伊勢湾・三河湾(読み)いせわん・みかわわん

日本歴史地名大系 「伊勢湾・三河湾」の解説

伊勢湾・三河湾
いせわん・みかわわん

伊勢湾は伊勢海ともいう。太平洋が北に深く入って、南の志摩しま・東南の渥美・東の知多の三半島に囲まれ、南北六〇キロ、東西三〇キロに及ぶ大湾。志摩半島と渥美半島を結ぶ湾口の幅は一二キロ、知多半島と渥美半島の間には師崎もろざき水道・中山なかやま水道があり、知多半島東の三河湾に通じる。知多半島と渥美半島に抱かれた三河湾は、東を渥美湾、西を知多湾ともいい、広さ五三九平方キロ。湾口にはしの島・日間賀ひまか(知多郡南知多町)佐久さく(幡豆郡一色町)などが浮ぶ。両湾とも本州中央部に位置し、古来から海上交通に重要な役割を果してきた。

〔古代〕

古く伊勢国は「常世の浪の重浪寄する国」「百船の度会の国」といわれるが、伊勢湾は重要な海運の海で、対岸の渥美半島突端の伊良湖いらご(渥美郡渥美町)は「伊勢国伊良湖」とよばれるほど、伊勢と三河は海路で深く結び付いていた。「神鳳鈔」によれば碧海あおみ郡神明社による奉納物が和泉いずみ御薗に集められ、海路を伊勢に運ばれている。藤原宮跡(奈良県橿原市)からは佐久島や篠島からの木簡が発見され、調や御贄が海路で都や伊勢神宮に運ばれたことを推察させる。「万葉集」にも、知多半島の先端近くの伊勢湾側の須佐すさ(南知多町)をさすと思われる「すさの入江」の歌があり、また持統太上天皇三河御幸の歌もある。大化改新の詔に、東国から大和に行く者が馬を三河・尾張の住民に託していることがみえるが、これも海上航路をとったことをうかがわせる。奈良時代には、東国から大和に入るには、陸路を尾張から迂回するより、三河湾・伊勢湾を通ったほうがはるかに近いので、利用されたと思われる。

平安時代には、公租・荘園年貢の輸送などで海運の利用が多くなる。三河南岸の国府の港すなわち御津みと(現宝飯郡御津町)から出帆、伊良湖を経て伊勢の阿濃津あのつ(現津市)に陸揚げし、鈴鹿すずか(現鈴鹿市)越で京都に運んだと思われる。輸送の運賃は、「延喜式」(主税上)によれば三河から米一石(現量で約四斗)が一六・二束で、陸送と比べかなり有利であった。「延喜式」によると志摩国の国分寺の費用は尾張・三河両国の正税をあてている。また建久年間(一一九〇―九九)三河国には饗庭あえば御厨・伊良湖御厨・橋良はしら御厨などの伊勢神宮領があったが、伊勢湾を囲む志摩・伊勢・尾張・三河は一海運圏をなしていたと考えられる。

荘園年貢を輸送するため荘園内に積出港が設けられ、貨物を取扱う邸家つやが起こって中世の問丸のもととなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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