所務」とあり、貞享元年(一六八四)南部領高郷村帳も同様。寛保三年(一七四三)の大槌通役高除高書帳(川崎文書)によると高六六石余、うち三石五斗余は仙台領境目佐須浜古人、年貢米諸役舫金とも御免、残る六三石余が役高とある。
平田村
ひらたむら
[現在地名]岩国市平田一―六丁目の全域と南岩国町一―三丁目・灘町の各一部分
川西村の南、海土路村の北、牛野谷・門前両村の西にある。三方は山地であるが、東南部は開けて平地が多い。
寛永二〇年(一六四三)に岩国庄を分割してできた小村の一つで、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に村名が出る。「享保増補村記」によると、村内には入野・中山・平田・大応・天地の小名がある。
天地の東方江頭山の端に一里塚があり、岩国町札場より一里、黒磯の塚へ一里であったが、近世初期にはその辺りまで入海であったという。
平田村
へだむら
[現在地名]川南町平田、高鍋町持田
大池村の東、猪窪村の南に位置し、南は持田村(現高鍋町)、東は日向灘に面する。村のほぼ中央部を平田川が蛇行しながら東流し、日向灘へ注ぐ。「へいだ」とも読み、「日向地誌」には「ビウタ」と振仮名が付される。持田村内に飛地鴫野郷がある。「日向記」によると、文明一二年(一四八〇)平田方九〇町は伊東祐国の知行地となっている。伊東氏領下の神社領を書上げた弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)には平田大明神領として平田方に一町七反余がみえ、観音堂が神宮寺の役割をしていたとみられ、屋敷として大宮司屋敷に名子屋敷三ヵ所がみえる。ここでは伊東氏代官に夫丸を出すこととなっていた。
江戸時代高鍋藩平田郷は当村一村で構成されていたが、飛地鴫野は平田郷には含まれず、単独で鴫野郷を構成していた(高鍋町の→鴫野郷)。
平田村
ひらたむら
面積:九三・五三平方キロ
阿武隈高地の山間部、石川郡の北東部に位置し、北は郡山市、田村郡小野町、東はいわき市、南は東白川郡古殿町、石川町、西は玉川村・須賀川市。北西端に蓬田岳(九五二・二メートル)、北東端に十石山(七一八・一メートル)、南東端に芝山(八一九・二メートル)などがそびえ、これらの山々などから発した小河川は北須川や平田川となり、町域内を西流する。石川町地内の北須川に千五沢ダムが建設されたため、現在は当村および石川町・玉川村にまたがる母畑湖が形成されており、平田川もこれに流入する。蓬田岳は日本武尊や坂上田村麻呂の伝承でも知られるが、山頂付近には菅布禰神社が祀られ、村域内にも多数の菅布禰(菅船)神社が分布する。
平田村
ひらたむら
[現在地名]福島市飯坂町平野
上飯坂村の南に位置し、西は飯塚村。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫北郷として「ひら田」とあり、段銭は三貫七〇〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録によると、あかま備中に平田のうち「かうしやく」、大塚将監に平田郷の小三郎在家が与えられており、いずれも小字名として残る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五〇四石余。近世初期の邑鑑によると免二ツ五分、家数二二(役家九、肝煎一、寺・山伏・脇家一二)、人数五六。米沢藩領時代の古高一千九一石余、幕府検地による新高七四六石余(古高新高帳)。
平田村
ひらたむら
[現在地名]但東町平田
正法寺村の南東、出石川の流域に位置し、出石・福知山道が通る。
〔中世〕
雀岐庄東方(領家方)の一村で、南北朝時代の相論の具書中に関係史料が伝わる。貞和四年(一三四八)二月二二日付の但馬国守護今川頼貞注文案(広橋家文書、以下断りのない限り同文書)に、大高山に拠った凶徒(南朝方)与同輩跡の一として「雀岐庄内平田村法勝寺領公文志津田彦三郎入道」が記される。志津田彦三郎入道の跡地である当村は、栗尾村・小谷村・増法寺村などとともに門真左衛門尉寂意に与えられたが、寂意は平田・小谷・増法寺三村の領家職を押領したとして、貞和五年三村の領家坊門為名家から幕府に提訴され、次いで以後応安元年(一三六八)にかけて太田孫太郎や名主庄官らが三村の領家職を違乱したとして為名家は幕府や守護に提訴し、そのつど勝訴の裁決を受けている(貞和五年一二月二五日室町将軍家御教書案・応安元年八月二七日但馬国守護長道全書下案など)。
平田村
ひらたむら
[現在地名]西区野南町・城西町・城町・平出町・円明町・浮野町・西原町・平中町・山木・中沼町・上橋町・長先町・見寄町・木前町・十方町・新木町・丸野
新川の西北にある。東を上小田井村・中小田井村、南を阿原村(現西春日井郡新川町)と接する。村の東北を岩倉街道が通っていた。天正一一年(一五八三)と考えられる織田信雄判物(生駒家文書)に「ひら田」とみえる。寛文一一年(一六七一)の家数一九八、人数一千三三(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田畑一五二町一反余、概高二千八二八石余のうち、一千七八六石余が志水甲斐守をはじめとする藩士三二人の給知。
平田村
ひらたむら
[現在地名]別府市平田町・照波園町・亀川東町・上平田町
野田村の東、平田川河口の扇状地に位置し、東は別府湾に面する。慶長五年(一六〇〇)二月の速見郡・由布院知行方目録写(北九州市立歴史博物館蔵)に「ひら田」とみえ、「かんなわ」と一括して高付されている。当時は細川忠興領で、以後の領主の変遷は野田村と同じ。正保郷帳には竈門庄に属する平田村がみえ、田方一四一石余・畑方一三三石余。寛延元年(一七四八)の横灘中竈門人数等改帳(秋吉家文書)によると竈数八九・人数三九七、牛二六・馬四、田一八町九反余、生姜栽培二町七反余・七島藺栽培三町八反余。
平田村
ひらたむら
[現在地名]鈴鹿市平田町・阿古曾町・平田中町・平田一―二丁目・平田新町・大池一―三丁目
弓削岡田村の南西、鈴鹿川右岸の河岸段丘上に位置する。「和名抄」鈴鹿郡枚田郷に結ぶ村名である。「神鳳鈔」に「内宮平田御薗五斗、十二月内宮同新御薗五斗、十二月」とある。平田兵庫頭系図(岐阜県古川正三氏蔵)によれば、永享七年(一四三五)平田喜国が将軍足利義教より、功によってこの地方に所領を授けられ、海善寺城(現亀山市)を築いた。
平田村
ひらたむら
[現在地名]鳥栖市平田町
山浦村の南西にある。北に高位段丘の丘陵を負い、南部は丘陵で限られる地溝状の平地に立地。文禄四年(一五九五)の豊臣秀吉朱印状写(鍋島家文書)に「平田」とある。枝村の薄尾村は南の洪積層低丘陵地にあり、古墳群跡がある。小封土・竪穴式石室・二体埋葬と特徴があり、古墳時代中期をくだらぬものとされ、
製鏡・勾玉・管玉・鉄剣などが出土。平地には古代条里が推定され、三十六の坪名が残る。
平田村
ひらたむら
[現在地名]三木市平田
大村の西に位置し、東は加佐村。中世は久留美庄に属する。天正七年(一五七九)九月一〇日の黎明、羽柴秀吉に包囲された三木城を救援すべく、毛利・雑賀・別府三軍の共同作戦(兵糧搬送)が実施された。魚住(現明石市)を出発した軍勢は石野を経由して大村坂から平田の谷衛好の城を攻め、また三木城からも打って出て激戦となったが、秀吉勢の奮戦により失敗した(別所長治記)。
慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる(「寛政重修諸家譜」など)。同年当村内の三木町人出作地が分離・独立して三木町の地方町平田町となる(延享二年「町方地方差別之訳言上書控」三木市有文書)。
平田村
ひらたむら
[現在地名]竹田市平田
稲葉川北岸にあり、南対岸は塩付村、北東は柿木村。直入郷平田名の遺称地。正保郷帳では長田郷に属し、田方三一二石余・畑方一〇一石余で、柴山有と注記される。幕末には上・中・下の三村に分れ、弘化物成帳では三村とも平田組のうち。上平田村は村位は上、免八ツ六分三厘、田一四八石余(一三町余)・畑四一石余(七町四反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田七升余(三反余)・開畑一石余(二町三反余)がある。中平田村は村位は上、免九ツ九分、田二八八石余(二四町四反余)・畑五六石余(八町七反余)・屋敷六石余(六反余)で、開田五斗余(二反余)・開畑二石余(四町四反余)がある。
平田村
ひらたむら
[現在地名]市原市平田
村上村の北西、養老川右岸に位置し、久留里道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二〇三石。安永四年(一七七五)の村明細帳(平田区有文書)では高三〇五石余・四〇町五反余で、本百姓四四・水呑一三、人数二五〇、馬一三。田肥は干鰯と近浦でとる蚶などを用いた。捉飼場であった。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数五七、幕府領と旗本朝比奈領。旧高旧領取調帳では幕府領三石余、朝比奈領三〇一石余。宝暦九年(一七五九)五井村とともに西広・村上・根田・惣社四村内に掘割をして用水を引き、潰れ地代として米一〇俵を出すこと、水路の橋普請を行うことなどを取決めているが、明和五年(一七六八)惣社村より地下水が堀に取られ毎年旱損になるとして埋樋にするか年貢を助成するかと訴えられ、当村などが助米を六俵増すことで内済している(惣社区有文書)。
平田村
ひらたむら
[現在地名]久美浜町字平田
佐濃谷川下流部の西側山麓に集落をつくる。川を挟んで三分村と向い合い、網野街道に沿って西は長柄・浦明に至る。西の裏山の各所に古墳がある。昔小字菅谷付近に七戸あり、しだいに現在の地に移住してきたと伝える(熊野郡誌)。
中世には田村庄に属したと推定される。慶長検地郷村帳に高四〇八・二二石「平田村」とみえ、延宝九年(一六八一)の延高で五一四石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宝暦一〇年(一七六〇)の平田村明細帳(渋谷家蔵文書)に「家数六十二軒、人数二百八十三人、牛十五疋」と記される。文化―文政(一八〇四―三〇)頃から嘉永―安政(一八四八―六〇)頃にかけて、三分・平田は冬仕事に根木掘(炭化木採取)をして但馬方面に売ったという。
平田村
ひらたむら
[現在地名]北区道場町平田
有馬川の右岸に位置する有馬郡の村。北は塩田村。享徳元年(一四五二)四月、有馬に湯治に来た京都相国寺の瑞渓周鳳は、一六日に知人の平田西堂に伴われて平田・松山から鎌倉谷へ遊山に出かけている(臥雲日件録)。慶長国絵図に村名がみえ、高二九七石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳も同高で、玄蕃(有馬豊氏)領。慶長六年(一六〇一)三田藩主有馬則頼領となったが、則頼が没したため翌七年には子の丹波福知山藩主有馬豊氏に引継がれ、元和六年まで同藩領。その後幕府領となり、正保郷帳には「平田村小村一つ有」とみえ、幕府領で高三七五石。延享三年(一七四六)に三卿の田安領となり幕末に至る。
平田村
ひらたむら
[現在地名]熊本市平田町
西を白川が南流し、北は十禅寺村、東は田迎手永の田迎村、南は近見村である。中世には神蔵庄に属し、元中三年(一三八六)二月一日の沙弥良清譲状案(詫摩文書)によれば、「神蔵庄平田村」地頭職が良清(詫磨宗政)より子息平田弥二郎親房に譲られている。慶長八年(一六〇三)の検地帳では田三二町八反五畝余(うち上田三〇町三反六畝余)・畠九町三反六畝余(うち上畑八町七反余)で、家数五四、男四二(うち年寄四・倅一〇)・女四一(うち年寄九・娘三)、馬二・牛一三である。
平田村
ひらたむら
[現在地名]相良町大江
海老江村の南東に位置し、萩間川の河口左岸に立地する。南は同川を境に相良町、東は駿河湾に面する。山際を田沼街道が通る。年月日未詳の平田寺領坪付(平田寺文書)に平田村とみえ、建武四年(一三三七)一〇月三日相良庄東方に属する当村などの田畠が平田寺の塔頭霊松庵に寄進されたという。文禄二年検地高目録では高五一三石余。
平田村
ひらたむら
[現在地名]松本市芳川平田
松本藩領出川組の一村。田川の下流周辺に早くから発達した村で、もと平田郷といわれた。平田は現在、本郷・茶屋・新茶屋の三集落に分れている。
「信府統記」によると「御朱印高五百三拾七石四斗七升」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は七八八石四斗一升七合三勺である。寛文年間(一六六一―七三)の水田は三六町七段三畝二七歩、畑は三四町一段五畝歩。
諏訪大明神があり「信府統記」によれば「諏訪大明神 地内東西十四間、南北二十四間、舞屋二間、三間」他に「八彦大明神、社地東西十一間、南北十二間、この二社縁起来由知レズ」とある。
平田村
ひらたむら
[現在地名]大刀洗町春日
筑後川支流の陣屋川中流右岸域に位置し、北東は小島村に接する。「高良玉垂宮神秘書」に大宮司居屋敷四一町の記載があり、その村付に「平田」二一町がみえるので、平田は高良社大宮司宗崎氏の所領の一部であった。天正一一年(一五八三)高良山(現久留米市)大宮司に給与されていた三原郡内の「平田」二一町が岩屋寺(現大分市)免田の替地として円寿寺(現同上)に寄進されている(同年八月一四日「大友氏奉行人連署奉書」円寿寺文書/大分県史料九)。本高は三五〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高五二〇石・役高三五四石。
平田村
ひらたむら
[現在地名]八幡市八幡平田
馬場町の半町東に位置する。近世初期の八幡宮境内古図(「石清水八幡宮史料叢書」所収)は平田町として数軒の家並を描き、また巡検道が記され、町東端の石橋から東方の「榎シヤウジ」で涙川を越え、蜻蛉尻川を「コンゼンポウ橋」で渡り、「字サガリ」から下奈良の正光寺門前までの一千五九間の道程である。
慶長五年指出帳(「石清水八幡宮史」所引)によれば、地子負担の町家二三軒、石清水八幡宮香花座神人の兵衛(二・八石)・同甚大夫(四・五八石)・同掃部(七・二石)も居住していた。香花座神人の職務は「安居神事の節、頭屋に来、地祭り又頭人を祓なと修す、常に社士の家々に定る者ありて、其家に来り竈祓なとする、祠官家に於ても古来の例とす、又毎年二月十一日初卯日、香華櫃三荷神宝の内也、抹香を御本宮に献する古式なり、又常日御本宮楼門下の西に出仕して香を焼きて、参詣の輩の不浄を清めさせて、蘇民将来の守を授る也」(男山考古録)とあることから、中世以来の陰陽師の伝統をもつ者と考えられる。
平田村
ひらたむら
[現在地名]耶馬渓町平田
山国川中流部西岸にあり、東は多志田村(現本耶馬渓町)、西は三尾母村、南は戸原村。貞治三年(一三六四)一月一〇日の佐田経景宛の斯波氏経感状(佐田文書)に「豊前国平田宮林合戦之時、致軍忠之由」とみえる。元和年間(一六一五―二四)頃日田郡や玖珠郡への走百姓が一二人確認される(「走百姓調査」松井家文書)。小倉藩元和人畜改帳では二筆に分けて記され、「御蔵納 但古城跡分」高七石余があり、合計高五八三石余、家数一〇四(うち百姓三六・名子二四・牢人二・神主二・寺一・大工一)・人数二六〇、牛二〇・馬二一とある。
平田村
ひらたむら
[現在地名]佐敷町手登根・富祖崎・仲伊保
佐敷村の北東に位置する。「おもろさうし」巻一四の三八に「一 ひらたみちゑりきよか(平田の御宣り子〔神女〕が)/ことなおし おれわちへ(事を直しに 天降りされて)/さやはのすむさらす けらへて(斎場御嶽の澄む清水〔井戸〕を整備して)/又 ひらたみちゑりきよか(平田の御宣り子が)/ことなおし おれわちへ(事を直すために 天降りしたまいて)/さやはのてたなみ けらへて(斎場の梯梧並木を整備して)」とある。「琉球国由来記」には平田ノロはみえないが、オモロでは「みぢゑりきよ」という名の平田の神女がいる。
平田村
ひらだむら
[現在地名]大山町平田
上万村の西にあり、西は日本海に面する。かつては良港で船の出入りも多かったという。尾高城(現米子市)城主杉原盛重の死後、その後を継いだ元盛は天正一〇年(一五八二)弟景盛に殺害され、そのため景盛は同年八月一六日毛利氏に「平田」の地で討たれたという(八月二〇日「小早川隆景書状」吉川家文書)。ただし元盛殺害と杉原氏滅亡の一件を天正一二年とする説もあり(陰徳太平記)、また景盛の死んだ地を出雲平田の大林寺とする伝承など諸説がある。藩政期の拝領高は一〇一石余、本免は五ツ一分。秋田氏の給地があった(給人所付帳)。
平田村
ひらたむら
[現在地名]君津市平田
西日笠村の北、小糸川上流左岸に位置する。西は上総丘陵高宕山を越え天羽郡田倉村(現富津市)。西日笠村の西に飛地がある。元禄郷帳に村名がみえ、高八一石余。寛永一八年(一六四一)から市宿村と同じく旗本曾根領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二七。字上井戸に山神社、字上畑に真言宗智山派国分寺がある。
平田村
ひらたむら
[現在地名]彦根市平田町
後三条村の南に位置し、朝鮮人街道が通る。天正一〇年(一五八二)一二月筒井順慶は、羽柴秀吉が入った「サヲ山」(佐和山城)から一里南の「ヒラタト云所」に陣を取っている(「多聞院日記」同月一三日条)。慶長高辻帳に村名がみえ高一千六三七石余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で六ツ四分。
平田村
ひらたむら
[現在地名]倉敷市平田
大島村の北に位置し、北部を鴨方往来が通る。正保郷帳に枝村として記す皇太国村は北部の幸田に相当すると思われる。「備中集成志」古蹟之部は「カウダイコクト云所有、文字ハ皇大后宮ト書テ里民用之、所以不知」とするが、「備中誌」は「往昔大皇大后宮の職地なるか云伝へ残れる也」と記す。天正(一五七三―九二)の宇喜多開発により南に村域を広げていったものと思われる。寛永備中国絵図では高一千五一石余、岡山藩領。享保六年(一七二一)の「備陽記」によれば家数九二・人数五三三、田畠六二町四反余、鴨方往来に茶屋があり、村西に観音堂があった。
平田村
へだむら
[現在地名]宇検村平田
佐念村の南西方に位置し、集落は焼内湾のやや広い入江(平田湾)に臨む。屋喜内間切宇検方のうち。ただし正保琉球国絵図には「西間切之内へた村」とみえ、また湾に突き出た「大たま崎」(現タエン崎であろう)が記される。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳にも西間切一一ヵ村のうちとして「へた村」とあり、誤記でなければ後代に間切の範囲に変更があったことになる。
平田村
ひらたむら
[現在地名]三島市平田
境川下流地帯の東岸に位置し、北は堀之内村、西は駿河国駿東郡久米田村(現清水町)。北条氏所領役帳に「平田」とみえ、渡辺弥八郎の所領二一貫五〇〇文が青木と当地に伏せてあり、大普請の時は半役と定められていた。また伊豆衆の清水康英の所領三七貫七〇〇文があったほか、大珠寺分の寺領五貫文が当地に伏せてあった。
平田村
ひらたむら
[現在地名]益城町平田
東は下陣村、西は迫村と接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は沼山津手永に属した。正保郷帳では田四三九石五斗・畑三六〇石六斗余。「国誌」には「堺村木轡村曲手村堤村畔林村所司宮村等小村アリ」とあり、木轡村は「中古土中ヨリ金ノ轡ヲ掘出セシ故ニ金轡村ト云」と記す。文化八年(一八一一)の沼山津手永略手鑑では高一千一六八石三斗余、田三六町四反八畝余・畑六四町八反三畝余で、石工札・家根葺札各三、木挽札二、揚酒本手・商札・水車・大工札各一がある。
平田村
ひらたむら
[現在地名]高根沢町平田
西高谷村の東、西部を五行川が、東部を井沼川が南流する。今宮祭祀録(西導寺蔵)には平田郷とあり、正安三年(一三〇一)から天正四年(一五七六)にかけ同郷の岡本修理亮・舟生善六などが今宮神社(現氏家町)祭礼の頭役を勤めている。宇都宮氏旧臣姓名書には上平田村として加藤姓一一人、下平田村として加藤姓三人・鈴木姓三人がみえる。
平田村
ひらたむら
[現在地名]小矢部市平田
平桜村の北東、渋江川と同川支流本堂川に挟まれた平地に立地。北東境で両川が合流。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数一三、高木組に属する。正保郷帳では高六八一石余、田方四四町八反余・畑方六反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五六一石・免四ツ四歩(三箇国高物成帳)。
平田村
ひらたむら
[現在地名]木次町平田
北流する斐伊川が西に向きを変えた上流右岸に位置し、南の対岸は石村、北は槻屋村、西は湯村、東は尾原村。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高二一八石余、寛文四年(一六六四)の本田高二〇六石余・新田高一一石余。「雲陽大数録」では高一三〇石。
平田村
ひらたむら
[現在地名]茨木市平田一―二丁目・平田台
十一村の北に位置し、東は安威川に面する。中世溝杭庄に含まれ、嘉吉元年(一四四一)一二月日付の溝杭信幸譲状(石清水文書)には、溝杭庄内にあった妙法寺の寺領として「平田前弐段」が記される。江戸時代前期は溝杭村の五小村の一つで、元禄郷帳にも「溝杭平田村」とあるが、同じく小村の一つである十一村の属邑としてとらえられ、領主も江戸時代を通して十一村に同じ。
平田村
ひらたむら
[現在地名]明日香村大字上平田・中平田・下平田
野口村の西方に位置し、上平田・下平田・中平田・南平田に分れる。文禄検地による村高は四八八・五石。検地奉行は石田正澄。近世を通じて高取藩領。のち四八九・四石。元禄一〇年(一六九七)奈良奉行の調査で高松塚古墳が文武天皇陵に比定された。享保一七年(一七三二)四月七日、京都町奉行本多筑後守の手で間数改を実施、「此陵地廻り弐拾五間之内雑人牛馬等猥ニ入間敷候、掃除無油断可申付候、依之年貢免許之事」と定めた。
平田村
ひらたむら
[現在地名]市川市平田一―四丁目
市川新田の東にある。佐倉道沿いに集落が形成され、東は八幡村。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高五八石余、幕府領。以後同領で幕末に至った。「葛飾誌略」によると家数はおよそ四〇。宿村大概帳によれば佐倉道の村内往還長は二三四間、道幅は二間から二間半。畑がちの村方で用水は字衣川から引取り、流末は隣村の小川へ落していた。
平田村
ひらたむら
[現在地名]八女市平田
津江村の北に位置し、山ノ井川が流れる。寛文四年(一六六四)の有馬頼利領知目録(寛文朱印留)に平田村とみえる。本高は二六三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高四三〇石・役高五五六石余。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高五五八石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田二三町四反余・畑田七町三反余・畑三町七反余・居屋敷五反余。
平田村
ひらたむら
[現在地名]勝浦市平田
新戸村の南、夷隅川上流域に位置し、大多喜往還が通る。元禄郷帳に新戸村枝郷の頭注つきで村名がみえ、高九〇石。天和二年(一六八二)以降の領主の変遷は勝浦村に同じであったとみられる。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一〇二石余、家数一四。文政一〇年(一八二七)の岩槻藩領村々書上帳では田四町七反余・畑一町一反余、新田二町余、年貢は米三七石余・永一貫四二一文余と野手役の真木五八束で、ほかに醤油役永三五文余を納入。
平田村
ひらたむら
[現在地名]美作町平田
吉野川を挟んで海内村の北にあり、西は荒木田村など。正保郷帳に村名がみえ、田六〇石・畑六六石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高三〇石余・開高一石余、村位は上。津山藩森氏断絶後は幕府領、元禄一四年甲斐甲府藩主徳川綱豊領、寛政六年(一七九四)代官支配のあと播磨龍野藩預、天保七年(一八三六)石見浜田藩領(「美作国郷村支配記」など)。
平田村
ひらたむら
[現在地名]蒲郡市平田町
牧山村と新居方村の間に位置する。「豊岡村誌」に「往古牧田村ト云フ。明暦三年ノ頃分村シテ、其ノ一ヲ西牧山村ト称ス。伝ヘ云、牧田村ト称セシ頃、金沢藩士五六名当地ニ来リ居住シテ平田村ト称スト」と伝えている。慶長六年(一六〇一)以前は池田三左衛門領、同年深溝西郡藩領、同一七年西郡松平氏領、明暦元年(一六五五)松平清吉領、同三年上之郷松平氏領、享保元年(一七一六)吉田藩領、安永三年(一七七四)田沼氏の相良藩領、天明七年(一七八七)幕府領、享和三年(一八〇三)吉田藩領となって明治に至る。
平田村
ひらたむら
[現在地名]田原本町大字平田
初瀬川西岸、大木村の北に所在。慶長郷帳の村高一四四・六九三石で御番衆領。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、のち二割半無地高増政策で村高一八一・五八六石。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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平田〔村〕
ひらた
福島県南東部,阿武隈高地にある村。 1955年蓬田 (よもぎだ) ,小平の2村が合体して成立。村域の大部分は起伏の激しい山地で,主産業は農林業。米のほかタバコ,木材を産し,畜産も行われる。西部には北須川をせきとめた千五沢 (せんござわ) ダム (母畑ダム) があり,東部に国道 49号線が通る。面積 93.42km2。人口 5826(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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