亀甲山と号し、真言宗山階派大本山。本尊千手観音。「かんしゅうじ」と通称する。山科出身の醍醐天皇生母藤原胤子の祖父、
〈京都・山城寺院神社大事典〉
時期には諸説があり、「
「勧修寺旧記」によると、まず御願堂が胤子によって承俊を行事として建立。塔は承平三年(九三三)には造立されていたらしく、一重多宝塔で御願堂の東に位置。本堂は南に孫庇のある三間四面の檜皮葺で、「伝云、件堂彼弥益之鷹屋之跡」といい、天喜年中(一〇五三―五八)に焼亡。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
「かんしゅうじ」ともいう。京都市山科(やましな)区勧修寺(かんしゅうじ)仁王堂町にある真言宗山階(やましな)派大本山。亀甲山(きっこうざん)と号し、通称は山科門跡(もんぜき)とよばれる。醍醐(だいご)天皇の勅願寺で、承後律師の開基になる。当寺第15世寛胤(かんいん)法親王(後伏見(ごふしみ)天皇の皇子)が入寺してから、代々宮門跡寺院となり、明治維新で第32世済範(さいはん)法親王が還俗(げんぞく)して山階宮(やましなのみや)家をたてるまで続き、世に勧修寺門跡とも山階宮ともよばれていた。門跡寺院としての格式を誇るとともに、学問的にも名門の寺院で、905年(延喜5)定額寺(じょうがくじ)に列せられ、年分度者(ねんぶんどしゃ)を賜り、真言・三論兼修の道場でもあった。開基以来とくに真言密教の事相に秀でた人々が入住し、第7世寛信は小野流の一派勧修寺流をたてその本拠とした。
現在の堂宇は江戸時代再建のものが多く、なかでも書院(国重要文化財)は江戸初期の書院造の典型で、襖絵(ふすまえ)は土佐派の画家によるものである。寺宝も蓮華蒔絵経筥(れんげまきえきょうばこ)(国重要文化財)、刺繍釈迦如来(ししゅうしゃかにょらい)説法図など秀作が多い。境内には氷池園(ひょうちえん)とよばれる池泉庭園があり、平安の様式を残している。また、書院前庭には勧修寺型灯籠(とうろう)と樹齢750年というハイビャクシンが知られる。
[眞柴弘宗]
京都市山科区,真言宗山階派の大本山。山号は亀甲山。〈かじゅうじ〉〈かんじゅじ〉とも。醍醐天皇の生母藤原胤子のため,承俊律師を開山に,生母の祖父の宇治郡郡司宮道(みやじ)弥益の邸址に寺が建てられた。これが当寺の開創で,その年代は900年(昌泰3)説が有力。密教の蘊奥(うんのう)をきわめた7代寛信のときから,当寺は真言小野流のうち勧修寺流の本拠となり,また鎌倉時代には代々法親王が入寺する宮門跡寺院となるなど,平安・鎌倉期に皇室や藤原氏の保護を得て大いに栄えた。応仁の乱で兵火にかかって荒廃し,近世に復興していまの寺観を整えた。現存の主な建物は17世紀後半のもの。本堂は霊元天皇の仮内侍所,書院(重文)と宸殿は明正天皇の旧殿を賜って移建したもので,宮廷建築の典雅さをしのばせる。庭園は老樹が池を囲み巧妙なこしらえで,その内に15勝景を収め,古来名園とされる。
執筆者:藤井 学
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…醍醐天皇の外祖父内大臣藤原高藤を始祖とする。高藤の男右大臣定方の建てた京都山科の勧修寺(かんしゆうじ)を一門の氏寺とし,一門中官位第一の者を長者として結束したので,この寺号が一門の総称となった。院政時代に入って,為房・顕隆父子が白河院近臣として活躍してから急速に繁栄し,代々太政官の弁官に任ぜられる一方,上皇や摂関に仕えて院中,家中の実務をとり,弁官家とか名家とよばれた。…
※「勧修寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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