井上庄
いのうえのしよう
山科家領荘園。その遺称と推定される岩倉市井上町から、その西方の一宮市千秋町佐野辺りに比定される。荘名としての初見は「建内記」嘉吉元年(一四四一)一二月九日条の「尾州井上庄大円寺中怡西堂送状」であるが、文明三年(一四七一)一〇月付の山科内蔵頭家雑掌申状案(「山科家礼記」第二)に「尾張国井上庄領家職号山科方者、後白河院以来当家旧領也」とあり、山科氏の祖後白河法皇の寵妃丹後局の子教成以来の所領との山科氏の主張によるならば、当庄の成立は一二世紀末にさかのぼることになろう。
正長元年(一四二八)以降は「尾州井上大円寺領山科方」、または単に「大円寺領」として「建内記」に散見する。
井上庄
いのうえのしよう
現井之上を遺名とし、「和名抄」所載の山梨郡井上郷の地に成立したとみられる。金川扇状地の先端部に位置し、古謡に「甲斐のくろ駒井の上そだち」(甲斐国志)と歌われるように、古くは黒駒牧に隣接して馬の飼育が盛んに行われたという。
建保元年(一二一三)五月七日、和田義盛の乱の論功行賞が行われ、大須賀四郎胤信に甲斐国井上の地が与えられた(吾妻鏡)。「君島系図」では、これを「井上庄」と表現しているが、庄と記すのは系図のみで、実際に庄園であったかどうかは定かではない。
井上庄
いのうえのしよう
応永六年(一三九九)の興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)の山辺郡に「一乗院方 六条井上庄十町」とあり、六条井上庄は興福寺一乗院領荘園と考えられ、興福寺寺門段銭・段米賦課面積が一〇町である。
康平元年(一〇五八)の尼善妙解案(東大寺図書館本具舎抄裏文書)には、尼善妙相伝の私領について「合参拾参町伍段者在大和国山辺郡北郷六条村字井上庄」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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