勧修寺(読み)カジュウジ

デジタル大辞泉 「勧修寺」の意味・読み・例文・類語

かじゅう‐じ〔クワジウ‐〕【勧修寺】

京都市山科やましな区勧修寺仁王堂町にある真言宗山階やましな派の大本山。山号は亀甲山。開創は昌泰3年(900)、開基醍醐だいご天皇開山承俊。延喜5年(905)定額寺となる。代々法親王門跡寺院山科門跡)として栄えた。勧修寺縁起など、多数の古文書所蔵。かんじゅじ。かじゅじ。かんしゅうじ。

かんしゅう‐じ〔クワンシウ‐〕【勧修寺】

かじゅうじ(勧修寺)

かんじゅ‐じ〔クワンジユ‐〕【勧修寺】

かじゅうじ(勧修寺)

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精選版 日本国語大辞典 「勧修寺」の意味・読み・例文・類語

かじゅうじクヮジウジ【勧修寺】

  1. 家名(姓氏)の一つ。
  2. [ 一 ] 藤原北家冬嗣の孫高藤を祖とする一門(高藤流)。高藤の男定方が、勧修寺(京都山科)の西塔を建てたことにより、同寺を氏寺としてあおぐ、高藤の流れをくむ一門が形成され、これが勧修寺一流(一門)と称された。一門の中から、嫡流とされる甘露寺のほか、葉室・万里小路・勧修寺・清閑寺・中御門・坊城などの家流が生じた。この一門には、蔵人頭や弁官などの実務官人として、重用された者が多いのが特徴とされる。
  3. [ 二 ] [ 一 ]の勧修寺一門は、鎌倉後期の資経の次代に分かれて、一男為経が甘露寺家の流れを嗣ぎ、四男資通が万里小路家を興すが、そこで二男の経俊を祖とする流を、勧修寺家とよぶ。室町期以来、経成・教秀・晴豊・光豊、江戸期の経広・経逸など、武家伝奏となったものはきわめて多く、公武関係の中枢にあったことが知られる。近世の家格は名家。家祿は七〇八石。

かんじゅ‐じクヮンジュ‥【勧修寺】

  1. [ 1 ] 京都市山科区にある真言宗山階派の大本山。山号亀甲山。昌泰三年(九〇〇醍醐天皇生母藤原胤子の願で創建。承俊律師開山。定額寺に列する。東密、観修寺派の本拠。一八代以降、法親王を戴き、宮門跡を称した。通称山科門跡(やましなもんぜき)。かじゅじ。かじゅうじ。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙 京都市山科区にある勧修寺のあるあたりから産出した安ものの茶。勧修寺茶。
    1. [初出の実例]「山科の里芋に勧修寺(クンジュジ)のせんじ茶して」(出典:浮世草子西鶴織留(1694)二)

かじゅう‐じクヮジウジ【勧修寺】

  1. かんじゅじ(勧修寺)[ 一 ]

かじゅ‐じクヮジュ‥【勧修寺】

  1. かんじゅじ(勧修寺)

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日本歴史地名大系 「勧修寺」の解説

勧修寺
かじゆうじ

[現在地名]山科区勧修寺仁王堂町

亀甲山と号し、真言宗山階派大本山。本尊千手観音。「かんしゅうじ」と通称する。山科出身の醍醐天皇生母藤原胤子の祖父、宇治うじ郡大領宮道弥益の邸を寺としたのが始まりとされる(勧修寺縁起ほか)

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建〕

時期には諸説があり、「延喜(醍醐)帝即位御願、自醍醐寺以前建立也」(勧修寺長吏次第)とも、「建立本願、右大臣定方、延喜四年に立る」(雍州府志)とも、醍醐天皇が母后の御願を継承、即位後の昌泰三年(九〇〇)胤子の弟右大臣定方に建立せしめたともいう。「扶桑略記」延喜五年(九〇五)九月二一日条に「以勧修寺、勅為定額寺」とあり、年分度者二人を置き、寺としての地位を確立している。このときの太政官符(類聚三代格)には「贈皇后(胤子)存生之日為護天皇陛下建立也」とあり、胤子死去は寛平八年(八九六)であるから、それ以前に建立されていたことになる。延長三年(九二五)八月には勧修寺で胤子供養の修法が営まれている(「扶桑略記」ほか)

〔堂塔の整備〕

「勧修寺旧記」によると、まず御願堂が胤子によって承俊を行事として建立。塔は承平三年(九三三)には造立されていたらしく、一重多宝塔で御願堂の東に位置。本堂は南に孫庇のある三間四面の檜皮葺で、「伝云、件堂彼弥益之鷹屋之跡」といい、天喜年中(一〇五三―五八)に焼亡。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「勧修寺」の意味・わかりやすい解説

勧修寺(かじゅうじ)
かじゅうじ

「かんしゅうじ」ともいう。京都市山科(やましな)区勧修寺(かんしゅうじ)仁王堂町にある真言宗山階(やましな)派大本山。亀甲山(きっこうざん)と号し、通称は山科門跡(もんぜき)とよばれる。醍醐(だいご)天皇の勅願寺で、承後律師の開基になる。当寺第15世寛胤(かんいん)法親王(後伏見(ごふしみ)天皇の皇子)が入寺してから、代々宮門跡寺院となり、明治維新で第32世済範(さいはん)法親王が還俗(げんぞく)して山階宮(やましなのみや)家をたてるまで続き、世に勧修寺門跡とも山階宮ともよばれていた。門跡寺院としての格式を誇るとともに、学問的にも名門の寺院で、905年(延喜5)定額寺(じょうがくじ)に列せられ、年分度者(ねんぶんどしゃ)を賜り、真言・三論兼修の道場でもあった。開基以来とくに真言密教の事相に秀でた人々が入住し、第7世寛信は小野流の一派勧修寺流をたてその本拠とした。

 現在の堂宇は江戸時代再建のものが多く、なかでも書院(国重要文化財)は江戸初期の書院造の典型で、襖絵(ふすまえ)は土佐派の画家によるものである。寺宝も蓮華蒔絵経筥(れんげまきえきょうばこ)(国重要文化財)、刺繍釈迦如来(ししゅうしゃかにょらい)説法図など秀作が多い。境内には氷池園(ひょうちえん)とよばれる池泉庭園があり、平安の様式を残している。また、書院前庭には勧修寺型灯籠(とうろう)と樹齢750年というハイビャクシンが知られる。

[眞柴弘宗]


勧修寺(かんしゅうじ)
かんしゅうじ

勧修寺

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改訂新版 世界大百科事典 「勧修寺」の意味・わかりやすい解説

勧修寺 (かんしゅうじ)

京都市山科区,真言宗山階派の大本山。山号は亀甲山。〈かじゅうじ〉〈かんじゅじ〉とも。醍醐天皇の生母藤原胤子のため,承俊律師を開山に,生母の祖父の宇治郡郡司宮道(みやじ)弥益の邸址に寺が建てられた。これが当寺の開創で,その年代は900年(昌泰3)説が有力。密教の蘊奥(うんのう)をきわめた7代寛信のときから,当寺は真言小野流のうち勧修寺流の本拠となり,また鎌倉時代には代々法親王が入寺する宮門跡寺院となるなど,平安・鎌倉期に皇室や藤原氏の保護を得て大いに栄えた。応仁の乱で兵火にかかって荒廃し,近世に復興していまの寺観を整えた。現存の主な建物は17世紀後半のもの。本堂は霊元天皇の仮内侍所,書院(重文)と宸殿は明正天皇の旧殿を賜って移建したもので,宮廷建築の典雅さをしのばせる。庭園は老樹が池を囲み巧妙なこしらえで,その内に15勝景を収め,古来名園とされる。
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百科事典マイペディア 「勧修寺」の意味・わかりやすい解説

勧修寺【かんしゅうじ】

〈かじゅうじ〉〈かんじゅじ〉とも。京都市山科区にある真言宗山階派の大本山。本尊千手観音。醍醐天皇の勅願寺と伝える。朝廷,藤原氏の帰依が厚く,壮大な寺院だったが数度の火災で縮小。江戸時代に復興された。書院は1697年明正天皇の旧殿を移したもので,江戸初期の書院造の好例。
→関連項目勧修寺繍帳山科山科[区]

勧修寺【かじゅうじ】

勧修寺(かんしゅうじ)

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世界大百科事典(旧版)内の勧修寺の言及

【勧修寺家】より

…醍醐天皇の外祖父内大臣藤原高藤を始祖とする。高藤の男右大臣定方の建てた京都山科の勧修寺(かんしゆうじ)を一門の氏寺とし,一門中官位第一の者を長者として結束したので,この寺号が一門の総称となった。院政時代に入って,為房・顕隆父子が白河院近臣として活躍してから急速に繁栄し,代々太政官の弁官に任ぜられる一方,上皇や摂関に仕えて院中,家中の実務をとり,弁官家とか名家とよばれた。…

※「勧修寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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