井家庄(読み)いのいえのしよう

日本歴史地名大系 「井家庄」の解説

井家庄
いのいえのしよう

井上庄とも書く。北は津幡つばた川流域、南は森下もりもと川流域に挟まれた地域に比定される。明治二二年(一八八九)成立の井上いのうえ村を遺称地とし、「和名抄」記載の加賀郡井家郷の郷名を継ぐものとみられる。近世の井上庄は現津幡町の川尻かわしりしよう・津幡・倉見くらみ以南、富田とみた竹橋たけのはし上藤又かみふじまた大窪おおくぼ以西、現金沢市利屋とぎや町以北の「北方」と、現金沢市の八田はつた町・南森本みなみもりもと町以南、大場おおば町・千木せぎ町・法光寺ほうこうじ町・柳橋やなぎばし町以東、田島たのしま町以北の「南方」および現内灘うちなだ町全域を含み(三州志)勧修寺・二条両家の係争地となった領家職半分は「南方」をさすと推定されているが、南北朝期には近世の笠野かさの(現津幡町)に相当する地域も庄域に含まれており(建武三年八月三〇日「足利尊氏奏状」京都御所東山御文庫記録)、近世の井上庄が中世の庄域をそのまま継承したとはみなしがたい。

〔伝領〕

建久元年(一一九〇)五月一三日の源頼朝御教書(「吾妻鏡」同月一二日条)に、井家庄地頭都幡小三郎隆家が所務を押領したと後白河法皇より告発され、幕府の譴責をうけているのが初見。元久二年(一二〇五)六月五日の関東下知状(尊経閣文庫所蔵文書)で同庄地頭代官の自由狼藉を停められているが、このときの地頭は未詳。「白山宮荘厳講中記録」の安貞二年(一二二八)の本宮臨時祭次第に井家庄上総公子息犬子殿がみえる。当庄は建久二年一〇月の長講堂所領注文(島田文書)にみえるように、後白河院領の一つとして長講堂領に編入されていた。当庄は宣陽門院の異父兄(母は丹後局)にあたる平業兼(尋蓮)が相伝していた所領で、先に延勝えんしよう(現京都市左京区)に寄進されたものが後白河院領として長講堂領に編入、宣陽門院に継承されたものである。業兼の保持した預所職は貞応元年(一二二二)八月嫡男業光に譲られ(沙弥尋蓮譲状案「御遺言条々」勧修寺家文書)、業光は嘉禎三年(一二三七)二月八日妹の光蓮尼(勧修寺経俊の妻)に譲った(「平業光・光蓮連署譲状案」御遺言条々)勧修寺家代々知行之証文(勧修寺家文書)によれば、嘉禄二年(一二二六)六月一九日付の紙数九枚に及ぶ長文の六波羅下知状があったといい、この頃当庄をめぐって相論のあったことが察せられるが、内容は不明。

前掲業光・光蓮連署譲状案によれば、当時の「ゐのいゑの御庄」は南方・北条・中条ちゆうじよう(現津幡町)からなり、年貢のうち一〇石は、業光が邸内に設けて祖母丹後局(高階栄子)の菩提を弔った無対光院の供料に充てられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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