改訂新版 世界大百科事典 「勧修寺家」の意味・わかりやすい解説
勧修寺家 (かじゅうじけ)
藤原氏北家から出た公家。中世の文献には〈くわんしゆし〉とも表記する。醍醐天皇の外祖父内大臣藤原高藤を始祖とする。高藤の男右大臣定方の建てた京都山科の勧修寺を一門の氏寺とし,一門中官位第一の者を長者として結束したので,この寺号が一門の総称となった。院政時代に入って,為房・顕隆父子が白河院近臣として活躍してから急速に繁栄し,代々太政官の弁官に任ぜられる一方,上皇や摂関に仕えて院中,家中の実務をとり,弁官家とか名家と呼ばれた。為房の後は為隆・顕隆(葉室家の祖)の二流に分かれたが,為隆の孫経房が源頼朝の信任を得て朝幕間に重きをなし,さらに後嵯峨院中に執事・執権が置かれ,伝奏・評定衆が常置されてからは,葉室および吉田・坊城などの勧修寺流諸家がこれらの要職を占めた。そのうち経房の6世の孫経顕が北朝の重臣として活躍し,後勧修寺内大臣と称してから,その子孫が勧修寺を家号とするに至った。後柏原天皇の外祖父教秀は経顕4世の孫,後陽成天皇の外祖父晴右は8世の孫,仁孝天皇の外祖父経逸は18世の孫で,江戸時代には家格は名家(旧家,内々),家禄は700余石,勧修寺一門中抜群の禄高である。明治に入って華族に列し,伯爵を授けられた。なお江戸時代には同家に,甘露寺,葉室,万里小路(までのこうじ),清閑寺,中御門(なかみかど),坊城,芝山,池尻,梅小路,岡崎,穂波,堤の諸家を加えた13家を総称して勧修寺家ともいい,当時の名家の過半を占めた。また勧修寺一門の廷臣は,為房の《大記》をはじめ,経房の《吉記》,経俊の《吉黄記》,経長の《吉続記》など,重要な日記を多く残しており,その記述は実務官僚としての一門の性格をよく反映している。現在京都大学文学部に蔵する〈勧修寺家文書記録〉には,為房の自筆日記をはじめ,近世に至る貴重な文書や記録を収めているが,経房,資経,経俊,定資,経顕の各遺領処分状には,合わせて20ヵ所前後の所領が載せられている。
→甘露寺家 →中御門家 →葉室家 →坊城家
執筆者:橋本 義彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報